第57話 Thriller night

 突如この場に出現した門。その向こう側が冥界だとするならば、這い出てきたこの得体の知れない巨大な存在はまさに冥界そのもの。元は純白だったであろうドレスは血や腐肉で真っ黒に染まっており、見えている肌の表面にはびっしりと蠢く蛆の群れで埋め尽くされている。全身が門を潜り抜けたところでヘルはゆっくりと体を起こす。


 立ち上がったそれは、大凡の目測で約七〜八メートル前後。人智を超えたその全容は、神と呼び崇拝、信仰するには不気味であまりにも異形。どうしようもなく化物そのものであった。


「おい、氷室! 気をつけろ! そのデカブツはかなりやべぇ! お前一人じゃ無理だ!」


 魔神の顕現、及びそれに伴う討伐作戦はアスガルド聖教内に於いての警戒レベルは教皇警護、本部防衛に次ぐ上から三番目に相当する。これは数百人規模の中隊を率いてレオンクロスの隊員を最低二名は配備し、その中で上席の隊員に陣頭指揮を執らせてようやく対処出来るレベルの事態と言われている。


 そんな中、氷室を追いかけて息を切らせながら走ってきたのは、唯一この場で陣頭指揮を執れる立場にいるレオンクロスの隊員。第八席のアシュリー・キスミスだった。


「よ、ようやく追いついた。ぜー、ぜー、今、髪を結ぶんでちょっ、ちょっとだけ待っててくださいごほっごほっ」


 一人で先に飛び出した氷室を追いかけてここまで全力疾走したせいで戦う前から既にバテ気味のアシュリーは、風呂上がりで下ろしていた髪を急いで結ぶ。


「良いタイミングで来たな。あのデカブツの相手はお前らの領分だろうから任せたぞ。俺はあのイタ公に用があるんでな」


「へ? デカブツ? って、えええっ!? ままま魔神が顕現しちゃってるじゃないですかぁ!!」


 驚き慌てふためくアシュリーを残し、ミケーネに向かって突っ込む氷室。刀を鞘走らせ、抜き放とうとしたその時、ミケーネの背後から無数の手が伸びる。先程斬り払った黒い影で出来た手ではなく、正真正銘の生身の腕。咄嗟に抜刀を中断した氷室の手足に飛びついてきたのは病院にいたスタッフや患者たち。悪人には容赦なく斬撃を見舞う氷室だが、市民には無闇に危害は加えない。その隙を突くようにミケーネは隠し持っていた銃を氷室に向けて発砲した。


「ぐぉっ!」


 氷室に纏わりついていた周りの人間などお構いなしにミケーネの銃撃は弾倉が空になるまで続いた。刀を抜いて斬り払うことも出来ず、氷室は右肩と上腕、横腹に一発ずつ計三発の銃弾を受けた。


「冷酷非道の人斬り刑事って聞いていたんだが、ガッカリだ。そいつらに構わず刀を抜いていたらアンタの勝ちだったろうに。躊躇う必要なんてなかったんだぜ? なんせそいつらは——」


 凶弾に倒れたはずの者たちが、ゆっくりと立ち上がる。薄明かりに照らされたその肌は土気色をしており、弾痕からは血は流れておらず、見開かれた両目には既に光は失われていた。


「とっくに死んでるんだからよ」


 ヘルの力は死者の魂を操ることだけではない。魂が抜けて空の器となった屍さえも操ることが出来る。ミケーネはそれを前以て知らされていたからこそ、予め病院内の人間を全て手にかけていた。そして今、ヘルの顕現により不死身の兵隊を手にしたのだ。


「今頃エデン中の死体が動き回っているはずだぜ。ちょいと早いがゾンビ共と愉快なハロウィンパーティーを楽しめよ」


 エデンはただでさえ死体が多い。墓地だけじゃなく、その辺の空き缶や石ころのように路地裏などに平然と転がっていることすらザラである。その大半は何らかのトラブルに巻き込まれて殺されたり、薬物の過剰摂取で勝手に野垂れ死んだりと様々だ。本来であれば警察が事後処理をするのだが、この街は公安組織すら一部を除いて腐敗している。面倒を嫌い、見て見ぬフリ。屍肉を鳥獣類に食い荒らされた後、腐臭が辺りに漂い始めてようやく重い腰を上げる。その仕事も非常に杜撰なもので、大半が面倒な事務手続きを省略したいが為に近くの川や海へ投げ捨てる始末だ。そして今夜は土曜の夜。こうして現場で職務を全うしている氷室や最高責任者であるサマセット以外の当直の署員たちは今頃ビールとピザを片手に賭けポーカーや麻雀に興じている頃だろう。つまり、直近で死んだ者たちの死体は未だ処理されず街中のどこかに放置されている。


 数人か、あるいは数十人か。


 いずれにせよ、それらが動き出して人を殺せばその死体が動き出してまた人を殺す。ヘルが顕現し魔力を放出している今、死体が出来る度にゾンビがネズミ算式に増殖するということだ。


「氷室さん! 私も戦いま……あれ? 聖剣は? うそ……えっ、あれぇ?」


 助太刀に入ろうとしたアシュリーは青ざめた顔で何やらキョロキョロと辺りを伺っている。どうやら普段から携帯している西洋剣を探しているらしい。


 アスガルド聖騎士は皆、聖教正式採用の量産型聖剣と呼ばれるレイピアよりやや幅広の両刃を備えた、所謂ブロードソードに分類される剣が支給される。それらはアスガルド聖教がアメリカの大手兵器メーカー、ウェストロッジ社に依頼して造らせているものだ。


