没落令嬢の溺愛遊戯 ~月光の糸は愛を紡ぐ~

ヴィルヘルミナ

第一話 昼の妻と夜の妻。

 夜、侯爵夫人である私の立場は一変する。


「奥様、お休みなさいませ」

 寝支度を整えると、侍女の一人を残して他の使用人たちは寝室から去っていく。


「……奥様……よろしいのですか?」

「仕方ないわ。支度をお願い」

 頭を下げた侍女ルイーズは控え部屋に入り、私が着ているよりも豪奢な夜着を身に付けて出てきた。真新しい夜着は、夫のダグラスから贈られたものだろう。赤茶色の波打つ髪に茶色の瞳、豊満な体つきが艶めかしい。


 一方の私は金茶色の髪に碧の瞳。痩せた体は女性としての魅力に欠けている。


「そろそろ支度はできたか?」

 甘い声と共に扉を開けて入ってきたダグラスが、私の顔を見て顔をしかめた。白金髪に水色の瞳。今年二十六になるダグラス・フラムスティードは、名目上の私の夫。六歳年上の夫とは、半年前に結婚した。


「イヴェット、まだいたのか。早く消えろ」

「申し訳ございません。お休みなさいませ」

 侍女のように頭を低く下げ、私は控え部屋へと滑り込んで扉を閉めた。


『ルイーズ、君と二人きりになれる夜を待ちわびていたよ』

『旦那様……』

『名前を呼んでくれと昨日もお願いしただろう? 一緒にシャワーを浴びよう』


 夫の甘い声は、侍女へと向けられている。私は溜息を吐き、耳に綿を詰めて小さなベッドに潜り込んだ。


     ◆


 私は没落寸前の子爵家の娘だった。父母が散財して先祖代々の資産を食いつぶし、領地を売り、後は爵位を売るしかない状況の中、ダグラスが私の侍女ルイーズを見初めた。


 侯爵と平民では結婚は難しい。だから表向きは私と結婚をして、ルイーズを夜の妻にした。


『旦那様っ! それはいけません!』

『体は喜んでいるじゃないか!』

 激しい情事で、ぎしぎしとベッドが軋む音が響く。主寝室の壁は厚く作られていても、扉一枚しか隔てていない控え部屋には、耳に栓をしていても嬌声が聞こえてしまう。


 わかっていて受け入れた結婚だった。それでも、想像以上に酷い状況が私の神経をすり減らしていく。


 夫は私を一度も抱こうとせずルイーズだけを抱き、私は子供を産むことも許されない。この国では貴族女性が結婚すると子供を産むまでは社交界に出られない。貴族の婚姻とは血を繋ぐことであり、女性はその役割を果たす義務がある。このままだと私は二度と社交界には戻れない。


 子供が生まれたら、妻ではなく母として生きることもできるかもしれない。ささやかな希望は、聞こえてくる音で乱される。掛け布を頭まで被って、私は無理矢理目を閉じた。


     ◆


 夢の中、少女に戻った私は金色の髪に青い瞳の少年と手を繋いで草原を駆けていた。――これは、少女の頃の思い出。


 六歳の時、避暑地の別荘の近くで私は彼――ロブと出会った。毎年、夏になると別荘を抜け出して会いに行く。夏でも長袖の衣服に身を包んだ彼は、いつも青い瞳で優しく微笑んでいた。


 湖畔の森や草原で朝から夕方まで一緒に過ごした。ロブはいつも二人分の昼食が入った籠を下げ、私に分けてくれた。いつも朝と昼の食事を取らない私のことを両親が咎めなかったのは、すでに三度の食事もままならない状況だったのが理由と知ったのは、別荘が売り払われた時。


 手を繋ぎ、湖に映る夕焼けを二人で眺める。周囲には、夏の終わりを告げる小さな白い花が揺れている。

『また来年会おう』

『ええ。来年』

 

『イヴェット……口づけてもいいかな?』

『はい』

 彼が十五歳で私が十三歳。お互いに好きだと告白することもなく、淡い初恋は最初で最後の口づけで終わりを告げた。直後に別荘は売りに出され、それから七年、ロブとは一度も会っていない。


