第十話 秘密の館。
どんなに恐ろしくても、逃げる為に目を閉じてはいけないと思う。そう思ってもまぶたは重く下がっていく。
「そろそろ声も出せないでしょう。〝百華の館〟には、悲鳴などという無粋なものは似合いませんからねぇ。美しい華が最初に鳴くのはご主人様の籠の中、というのが美学というもの。……さて。女中を呼びましょうねぇ」
店主が手を二度叩く。少ししても何も変わらない。もう一度手を叩いても、何も起こらない。
「おや? おかしいですねぇ」
訝し気な顔をして、店主が自ら扉を開けて出て行ってしまった。逃げるなら今しかないと、手に力を込めて長椅子のひじ掛けを掴む。
震える手に力が入らなくても、絶望している時間はない。とにかく逃げなければ。
「……っ……」
指先に意識を集めると、少しずつ手に力が戻ってきた。何故か指先に白い光の粒が集まっていく。
この光は何なのかと思った時、音を立てて扉が開き店主が走り寄って来た。長椅子に沈んでいた私を片腕に抱える。
続いて扉から入ってきたのは、黒い帽子に黒い布の仮面をつけた全身黒づくめの男。手には剣を携えている。
「剣を捨てなさい。この可憐な華の命が惜しいのならね」
店主は私の喉に短剣を突き付けて、じりじりと窓際へと近づいていく。抵抗したくても、体は全く動かない。ちくりと針で刺されたような痛みの後、流れる血の感触が喉を伝う。仮面の男は剣を床に投げ落とした。
「そのまま動かないで下さ――」
「イヴェット!」
店主の言葉をかき消して、続いて部屋に入ってきたのは黒い男装姿のマリーだった。マリーの手にも剣が握られている。
マリーの出現に驚いたのか、短剣を突き付ける店主の手が緩んだ。
「!」
瞬きの後、私は仮面の男の片腕に抱かれ、店主の頭は男の手で壁に叩きつけられていた。
「イヴェット、大丈夫か?」
名前を呼ばれても、舌が動かないので答えることができない。そもそも、この男性は誰なのか。気絶した店主が壁際で崩れ落ちていく。
「マリー! 頼む!」
仮面の男の手で私は長椅子に横たえられ、駆け寄って来たマリーが私の服を緩めてあちこちを確認していく。
「イヴェット、何か薬を飲まされましたか?」
薬ではない。そう答えたくても口が開かない。気付いてほしいと、視線をテーブルの丸い陶器へと向けた。
「アルト! その香炉です!」
マリーの叫びに応じて男が陶器を倒すとテーブルの上に灰が広がり、中から炭が現れた。男は手近な花瓶を手に取って、花ごと中の水を炭へと掛ける。
『氷結せよ!』
男の声に反応して水が灰と炭を包んで凍り、続いて窓を開けて空気を入れ替える。
「何も飲まされていないのなら回復は早いはずです。イヴェット、無事で良かった!」
私を抱きしめるマリーが震えている。お礼を言いたいのに言えなくてもどかしい。
店主は男によって縄で縛られ床に転がされた。目尻に溜まった涙を拭き、マリーが立ち上がる。
「アルト、予定どおりイヴェットの保護をお願いします。後の処理は我々にお任せ下さい」
「わかった」
黒い仮面の男が、私を軽々と横抱きにする。私はどこに連れて行かれるのか。侯爵家の屋敷には戻りたくない。子爵家にも帰りたくない。
「イヴェット、これからこの方が安全な場所まで連れて行ってくれます。後で私も合流しますから、安心して下さい」
助けてくれてありがとう。思いを乗せて震える手を微かに動かすと、マリーが両手でそっと包んで微笑む。
私は男に運ばれて、裏口らしき扉から外に出た。そこには馬が数頭繋がれ、黒い馬車が数台停められていた。馬車へ向かおうとした男を、マリーが馬へと案内する。
「馬車の方が良くはないか?」
「ですが、追手に見つかりやすくなります」
追手というマリーの言葉で体が震える。誰が追ってくるのだろうか。夫……ダグラスの顔が浮かんで血の気が引く。連れ戻されたら、次はどこに売られてしまうのか。
「イヴェット、大丈夫だ。私が護る」
男の腕が私を強く抱きしめると、何故かほっとする。知らない人なのに。
マリーの手伝いで私は馬上の男の前に乗せられて、どこに行くのか知らされないまま、馬が走り出した。
