第90話 剣道指南②

 氷室は普段、アパートのエレベーターは使わない。足腰の鍛錬の為や健康に気を付けているという殊勝な心掛けからではない。単に煙草が吸えないという理由からだ。入居してすぐの頃は構わず吸っていたが、他の住人から大家にクレームが入り、昇降機内に煙感知器を設置され、次にやったら強制退去と宣告されてしまったからだ。煙草が吸えないストレスより最上階から一階まで歩いて昇降する方が氷室にとってはマシらしい。


 外気温が高いにも拘らず相変わらず暑苦しい服装で煙草を吸いながら階段を降る氷室を追いかけるマルグリットが遠くから大声で鍵やら何やら話しかけているが構わず無視しながら一階を目指す氷室。別に遠出するわけでもないのだから施錠など不要。それにこのアパート内で——否、この街で氷室の自宅に侵入するなどジェイルタウンにいる空き巣王サマンサでもやらない。〝氷室が住んでいる〟その事実だけで万全のセキュリティなのだ。


 一階に降りて外へ出た氷室。その数分後に息を切らせたマルグリットがようやくやってきた。


「ゼー、ゼー、ヒドイっスよ氷室さん。ずーっと待ってって言ってたのに」


「なんだお前。まだいたのか。さっさと帰れ」


「そうはいきません。バディとしてきちんと謹慎の監視をする仕事がありますから。でも疲れたんでチョット休憩〜。ゲームでもするっス」


 マルグリットはそう言うと、頭と同じピンク色のゴテゴテした飾りが大量に付いたスマートフォンを取り出すと嬉々としてゲームをやり始めた。まさにガキである。


 始めは無視していた氷室だったが、見た目はアレだがコレでも一応は聖騎士。しかもアシュリーより序列は上ということを思い出し、この少女の秘めたる力が気になった。


 依然とスマホをいじっているマルグリットに対し、氷室は腰に差した刀の鍔を僅かに親指で押し上げる。刃引きをしてあるため斬れはしないが、それでも一度振るえば凄まじい速度で鉄塊をぶつけられるようなもの。受ければまず無事では済まないし、当たりどころが悪ければ絶命は免れない。もちろん氷室には実際にマルグリットに攻撃を加えるつもりはサラサラ無い。だが、殺気だけは先程から目一杯ぶつけている。アシュリーならすぐさまこちらの殺気に気づき、聖剣を構えるだろう。しかしこのマルグリットに至っては氷室の殺気に気づいている様子はなく、視線は依然とスマホの画面に向けられている。それどころか、アシュリーのように聖剣を持っているところを一度たりとも見たことがない。


 いっそ本当に刀を鞘走せようかと考えたその直後、マルグリットは急に立ち上がり氷室の抜刀より早くスマートフォンの画面を氷室の目の前に向けてきた。


「アシュリーから電話っス!」


「勝手に出ればいいだろ」


「わかってないっスねー。こういうのは氷室さんが敢えて出るのが面白いんじゃないっスか。それにアシュリーも氷室さんに話したいこととかあると思うんですよ。短い間でもバディとして組んでたんだから。うちの人間、アシュリーと行動すると加護が使えなくなる危険性があるから彼女だけ単独任務が多いんスよ。だから氷室さんと一緒に行動出来て嬉しかったと思いますよ?」


 確かにアシュリーがアルメニアを発った後、何度か電話が掛かってきたが氷室はそれら全てを無視していた。特にコレといった理由などない。別段、話すことなどないからである。腕時計を確認すると約束の時間までまだ少しある。時間潰しと思い、氷室はふざけたデザインのスマホを受け取ると通話ボタンを押した。


「氷室だ。ピンク頭に何か用か?」


「えっ!? 氷室さん? なんで氷室さんがマルグリットの電話に出てるんですか?」


「俺も知らん。勝手に渡されただけだ」


「あっ、ていうか氷室さんひどいですよー。私何度か電話してたのに全部出てくれないんだもん」


「忙しいんだよ」


「そんなこと言ってー。マルグリットから聞きましたよ? 今謹慎処分中だって。だったら折り返してくれても良いじゃないですかー」


 ピンク頭が余計なことをベラベラ喋っていることを知り、スマホを耳に当てながら氷室はマルグリットをギロリと見下ろすように睨む。アシュリーに話した何かしらの愚痴がバレたと思ったマルグリットは真っ青な顔で否定するように手と首を横に振っている。


「チッ、とにかくこれからバイトだから切るぞ」


「えっ!? バイトって謹慎じゃなくてクビになったんですか!? 氷室さ——」


 アシュリーとの会話を一方的に終了させ、ピンクのスマホをピンク頭に向かって投げて返す。


「わっ、ちょっ! 危なっ! 落としたらどうするんスかぁ。っていうか、アシュリー何の用だったんスか?」


「知らん。勝手にかけ直せ。俺は今からやることがある」


 そう言うと、氷室は煙草を吐き捨て靴底で火を消してゆっくり歩き出す。そのタイミングとほぼ同じタイミングで一台のキャデラックがアパート前に停車した。


 運転席から出てきたラテン系の色男は後部座席を開けて一人の少女の手を取り降車を促す。


「お待たせ致しました。本日はお嬢様へのご指導、何卒よろしくお願いします」


 トルメンタに続いてアイラも氷室に頭を下げた。


「よろしくお願いします、先生」

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