 刀身には良質な銀をベースに特殊な配合を施した鋼鉄が使われている。炉には聖教から提供された〝フレイヤの聖火〟と呼ばれる特級聖遺物の炎が使用されており、鍛えた刃を急冷させる焼き入れの際にも祝福儀礼で使う聖油を用いる徹底ぶり。まさに魔物を殺すためだけに造られている代物である。


 特務部隊であるレオンクロスに関しては申請さえすれば聖剣以外にも各々好みの武器を使用出来るという特権が与えられているが、アシュリーは見習いの頃から今に至るまでずっと「オシャレだから」という理由で量産型聖剣を使用し続けている。お気に入りポイントはスウェプト・ヒルトと呼ばれる曲線の籠柄。アルメニアに派遣されることが決まって初めて手にした支給品のスマホが嬉し過ぎて、こっそり作ったSNSアカウントに『#オシャレポイント』と題して聖剣の写真を載せてしまい、ズヴァルトノッツ国際空港に到着した直後に電話で上層部からこっぴどく叱られたばかり。それだけ聖剣の取り扱いに関しての規範は厳しいのだ。警官のピストル同様、紛失しましたで済まされる代物ではない。


「お前、車で拾った時から手ぶらだったぞ」


「あー良かったぁー。ここまで来る途中で無くしたかと思いましたよー。ていうか、気づいていたならなんでその時言ってくれなかったんですかー!?」


「……もういい。面倒だ。俺一人で全員ブッタ斬るからお前はアイラを連れて下がってろ」


 やや呆れ気味に溜息を吐いた氷室は刀を杖にしてフラフラと立ち上がる。だが、腹部からはじわりと血が滲み滴っていた。


「撃たれてるんですから無茶ですよ氷室さん! 剣無しでどこまでやれるかわかりませんが、私も聖騎士です。まだまだ加護の扱いは半人前ですが、せめて少しでも魔神の力を弱めて——あいたっ!」


 勇んで一歩前に出ようとした直後、デュランのデコピンがアシュリーの額に当たった。


「悪い、アシュリー。氷室の言う通り今はアイラを安全なとこへ連れて行ってくれ。ここは俺とあの死にかけ刑事でなんとかするからよ」


「でもっ、魔神を抑えないとゾンビたちが……」


「いいから行け。聖剣忘れて来たんだろ? アイラ連れてくついでに取りに行けよ」


「……わかった。すぐに戻るから、無理だけはしないでね」


「ああ。それともうひとつだけ頼まれてくれねぇか?」


「なに? 私に出来ることなら何でもするよ」


「ウィリアムに伝言を頼む。ちょいと持ってきて欲しいもんがあんだよ」


 デュランから言伝を頼まれたアシュリーは、アイラを抱き抱えその場を離れていく。これでいい。これで心置きなく暴れられる。怒りのボルテージは爆発寸前。はらわたが煮えくり返るほどの激情がデュランの体温をぐんぐんと高め続けている。発熱するほどの怒りによって赤みがかった全身の皮膚からは湯気が立ち上っていた。


「これで気兼ねなく暴れられるぜ。おい、クソポリ公。巻き添え喰らいたくなければ隠れてろ。こっから先はどうなっても知らねぇからな」


 腰を低く落とし、両の掌を交差して前に突き出し、十指を力強く曲げる独特の構え。怒りに身を任せて目に映る全てを薙ぎ倒し、捩じ伏せる獣の拳法。氷室との戦いでさえ使用しなかったデュランの切り札の一つである。


「それが俺の部下を全員ぶっ倒したっていう拳法か。おもしれぇ。不死身のゾンビ軍団相手にどこまでやれるか見せてもらおうじゃねぇか」


 ミケーネが指を鳴らすと、病院内外からヘルの傀儡となった死人の群れがぞろぞろと現れた。現状確認出来ている数はざっと五十。しかし、こうして目視で数えている今もゾンビはまだまだ増え続けている。


「ウオオオオオッ!」


 しかしデュランは決して臆することはなかった。怒り以外の感情など、とうに焼き切れている。臓腑にまで響く獣のような咆哮を上げながらデュランは屍人の群れに単身飛び込んでいった。


 一人、また一人とゾンビたちを爪で切り裂き、引きちぎり、ブン投げていく。圧倒的な数でさえ御しきれぬほどの圧倒的な力でねじ伏せていく様はまさしく獣そのもの。そして、ゾンビたちへの攻撃はそれだけに留まらなかった。


「こちらのセリフだチンピラ。お前こそ俺の間合いに入ったら容赦無く斬り殺すぞ」


 横一線に走った一筋の冷たい煌めき。

 次の瞬間、氷室の近くにいたゾンビ達の上半身と下半身が次々と泣き別れていく。


 デュランの背後に迫った敵を氷室が斬り、氷室が納刀した瞬間に飛び掛かってきた敵をデュランが殴る。互いに助け合う気はサラサラなく、たまたま放った攻撃が互いの隙を埋めただけに過ぎない。むしろ少しでもタイミングがズレれば二人は容赦なく互いを攻撃し合うだろう。結局のところ二人はそれぞれ自分の戦いに興じているに過ぎない。


 しかし繰り広げられている状況だけを見れば、二人の共闘により押し寄せるゾンビの大群は次々と破壊されている。再生して再び動き出そうとも二人を止めることすら叶わない。


 ただ好き勝手に暴れているだけにも関わらず、不思議と二人の息はピッタリ合っていた。


 たった二人。だが、一方的。


 獣の体術と鬼の剣術により、ゾンビの大群は再生が追いつかないほど身体を破壊され尽くしてしまった。しかし、一度闘争心に火がついた二人の勢いはまだまだ止まらない。


 怒れる拳と非情の刃は、遂には巨大な神に向けられたのだった。

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