馬車に乗ったことはあっても、馬に乗せられたことはない。男は片手で私を抱えながら器用に手綱を操り馬を静かに走らせる。石畳の上を走っても
何度か道を曲がった頃、私は意識を手放した。
◆
目を開くと、私は誰かに横抱きで運ばれていた。黒い服ではなく白いシャツ。視線を上げると、白い仮面をつけた金髪の男性。……仮面の王子。そうとしか思えない。
私を抱えた男性が歩いているのはどこかの屋敷の廊下。白い壁に飴色の床、窓には黒い天鵞絨のカーテンが掛けられていて、落ち着いた色の魔法灯が照らしている。
「イヴェット、目が覚めたかい? ちょうど館に着いた所だ」
その声は先程の黒い仮面の男と同じで、優しい。
「あ、あの……貴方は?」
「良かった。声も出るようになったか。私はアルテュールだ」
「王子様がどうして?」
何故王子が私を助けてくれたのか。疑問と混乱で考えがまとまらない。
「それは後で。その扉を開けてくれないか」
言われるままに、飴色の扉を開ける。
そこはとても可愛らしい部屋だった。落ち着いたピンク色の壁紙が張られた壁に白い天井が明るく、花の彫刻が施された象牙色の家具には所々に金彩が使われていて、温かみがある。
長椅子にそっと降ろされ、王子が手ずからテーブルの上にあった水差しからグラスに水を注いで手渡してくれた。
「浄化した水だから安心していい」
グラスを手に持つと、その冷たさが指に伝わってきた。力が入らなかったあの絶望を思い出して震える。
「イヴェット。大丈夫。ここは安全だ。この水には何も入っていない」
横に座った王子が私の肩を抱き、グラスに手を添える。支えられながら冷たい水を少しずつ飲んでいると、徐々に心も落ち着いてきた。
……結局。売られはしなかったけれど、私は王子の愛人にされるのかもしれない。
助けてくれた王子の目の前で溜息を吐く失礼はできない。水を飲み干した時、小さく小さく諦めの息を吐く。
「……助けて下さってありがとうございます」
「礼は必要ない。私が悪かった。もう少し早く助けたかったが、運悪く今日は晩餐会の予定で、ローラット侯爵からの連絡をすぐに受け取れなかった」
ローラット侯爵と言えばマリーの夫。
「あ、あの……晩餐会は?」
「晩餐会よりイヴェットの方が大事だ。私が欠席してもライオットや皆が何とか誤魔化してくれているだろう」
ライオットというのは、我が国の第二王子の名前。親しい間柄ということだろう。
「……何故、私を助けて下さったのですか?」
愛人にする為なのかとは口にできなかった。仮面の王子の口元は微笑んでいても、目の表情がわからない。
「……マリーに聞いたと思うが、私は愛人を求めていない。けして君を愛人にする為にここに連れてきた訳ではない」
「では、どうして?」
「……私は今、とても困っているんだ」
王子が何を困っているというのだろうか。
「ここは私の秘密の別荘だが、辺鄙な所なので誰も働きたがらない。私の乳母に頼み込んで、夫婦で住み込みで働いてもらっている」
立ち上がった王子がカーテンを開くと、大きな窓の外、夜空に輝く赤と緑の月と白い三日月に照らされて湖が広がっている。そういえば、王子は釣りの為に専用の館を持っているとマリーに聞いた。私はどうやって、フリーレル王国に連れてこられたのだろうか。馬車でも二十日は掛かるはず。
「しばらくこの館の管理人になってもらえないだろうか。もちろん給金は支払う」
その為に私を助けたとは、納得できない。何かが隠されていると感じる。
「答えはすぐには必要ないから、ゆっくりくつろいでくれ。……果物を食べないか?」
明るく笑った王子は、白いシャツの袖をまくり上げ、テーブルの上に置かれた籠から梨を取り、どこからか出した短剣で皮を剥く。
鼻歌混じりの楽し気な様子がロブを思い出させた。髪の色も同じ。
「……ロブ?」
「どうぞ。中々上手く剥けただろう?」
私の小さな呟きのような問いは王子の耳には届かなかったらしい。笑顔で切られた梨が手渡された。
「あ、ありがとうございます」
隣に座った王子の腕には、蛇の鱗は無かった。
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