第2章 大島ともみ
「大島ともみです。よろしくお願いします。」
次の日の朝礼。大島と名乗った新入社員は、安田の言ったとおり可愛かった。安田はドヤ顔で“言ったとおりだろ?”と、目配せをしてきた。
「以上、新しい社員だ。みんな、可愛がってやってくれ。」
部長の挨拶で、朝礼は終わりになる。新入社員は教育係の指示に従い、移動する。全員、まだまだひよっこって感じだな。研修を終えて出社してきたばかりだから、当たり前と言えば当たり前だ。
これから約1ヶ月間、安田を始めとする教育係に新人たちはみっちりしごかれることになる。
「なんか、この季節。心がなごみますよね。」
産休から戻ってきたばかりの谷口が、話しかけてきた。谷口は俺より4つ下だが、大学の時に学生結婚しているため既婚者だ。
「なごむか?」
「新人ちゃんたちのフレッシュな感じに、初心に戻らされます。」
ふふっと笑った谷口は、仕事ができるやつだ。そうやって、節目、節目に初心を思い出すことができるからこそ、仕事ができるのかもしれない。
「初心、か。」
6つも年下のやつらが入社してきたのかと思うと、俺も年取ったな、なんて感じてしまった。
「宮本係長、よろしくお願いします。」
安田が言っていた大島さんは、俺と同じ課に配属されることになった。とはいえ、まずはイロハを安田たちに教わるため、あと1ヶ月くらいは直に接する機会は少ない。
「あぁ、よろしく。」
俺も谷口のように初心に戻って頑張らなきゃな。
それからの安田は、本当に忙しそうだった。新人の教育も安田の仕事になるわけだが、安田が担当している取引先をおざなりにするわけにもいかない。それは他の教育係のメンバーも一緒だった。
自分の係の部下にも新人教育係のやつがいるため、みんなでフォローしてやろうと部下を激励する。指導するこちら側も忙しくて必死だったが、指導を受けている新人達も必死なようだった。
社会人1年目な訳だから、させられる仕事は全部初めてのことばかりだから、必死になって当たり前だ。俺らの先輩達も、こんな気持ちで俺らが新人の頃を見ていたのかな、なんて思う。
「つっかれた~~~。」
「お疲れ。」
1ヶ月後。俺と安田はいつものように、焼鳥屋でグラスを合わせた。
「約1ヶ月間、お疲れ様。」
「ほんとだよ~。やっと来週から自分の仕事に打ち込めるよ。」
週末の今日が新人教育の最終日だった。それまで安田は、ほとんど毎日残業で、大変だったろうな、と思いながら安田を労う。
「明日からの土日、絶対女の子と遊んでやる。」
しかし安田の元気は、有り余っているらしい。
「お前、元気だな。」
俺は呆れるしかない。
「だってよ。大島ちゃんをこの1ヶ月ずーっと誘ったのに、俺に見向きもしないんだぜ。こんなの初めてだよ。」
「……お前、なにやってたんだよ。」
思わず盛大な溜め息が出る。
「極上の誘い文句を言っても、見事にスルーされるんだぜ。吃驚したよ。」
安田は両手を肩くらいまであげて、手のひらを天井に向けて肩をすくめる仕草をする。そんなに難攻不落だったのか、大島ともみ。
「しかも俺が可愛いって言ってるだけあって、新入社員で一番人気なんだと。他の部署のやつらも狙ってるって聞いた。」
「うちの男どもは、お気楽なやつばっかだな。」
「だって社会人になると、出逢いってなくね?」
「だからって同僚に手ぇ出さなくてもいいだろ。面倒なだけだ。」
「まぁ、周りにバレないようにしなきゃ、バレたときに面倒だな。」
「だろ?」
「でも、大島ちゃんは一回だけでいいから抱いてみたかった~。」
……コイツ、節操なさすぎだろ。
その夜は、次の日が休みということもあって、俺たちは深夜まで飲み歩いた。
「ん……。」
