第76話 氷室へのお願い事①

 朝の七時半に氷室は煙草を咥えながら自宅である単身用マンションを出た。行先はもちろん、勤務先であるエデン署である。昨日謹慎を言い渡されたにも拘らず翌日にはそれを破る破天荒ぶり。自由もここまで来たらストレスなど無縁のように思えるが、今現在に至ってはそんなことはない。絶賛莫大なストレスを抱えていた。


(チクショウ、やっぱ落ち着かねぇ……)


 左手で左の腰回りを弄るも、いつもあるべきものが無い。愛刀、百鬼薙を没収されて今や丸腰状態。一応警官故に銃を携帯してはいるが、銃器はあまり得意ではない氷室にとってその効果は神社の御守りとさほど変わらない。


 イライラが加速するに連れて煙草の消費スピードも上がっていく。家を出てまだ数百メートルも経たない内に本日三本目の煙草に火を着ける。目付きもどことなくいつもより鋭い。道中、目的地を同じとする仕事仲間たちも流石に朝の挨拶を控えるほど氷室は殺気立っていた。


「氷室さん、なんでここにいるんですか? 謹慎の意味、一度辞書で調べてみたら如何です?」


 署内のエントランスで交通課のダリアが皮肉たっぷりに氷室に声を掛ける。いつもと違う様子の氷室に対してもいつも通りの憎まれ口を叩くのは彼女以外はいない。特に今の氷室にそんな口を利くなどライオンの檻に手を突っ込んで撫でようとしているようなものである。怖いもの知らずもここまで来ると周りの仕事仲間は彼女の危機管理能力に疑問を抱くほどだ。


「忘れモンを取りに来ただけだ。すぐ帰るさ」


「ちなみに、署長ならいませんよ。奥さんとお子さん達を連れて遅めのバカンスでグアムへ行ってますから」


「あぁそうかい。家族サービスとは世帯持ちは大変だな」


「あれ? 刀を取り返しに来たんじゃ無いんですか?」


「ちげーよ。溜め込んでいた書類の山と私物を取りに来ただけだ。どーせ何枚かは提出期限は過ぎてるだろうがな」


「うそ。あの不真面目エデン署代表の氷室さんがそんな殊勝な考えを……刀を持たないストレスでおかしくなりました?」


「かもな。仕事の邪魔をするつもりはねーからあんまり絡んでくれるな」


「そういうことなら今日だけは見逃しましょう。ちなみに、署長室のロッカーの鍵は私が預かってますからこっそり持ち出そうとしても無駄ですからね」


 ダリアはそう言うと、胸元からネックレスを取り出して見せた。そこには確かにロッカーの鍵がぶら下がっていた。


「無理矢理取ろうとしたらセクハラで訴えますからね」


「取らねーから、ぜってぇ無くすなよ」


 それだけ告げると、氷室は自分のデスクのある特殊犯罪捜査課へと向かって行った。


 中サイズの段ボール一つを抱えてエデン署を出た氷室は帰路の途中で本日四本目の煙草を吸う為に荷物を道の端に置いて煙草の箱を取り出す。箱の中には煙草が残り三本。買い置きがあったかどうかは覚えていない。


(一服したら買ってくか)


 そんなことを考えながら咥えた煙草に火を着けようとしたその時、ふいに聞き馴染みのある声に名を呼ばれた。


「あれぇ? 氷室さんじゃないですか。おはようございます」


 これはまた随分珍しい奴に出くわしたもんだと氷室は思った。金髪碧眼のウェイター姿の優男、ウィリアムが人懐っこい笑顔でこちらにやってきた。


「朝っぱらからお前がこの辺りにいるってのは何故だか気に食わんな。また女絡みのトラブルでも——」


 そう言い掛けた氷室は、ウィリアムと手を繋いでいる小さな子供、アイラの姿を見てその続きを口にするのを止めた。それと同時に咥えていた煙草を箱へと戻す。アウトロー寄りとは言え、腐っても警官。子供への配慮は多少はするようだった。


「ちょうど良かった。氷室さんに頼みたい事があったんですよ。良かったらドーナッツをご馳走しますので、お話だけでも聞いて頂けませんか?」


 朝食がまだだった氷室はウィリアムとアイラの後に続いて行きつけである若い女性御用達の店ビビット・パッション・ドーナッツへ向かったのであった。

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