朽ちる聖森 婚約者を喪った王妹は森で、何百年も前に死んだはずの前魔王に出会う
家具付
プロローグ
そこではまさに今、とある高貴な身分の男が、命尽きようとしていた。
「ああ、殿下、殿下!! おいて行かないでくださいまし、わたくしをおいて行かないでくださいまし!!」
その高貴な身分の男の寝台の、すぐわきに座り、男の手を両手で握りしめ、女が一人涙を流しながら、必死に訴えていた。
なるほどこの高貴な男の何かしらの縁者なのだろう。
そんな事を思わせるような、気品のある娘だった。
その娘は涙ながらに必死に訴えているモノの、その高貴な身分の男は、自分の命がどれくらいなのか、はっきりとわかっている様子だ。
微かな呼吸を繰り返し、息を吸ったと思えば数拍の空白のあとに吐き出す。
そのため、彼の呼吸の間が開くたびに、そばにいる誰もが、びくりと肩を震わせ、娘の眼からとめどなく涙があふれだしていく。
「殿下」
行かないでください、と願う娘に、頭髪に白い物が混じる、おおよそ五十を過ぎた男が、優しく笑った。
「……ああ、素晴らしい人生だった」
「殿下! いやです、まだまだあなたと過ごしたい、まだあなたが行くには早すぎます!」
娘が男の言葉を否定しようとする。だが男はもうとっくに、自分の命が長引かないと知っていた。
そのため、娘が握る自分の手をかすかに見た後、そっと彼女の瞳を見た。
優しい、慈愛に満ちた微笑みで。
「どうか、私がいなくなった後も、あなたは幸せな人生を送ってください、可愛い人」
「……」
「あなたがこの城に来てからすごした婚約期間は、私にとってこの上ない贈り物になりました。死出の旅に持つ荷物として、最高のものです」
男はおそらく息も苦しいというのに、彼女には微笑み、優しい言葉をかける。それが自分の使命だと思っているのか、それとも辛いことを言うには、彼女が若すぎると思ったのか。
五十も過ぎたその男の、うら若き婚約者は、必死に、彼の笑顔を、記憶に焼き付けようと、目に留めようと、瞬きをこらえるように涙を流し、じっと敬愛する婚約者を見つめていた。
「ああ、姫君、どうか、あなたが、これから、幸せであるように……」
男は最期の力を振り絞っていたのだろうか。それを言い終わった後、ゆっくりと力なく瞳の輝きが薄れてゆき、閉ざされた瞳は、どんなに女が嘆き悲しんでも、帰ってきてもらおうと訴えても、開く事はなかった。
しらじらとした白い雪が降り始める初冬、莫大な財産を持ったへんくつと噂された辺境伯は、長い人生を終えた。
国の王の、叔父にあたる、由緒正しい高貴な血筋の男は、そうして静かに眠りについたのだ。
「殿下……!!!」
春が告げられ次第、挙式をあげる事になっていた若い婚約者を置いて。
死者と生者の別れを告げる、荘厳な鐘の音が鳴り続ける。
その鐘の音の始まりとともに、棺に眠る辺境伯に、土が被せられ、その上から彼の功績をたたえる石碑が置かれた。
その後、一週間以上、数多の民にも愛されたその辺境伯のために、様々な人種の人間や、職業の人間が花を一本でもいいから、と捧げに来る。冬場に咲く花は高価な品物だ。
それを必死に買い求めて、死んだ男へ捧げるのだから、辺境伯の人徳がしのばれた。
そんな光景を漆黒の喪服に包んだ姿で、彼女は見送っている。
黒いヴェール越しの視界は、おそらく灰色に染まっているのだろう。
「姫君、本当にもう、行ってしまわれるのでしょうか」
「ええ、女王陛下のお呼びですから。それに、あの方と結婚していなかったわたくしを、こうして、長い間いさせてくださったのです。その事にとても感謝しております」
「この国のしきたりとして、婚約者は一週間は相手の墓に祈りを捧げに行くのですから、当たり前の事ですよ」
「ええ、そうですね。……見たかった」
「え?」
「殿下が、この国の春はすばらしい、と結婚式には一番美しい春を見せたい、と言ってくださっていて」
「姫君、あなた様の責任ではありません。辺境伯は長らく病を患っていたのですから」
「それでも、……ああ、神は何故あのように優しい人に、病の苦しみを与えるのでしょう」
彼女の瞳に涙がにじむ。見送りの男は慌てた顔になったが、彼女の故郷の関係者が、そろそろ出発させてくれ、といった雰囲気になったため、彼女へ最後の挨拶をした。
「どうぞ、お元気で」
「ええ、皆様や殿下を愛する人たちに、この上なき幸いがありますように」
彼女の乗る馬車の扉が閉ざされる。カーテンも閉められ、もう彼女の姿を見ることは叶わない。
見送り役は、その馬車が視界から消えるまで、それを見送っていた。
いつまでも、いつまでも。
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