飲みすぎた翌日は、頭が痛い。カーテンの隙間から日が差していることは分かるが、目を開けることができない。
「今、何時だ……。」
サイドテーブルの時計に目をやると、14時。
「まじかよ……。」
昨日、というか今日の明け方4時に安田と分かれて家に帰ってきた。シャワーも浴びずにベッドになだれ込んだから、着ていたスーツもしわくちゃで体も酒臭い。
とりあえず、シャワーを浴びようとベッドを出る。あぁ、腹も減ったな。シャワーを浴び、スウェットに着替えると、洗濯開始。ワイシャツを洗濯にかけ、しわくちゃになったスーツはクリーニングに出すことにする。
「飯、なんか買いに行かないと。」
実家が農家だから野菜なんかは定期的に送ってもらえて食べ物には困らないが、料理はあまりしない。スーツをクリーニングに出すついでに食べ物を調達しようと、車の鍵と財布を持って家を出た。
先にクリーニング屋にスーツを出すと、その近くのコンビニに寄った。スウェットだしどっか洒落こんだ店に入るにも気恥ずかしい。そういうわけで、ささっと買い物のできるコンビニで何か買うことにした。
車を駐車場に止め、コンビニの中へと入る。いつもは家の近くのコンビニにしか行かないため、少しだけ新鮮な気持ちだ。弁当コーナーに行き、何を買おうかと迷っているときのことだった。
「陽太、お菓子も買っていい?」
「お菓子ばっかり食ってたら、太るぞ。」
「いいじゃん~。」
後ろから仲の良さそうなカップルの声が聞こえた。「週末、一緒に過ごしましたって感じか」と、少しだけ羨ましく思いながらも弁当選びに集中する。
「ほら、ともみ。買ってやるから選べ。」
ん?“ともみ”?大島さんと同じ名前だな。
「やった~。」
……ん?そういえば聞いたことがある声だな、なんて思ったもんだから、そっと振り返ってみる。
「新発売のこれが食べたかったんだよね。」
そこには俺と同じように、ラフな格好をした大島ともみが男と一緒に居た。
「また腹の肉が増えるぞ。」
「ひどい!」
安田に靡かないって聞いていたが、男がいたのか……。向こうは俺に気づいていない。というか、気づかれたらなんとなく気まずい。
だから、気づかれないようにこそこそとするものの、大島ともみの方を視線で追ってしまう。休日なんだから、会社とは違う表情をして当たり前なのだが、言葉では言い表せない独特の雰囲気を醸し出している。
大島ともみは惚れてる男の前だと、あんな顔するのかと釘付けになってしまった。
「ありがとうございましたー。」
大島さん達は俺に気づくことなく、コンビニを出て行った。なぜか知らないけど、見てはいけないものを見てしまったような気になる。そのせいか、俺の心臓はバクバクと鳴り止まない。
もしも、の話だ。もし、大島が俺のことを好きになったら。俺にもあんな表情を向けるのだろうか。
週明けになると、いよいよ本格的に新入社員も仕事をするようになってきた。大島ともみという人物は、よく気が利いて他の女子社員からも可愛がられている。
人あたりがいいんだなぁと感じるものの、休日のことがあって俺はまともに大島さんを見ることができなかった。
「宮本係長、おはようございます。」
「……おはよう。」
そんな俺にはお構いなしに、大島さんは笑顔で挨拶してくれる。彼氏と週末すごしたんだな、なんて考えがよぎると、エロいことを想像してしまった。
いかん。仕事に集中だ。
今日は午後から取引先に行かなければならず、午前中のうちにやっておく仕事があるのだ。
「宮本くん、谷口くん。ちょっと。」
猛スピードで仕事をしていると、部長から呼び出しを受けた。
「はい。なんでしょか。」
谷口と一緒に、部長のデスクへと向かう。
「今日、谷口くんと一緒に取引先をまわるんだろ?それに大島くんも同行できないだろうか。」
大島さんを?
