第41話 駿河問いの拷問の痕跡






 石ころだらけの河原に、大がかりな断頭台が放置されている。

 それぞれの額に、


 ――十の字。


 を焼印された生首が数十体、西日のなかにズラッと並んでいる。

 そのかたわらには、十字架に縛りつけられ手足の指を切り取られた胴体が、古筵ふるむしろを重ねるように積まれている。手足を背中で縛り上げ、綱で吊り下げて回転された拷問の痕跡が顕著な遺骸も、数体、転がっている。


 ことのほか家康に忠実な駿河奉行・彦坂九兵衛の考案とうわさされる、


 ――駿河問いの拷問。


 とうてい人間の仕業とは思えない惨たらしさだった。


 だが、野獣さえ怯むような残虐を好み、お上にへつらうためならなんでもする、いや、むしろ、自ら進んで行うのもまた、魑魅魍魎の朋輩たる人間のひとつの側面なのかもしれない。悍ましさに吐き気を覚えながら、志乃は冷静に観察していた。


 何事も徹底を旨とする家康の施策には例外的に、それまではゆるやかに看過されて来たクリス(キリスト教)信者弾圧の発端となったのが、慶長17七年(1612)の岡本大八事件だった。翌18年に、


 ――伴天連ばてれん追放令。


 が発布されたが、まさに獅子身中の虫、家康の家臣にもクリス教徒は多かった。


 内心では渋々にせよ大方の家臣は改宗に従ったが、一部はあくまでキリスト教を断念しようとしなかったので、人びとのなみだを誘う悲劇がいくつも生まれた。


 そのひとり、家康の小姓だったジュアン原主水胤信は、捕縛されて安倍川の刑場に引き立てられた。拷問で締めあげても改宗しようとしなかったので、額に十字を焼印され、手足の親指と足の筋を切断され、駿府城下を引きまわされたうえで、「いずこへなりと、とっとと失せやがれ」野垂れ死にせよとばかりに放逐された。


 信者仲間の助けで、江戸に隠れ住んだが、それから10年後、3代将軍・家光の代になってから、賞金欲しさの密告で捕縛され、品川の刑場で火炙りに処された。


 朝鮮貴族の美貌の娘で、秀吉による朝鮮出兵の際に日本に連行され、そのころは家康の侍女をつとめていたジュリアおたあは、改宗はもとより、側室への誘いまで断乎拒みつづけたので、伊豆大島から新島、神津島へ、つぎつぎに流刑とされた。


 さらに時をさかのぼれば、慶長13年(1608)の「慶長宗論」に端を発する日蓮宗・日遠にちおん上人迫害の一件もある。


 三河武士として代々の熱心な浄土宗信徒だった家康が、ことのほか疎んじていた日蓮宗の弾圧には、家康が寵愛する側室のひとりである於万ノ方が絡んでいた。


 家康が仕掛けた江戸城での「浄土宗対日蓮宗」の宗論に敗れた(一節では幕府が放った隠密に襲撃されたためとか)ものの、それでもなお屈服しようとしない日遠上人に憤激した家康は、安倍川の河原ではりつけに処すよう配下に命じた。


 しかし、ひそかに悲報を知らされた日蓮宗信者の於万ノ方が、「わが師が死するときは、わらわも死するときでございます」と言い放ち、自ら針を持って師匠用と自分用、2枚の死に装束を縫い上げ、なにがあっても変わらぬ信心の強さを示してみせたので、さすがの家康も日遠上人の処刑を思い留まらざるを得なかった……。


 ――滔々たる流れは、ときには悪魔にもなり得る人型の証人なのだ。


 傾く夕日を反射した安倍川の小波は、天の川のように清浄な光りを放っている。

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