第三話 新たな愛人。
渡された金貨を何に使えばいいのかわからない。買い物と言われても、侯爵家にはすべてが揃っている。
ルイーズにも渡した方がいいだろうかと考えたものの、ルイーズは夫から毎月手当てをもらっていると聞いた。夫が決めたのだから、これは私が持っていなければいけないのかもしれない。
窓の外から馬車が走り去って行く音が聞こえる。夫はすぐに出かけたらしい。鍵付きの引き出しにお金の入った革袋を入れ、落ち着く為に糸を紡ぐ。
まさか夫が私を監禁しているという噂になっているとは思わなかった。既婚女性は子供を産むまでは、社交界に出る事はないので夜会や舞踏会に参加することはない。他国と比べて女性の扱いを問題にする者がいても、建国して百五十年続いてきた慣習を変えることはできなかったと聞いている。
私が一切外に出ないのが悪かったのだろうか。金銭的な理由で個人的なお茶を飲む友人もおらず、私の境遇を憐れんで時々お茶の時間に呼んでくれた老婦人も昨年亡くなった。
夫の名誉を護る為、私は何をすればいいのだろう。公園で散歩をして、何も問題がないという顔で買い物をすることだけでいいのだろうか。
貴族の義務の一つである慈善事業に女性は関わることはできない。きっと夫は十分な金銭を支払っているだろう。
考えているうちに、また糸巻きがいっぱいになった。
「そうだ。これで
夫は絹ではなく、綿の手巾を使い捨てにしている。それなら私が作ったものでも気にならないだろう。
久しぶりに人の為に何かを作る。小さな目標は、私の心を奮い立たせてくれた。
◆
その夜、夜になっても夫は帰ってはこなかった。寝支度の後、主寝室から使用人たちが出て行き、ルイーズと二人きりになった。
「ルイーズ、ベッドを使って。もしかしたら、お戻りになるかもしれないし。私は控え室で眠るから」
主寝室の広いベッドの方が遥かに寝心地がいいのはわかっている。それでも、毎晩二人が情事に使っていたと思うと横になるのもためらう。
ルイーズは、また新しい夜着を着ていた。肌の露出が多い
「おやすみなさいませ」
深く頭を下げたルイーズが、また嗤っているように見えた。本当に私は心が醜い。自らの意思を曲げ、その身を捧げてくれている侍女が他人を嘲笑うはずはない。
「おやすみなさい」
自らの暗い心を隠す為、私は作り笑顔で扉を閉めた。
控え部屋の中、狭いベッドに横たわっても耳に綿を詰めなくてもいいというだけで、体の緊張が抜けていく。半年の間、二人の情事はほぼ毎日続いていた。
久しぶりの静かな夜に安堵の息を吐きながら目を閉じると、あっという間に眠りに落ちた。
◆
朝になり、私はいつもの通りにルイーズに起こされた。緊張もなく眠れたからか、気分はすっきりとしている。
「おはようございます」
ルイーズの血色の良い顔色を見て、やはり無理をさせているのだと確信した。
「おはよう。まだ眠っていていいわよ」
心なしか、私にもルイーズを気遣う余裕が生まれている。寝室を通り過ぎ、着替えて階下へ向かう。
よく眠っただけで、朝の景色が違うように感じるから不思議。窓から見える庭の木々の青さで楽しみ、廊下に飾られた花を軽く整えながら、足取りも軽く女主人の部屋へと向かう。
部屋が寒々しいと感じていたのは、白の分量が多すぎるから。深緑の壁に深緑のカーテンは重すぎる。これまで気が付かなかったことが次々と思い浮かぶ。次の季節はカーテンの色を明るいものに変えるように指示してみよう。
「奥様、朝のお茶でございます」
家令が用意してくれたのは、お茶といつもより多い軽食。薄切りのパンに卵や肉、野菜が挟まれたものと、肉がたっぷりと入ったスープ。
「ありがとう」