 久しぶりに見た夢が、凍りそうな心を温めていく。あの初恋の思い出があれば、きっと生きていける。夫には口づけすらされていなくても、私の唇はロブが知っている。


 何も知らなかったあの頃に戻りたい。心の中の溜息が、夢を黒く塗りつぶした。


      ◆


 朝の目覚めは、ルイーズが控え部屋の扉を叩く音。起き上がって扉の鍵を開ける。

「申し訳ありません。奥様」

 疲れをにじませるルイーズはうつむいたまま、私に告げる。


「気にしないで。……ごめんなさい」

 ルイーズは夫に抱かれることを望んではいないのだろう。毎朝の謝罪が私の心を重くする。雇い入れたばかりのルイーズを連れて、公園を散歩していた私が悪かった。子爵家に私と同年代の若い侍女が来たのは久しぶりで、私は少々浮かれていた。


 あの日、私が公園を散歩しなければ、乗馬していた侯爵と出会うことはなかったのに。


「ゆっくり休んでいて」

 うつむくルイーズに努めて優しい声で話し掛け、私は場所を入れ替わった。


 控え部屋の外にでると、寝室のテーブルには食べ散らかされた朝食が残っていた。夫もルイーズも食事の作法がなっていない。白いテーブルクロスにはスープやソースが飛び散り、食べ残したパンはすべてスープの壺の中でふやけている。残った料理も酷く混ぜられていて、どんなに空腹でも食べる気にはなれない。


 顔を洗って更衣部屋で服を替え髪を結い、自ら化粧を施す。普通の貴族の娘ならば自分で着替えることはない。私が五歳になる頃までは、たくさんの侍女たちが身支度を整えてくれていた。一人二人と数を減らし、十歳になる頃には侍女は子爵家からいなくなった。


 侯爵家には侍女が数名いても、私専属の侍女はルイーズだけ。望まぬ夜の相手をさせているのだから、これ以上の負担は掛けられない。


 寝室を出て階下に降りると夫はすでに出掛けていた。結婚してから半年、毎日夫は外出している。どこへ行くのかも告げられず、聞くことも許されない。この国の侯爵の仕事と言っても、大臣や重職についている訳ではないので、王城への出仕は十日に一度程度。あとは領地の管理が主なもの。


 この屋敷全体も違和感がある。時折、家令以外の使用人たちが一斉に姿を消し、数日が過ぎると戻ってきて何事もなかったかのように働く。家令に尋ねても頭を深く下げるだけで返事はない。


 買われたお飾りの妻は何も知らされず、何も知ってはいけないということか。夫は子爵家の領地を買い戻し、荒れた屋敷を整えて使用人の給金も払っていると聞いている。それだけの金銭的な援助を受けているのだから、私は黙ってこの状況を受け入れるだけ。


 裕福な貴族ならいざ知らず没落寸前の貴族の娘では、恋愛結婚なんてお伽話の夢でしかない。没落して娼婦に身を落とさなかっただけでも幸運だった。


 深緑の壁に白い家具で統一された女主人の部屋は、豪華で高価な物が揃っていてもどこか寒々しい。花瓶に飾られていた花を少しだけ整えて椅子に座る。


「奥様、朝のお茶でございます」

 家令自ら丁寧に淹れてくれる花茶には、軽食が添えられている。私が朝食を食べていないと知られているのだろう。薄切りにしたパンに卵や肉が挟まれ、さっぱりとした香草が気分を爽やかに導く。


 侯爵家の屋敷の差配は家令がすべて行い、私はお茶を飲む間に報告を聞くだけで、何もすることがない。

「本日のご予定は……」

 毎日の家令の質問に、私は苦笑するだけ。持参金も収入もない私は、個人的な買い物さえ許されない。侍女か従僕を連れて公園を散歩をすることは可能でも、知人に会って現状を知られることは避けたかった。


「……部屋にいます。お茶をありがとう」

 残っていたお茶を飲み干して、私は立ち上がった。

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