「は、はぁ。」
俺は驚き目を見開きながらも、歯切れの悪い言葉が口から出た。
「営業の仕事は、経験を積むのが手っとり早いからね。連れて行ってあげてくれないか?」
ニコニコ笑顔の部長。確かに部長の言うことは、一理ある。それに今日は、契約更新をする取引先を回るだけだ。
「分かりました。大島には僕から伝えておきます。」
「悪いね。よろしく頼むよ。」
部長からの頼みに快諾し、谷口さんは自分のデスクへ、俺は大島さんのデスクへと向かった。
「大島さん。」
「は、はい!」
パソコンとにらめっこをしていた大島さんは、俺が近づいてきたことに気付かなかったようで、肩をビクッと震わせた。一生懸命だな、と思うと笑みが溢れる。
「今日、俺と谷口さんのペアで取引先を回ることになっているんだが、大島さんにもそれに同行してもらうことになった。」
「え、あ、私がですか?」
大島さんはひどく驚いた顔をした。驚くのも無理はない。部長の無茶ぶりな上に、大島さんは新人なのだ。
「あぁ。部長からのお達しだ。」
「な、何か準備することはありますか?!」
大島さんにとっては、初めての取引先訪問だろう。新人研修のときにアポなし企業訪問とかでそれなりに鍛えられはしただろうが、本格的に営業に向かうのは初めてのはずだ。
「そうだな。心の準備だけ、しておいてくれ。」
「心の準備、ですか。」
「そうだ。俺たち営業が会社の顔になるんだから。」
「……はい。緊張しますが、よろしくお願いします。」
大島さんは律儀にも椅子から腰を上げ、深々と俺にお辞儀をした。
午後になると、谷口さんと大島さんを引き連れて、5件ほど取引先を回った。そのどの取引先にも、大島さんが新入社員なんだと紹介した。大島さんはたどたどしくも、ちゃんと自分の名刺を礼儀よく渡していた。初めてにしては、上出来かな。
「き、緊張しましたぁ。」
最後の取引先が終わり、大島さんは達成感のような、疲労のような、そのどちらともとれる表情をした。
「疲れたでしょ。私も初めてのときは、すごく緊張したもの。」
谷口さんは、しっかり先輩面だ。
「なんていうか。やっと営業部の一員になれた気がします。」
「そうね。営業部は、営業に行ってナンボだもんね。」
あははっと大きく笑う谷口さんと大島さんは、しっかりコミュニケーションもとれている。
「こら。これで調子に乗るんじゃないぞ。大島さんはまだ、友好な取引先に挨拶をしただけなんだから。」
達成感もいいけれど、これからまだまだやってもらわなきゃいけない難易度の高い仕事があるから、釘を刺しておく。
「はぁい。」
それでも俺の釘にも怯まず、大島さんは楽しそうだ。今日は直帰ではないため、3人でまた会社へと戻る。それに俺はまだ目を通しておかなきゃいけない資料が残っていた。
「宮本係長、今日は本当にありがとうございました。」
終業時刻になり、これから帰るのだろう。大島さんが、わざわざ俺のデスクまで挨拶にきた。
「あぁ。新人は何事も経験してナンボだ。失敗もたくさんしろ。」
「えっ。」
「失敗してみないと、分からないこともたくさんある。成功するだけが、成長じゃないからな。」
考えてみると、「若くして係長になった」と会社では有名になった俺だが、それでもたくさん失敗してきた。というより、失敗するから成功することができると思って居る。
営業の第一歩を刻んだ大島さんに、何か声を掛けてやりたいと思ったからこそ、自然と俺の口からそんな言葉が出て来た。
「はいっ。頼りない新人ですが、頑張ります!」
「おう、頑張れ。」
「それではお疲れ様でした!」
「お疲れ。」
笑顔で大島さんを送り出すと、残った仕事のやる気が出てきた。
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