アリエス

Youichiro

失われた技術者

第1話 閑職の日々

 壁時計の長針が少しずつ六に向かっていく。秒針がないクォーツ時計は、長針だけ見てるとその動きは非常にぎこちない。それに対して私の動きは非常にスムーズだ。

 最初にPCがシャットダウンされ、次に分厚いキングファイルがキャビネの所定位置にスーとしまわれる。机の上に散乱したレポートが袖机の引き出しに無造作に放り込まれ、私物が鞄の中に手際よく吸い込まれれば準備終了だ。

 いつものように三十秒もすれば時計の長針が六に重なる。

 退社に向けて待ち構える私の隣で、パソコンをタイプする音が忙しく聞こえる。

 音の主は長池遥香、今年二九才の独身で、私の知る限り社内でもトップファイブに入る美貌の持ち主だ。それだけではない。二年前に異動してくる前は、営業部でトップセールスをあげ、最年少チームリーダーの候補に成っていた才媛だ。

 本社部門とは言え、なぜこんな寂しい職場を希望したのか、今もって不明だ。

 かく言う私、星野慎一はグローバルに飛躍するTECG株式会社の幹部社員だ。

 ただ営業や技術職などビジネスプロセス上のラインではなく、人事や経理など本社の中枢部門の所属でもない。普通のサラリーマンならば、おそらく一生の内一度も足を踏み入れない社史編纂室という名の部署で室長を務めている。

 今年誕生日を迎えれば四十才に成る。三五才のときに今のポジションに就いたから、もうかれこれ五年もこの仕事を続けている。


 TECGは大正三年に創業した高倉電機が、ブランド戦略の一環として社名変更した国内屈指の総合電機メーカーだ。全世界の連結子会社を含め二十万人の従業員が所属し、連結売上高が八兆円、営業利益は一兆円を超える優良マンモス企業だ。

 これだけの高収益企業でかつグローバル企業であるTECGに、なぜこんな何の利益も生み出さない部署が常設されているのか、普通に考えればとても不思議な話だ。

 世間一般的には、せいぜい〇〇周年など節目の時期に臨時に設置されるか、総務部や人事部の機能の一部として存在するぐらいだろう。

 当社においても私が就任するまでは、定年間際の功労賞的なポジションで、新人研修や幹部社員研修の講師をしないときは、ただ文献を眺めて一日が終わっていたようだ。

 だが社長の高階はこの部署を廃止することができない。

 高階が社長に就任する迄は、旧高倉電機は俗に高倉三代と呼ばれる創業家が、代々社長を務めるオーナー企業であった。

 しかも歴代の社長たちは創業者の威光でトップの座を与えられたボンボン社長ではなく、それぞれが時代に合った選択を行い、創業者の偉業を更に高めていった、いずれも経済誌に足跡を残すような男たちだった。

 そして最後の創業家社長高倉將志が、創業家の偉業をまとめる部署として創設したのがこの部署だ。

 まだまだ影響力の高い創業家への手前と、自分を後継者に指名してくれた先代社長への義理が絡み、高階の心情的には神聖にして侵すべからずと言ったところだろう。それ故に、資料収集などのための予算も多く、オフィスも水道橋本社最上階の役員フロアにある。

 私が社史編纂室長に成ってから、上司である梅川秘書室長の意向で、この部署のミッションが大きく変わりつつあるが、それでも古巣の営業部のメンバーから見れば、とてつもない閑職であることは間違いあるまい。

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