冬のアプロディーテ

綾波 宗水

第1話

 今日もまた僕は不貞を働いている。


 程よい彼女のぜい肉は、僕の動きと連動して揺さぶられ、それを合図に美代子みよこさんは声を出す。産業革命以前からある人間の生産行為であり、人類の大多数が行っている快楽行為。

 だが多くの人々は慣習的に、それを口にするのをはばかり、結婚という法整備によって、原始的欲求を抑えている。


 だが、いかに優れた法が施行されようとも、殺人が無くならないのと同様に、悲しいかな、不倫というものもまた、夕闇に匿われつつも、実際に行われ続けてるのだった。


「今日はどんな授業だったの?」

 僕は今年の春から大学生。すでに季節は冬となり、さぞ輝かしい日々をおくっているかと思いきや、新型ウイルスの感染拡大を理由に、前期は毎日、自宅での講義だった。これはニュースでも取り上げられているため、時事に明るくなくとも、よく知るところである。

 だがしかし、報道なされないのは、対面授業が解禁された後のことだ。

 有り体に言ってしまえば、僕は一人も友人が出来なかった。

 幸い、僕はそれを残念には思わない。

 一つは、問題なく、講義を受けることが出来、成績の心配も現時点ではなさそうだから。そして、友人がいなければ、何もすることが無いような性格の持ち主ではなく、読書やアニメ、そして小説執筆という楽しみを持つ僕に、強いてまで友人は無用なのだった。

 むしろ気楽でもあるし、経済的だった。


 大学は週に一度。

 途中、大きなショッピングモールがあるため、用もなしに、暇つぶしも兼ねてぶらついていた。美代子さんと出会ったのもそこだった。

 繰り返すようだが、僕は読書が殊の外好きだ。だから、大学図書館にないような、趣味的な書籍、小説やライトノベル、漫画などは、ショッピングモール内にある大きな書店で購入していた。

 大きな書店には、ありがたい事に、在庫検索が可能な器機が設置されていることが多い。店員も忙しいのだ、「○○ってどこにありますかね?」という質問をできるだけ回避し、業務を遂行するには、ベストかは分からないが、限りなくベターな運営方針だと言える。


 僕は大体、どこの辺りにどういったジャンルの本があるかくらいは分かる。これは何も誇るようなことでもなく、書店によく足を運ぶ人間であれば、自然と身につく。

 しかし、初めて来た、もしくは来慣れない、探し慣れない人であれば、その書店の規模と比例して探すのが困難となり、いかに在庫検索によって、置かれている棚が明らかになったとしても、その棚が分からないのであれば、話にならない。

 美代子さんもまた、そういったタイプの方だった。


 僕は神社仏閣では徳が増すよう、励んでいきたいなどとは思いつつも、実際にこうやって探している人に、「お探しですか?」と声をかけた事は無い。

 それでも、不思議な事に、その日だけは、昨日までと違った。

「あの………良かったら僕も探しましょうか?」

「え………あ、すいません、大丈夫です」


 もう金輪際、自分から声なんてかけない。

 分かりきった現実に、ひねくれた態度をとるかのように、再び買うか買うまいか迷っている文庫本に目を落とす。親切を一度は受け取らない姿勢が美徳とされるわが国では見慣れた様子で、今更、こんなことで気に障るようでは、今後の人間関係に不穏さを感じ取らせる。

 そうして再び、昨日と同じ日常が流れていく―――


「あの、やっぱり一緒に探してもらえますか?」

 かのように見えたが、物静かそうな女性は、周りの迷惑にならないが、僕にはしっかりと届くくらいの声量で、そう告げてきた。

 仕方ないな、みたいな心持ちだが、表面上では「いいですよ」と明朗に答える。

 名探偵が依頼人の持ってきた手掛かりを観察するかのように、彼女の持つ在庫記録が印刷されたレシートと似た材質の小さな紙を覗く。

 なるほど、これならここの列じゃないか、あと数分でも放っておけば、彼女も自力で見つけていた事だろう。

 作者名からいっても、大体僕らの視界に収まる周辺にあるはずだ。

 彼女も熱心に、時折、タイトルなんかを呟いたりして一冊ずつ目で追っていた。

「ここには無いですね」

 そう彼女が細々と漏らしたが、僕は「どうぞ」と言って、お目当ての本を渡した。

「あれ!?ありました、ありがとうございます」

 店員であっても見つけられなかっただろう、僕が立ち読みしていたのだから。

 大学の購買に売ってはいないだろうから、買うとすればまた別の書店か。

「………あの、もしかして、さっき読んでたのって」

「ごめんなさい、僕が立ち読みしてた本でした」

「あっ、こっちこそごめんなさい」

「僕はいいので、お気になさらず、買ってください」

「でも、本当にいいんですか?」

「全然構いませんので、ホント、お気になさらず」

「それじゃあ、ありがとうございました」


 そう言って、彼女はレジへと向かっていったのだった。

 手持ち無沙汰だが、そろそろ大学へ行く時間だ。隣接していると言えども、遅刻したのでは情けない。無論、わざわざ非難してくる知人はいないのだけれど。

「あの、あの!」

「え、あっ、はい」

 穏やかそうなさっきの女性が、急いでこちらへ走ってくる。

「良かったら、先に読んでください」

 そう言って、レジ袋を差し出してくる。

「いや、申し訳ないんで」

「私、読むのが遅いから、どうせ貸すなら先の方がいいんです」

「先に読むのもですけど、見知らぬ方からお借りするってのも……」

「あ、私、滝沢たきざわ美代子みよこです」

白石しらいしかおるです」

「じゃあ、どうぞ、カオルくん」

 お淑やかに見えて、案外そそっかしいな。

「返す時はどうすれば」

「そうですね……あっ、大学生ですよね?」

「そうです」

「じゃあ、授業のある日にここで会いましょっか。連絡先は」

「本当にいいんですか?」

「もちろんです」

 あまりにも突拍子のない事態に驚く。これが社会なのか、はたまた彼女の個性か。

 平生へいぜいの僕であれば、そもそも声は掛けなかったし、借りることもなかった。

 彼女の持つ不思議な空気感にほだされた僕は、ただ一切を受け入れる他、何も行いはしなかった。

 講義の合間に読むその本は、立ち読むの時と比べて、あまり頭に入ってこなかったのを今でもよく記憶している。

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