私が食事を取っていないのも、出掛けることができない理由も、何も言えない私に替わって家令が伝えてくれたのだろう。使用人に出来る最大限の気遣いに、感謝しか思い浮かばない。
柔らかく煮込まれた肉は口の中に入れるだけで溶けるように解けていく。澄んだスープはあっさりとしていて飲みやすく、体の中から温めてくれる。
食事が美味しいとこんなに嬉しくなるものなのか。作り笑顔ではない笑みが自然と浮かぶ。幸せな気持ちも味わいながら私は朝食を楽しんだ。
◆
貴婦人が散歩に出掛けるには、相応の支度が必要になる。王都の中央、貴族専用に整えられた公園は非公式の社交の場であり、社交界に出られない貴族女性が自由に歩ける数少ない場所でもある。
髪を結って散歩着に身を包み、小さな帽子を被って日傘を持つ。どれもこれも子爵家では手に出来なかった上質で品の良いものばかり。借り物のような気がしても、鏡に映る私は完璧な貴婦人。
夫の悪い噂を払拭しなければという使命感で顔を上げ、用意された馬車へと乗り込んだ。
侯爵家の
清々しい空気の中、すれ違う貴族と会釈を交わして侍女と従僕を連れて歩く。子爵家の娘だった頃には無視されていた挨拶も、侯爵夫人となった今は全員が返してくれる。それが嬉しいとは思えない。手にした扇で口元を隠して小さく溜息を吐く。
しばらく歩いていると、茶色い帽子に派手派手しく羽根を飾った中年女性が近寄って来た。
「イヴェット様、お久しぶりですわね」
「お久しぶりでございます」
誰だっただろうかと考えながら、貴婦人の挨拶の礼をする。頭を軽く下げた時、ロイダール伯爵夫人だと思い出した。子爵家の令嬢だった頃には、声を掛けられたこともない。趣味が良いとは言えない帽子の羽根飾りと同じ羽根で出来た扇が目立つ。
伯爵夫人は口元に扇をあてながら、私の頭から足元までを一瞥する。品定めをされているような気がして落ち着かない。
「お体のお加減がお悪いの?」
「いいえ。健康です」
随分痩せてしまってはいても、幸いにも病気ではない。
「そうなの? お子はまだ?」
「……はい」
不躾な質問だと思っても動じることはできない。夫に恥をかかせないようにと淡い微笑みで返す。
「あらあら。貴女が身籠ったから、侯爵様は舞台女優を口説いていらっしゃるのかと」
「え?」
さっと血の気が引いた私の表情を楽しむように笑いながら、伯爵夫人は続ける。
「王立劇場の気高い華と呼ばれているタティアーナを最近口説いていらっしゃって、昨晩ついにお食事に出掛けられたとか」
ぐらりと世界が回った気がした。倒れそうになったのを察したのか、侍女が私の腕と背を支える。昨日、夫が帰ってこなかった理由は女優と逢引きしていたからなのか。
「あらあら。ご存知なかったの? 申し訳ないことをしてしまったかしら。ごめんなさいね」
言葉で謝罪をしていても、その顔は完全に楽しんでいる。
「侯爵様程の方でしたら、愛人の一人や二人いても不思議はありませんわ。気にしない方が賢明ですわね。でも……高額の資金援助で手に入れた貴女を、たった半年で飽きてしまわれたなんて。侯爵様も酷いお方ですわね」
買われた女。伯爵夫人の嘲りに、私は何も言い返せない。夫はルイーズに飽きて、他の女を抱いているのか。夜の務めから解放されるなら、ルイーズにとっては良いことなのかもしれない。
奇妙な安堵の気持ちと、買われた女と周囲に思われていることの悔しさとやるせなさが心に渦巻いて動けない。
うつむいて何の反応もしない私に飽きたのか、伯爵夫人は別れの挨拶をして去って行った。
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