3

 突然インドのことを話題にされ、うっかり弓子の前で和矢を呼び捨てにしてしまった。

 履歴書の経歴にも書いていたし、ポートフォリオにも風景や人々の写真を載せていたのだから、弓子が知っていてもおかしくなかったのに。ここ数日の英人とのやり取りで、和矢や弓子に対する謎が自分を疑心暗鬼にしていたようだ。


 ただ。


『和矢と、何かあったの?』


 あの言葉は、単なる疑問が口に出た、というよりも、もっと深いものを感じた。何かあったのだ、と確信めいた弓子の感情が、見え隠れしていた。

 何と声をかけるべきか悩んで、弓子が注いでくれたコーヒーを口にする。いつもは砂糖なしミルク多めを好んでいる健太だが、ブラックが飲めないわけではない。弓子お気に入りの専門店で購入しているコーヒー豆は、二杯目で多少時間は経過しているが、挽きたての良い香りが鼻孔をくすぐる。まろやかな苦みは、ブラックの方が引き立つ。


「ブラックでも大丈夫そうね」

「和矢じゃないんで」

「そうね。ミルクを切らしたら、あんなに不機嫌になるなんて思っていなかったわ。兄さんはいつもブラックだったから。和矢とは、親しいのよね? 本当は」

 無言で健太はうなづいた。

「やっぱりね」

「気付いていたんですか?」

「何となく、かな。和矢があなたに気を許しているのに、それを隠そうとしている雰囲気を感じていたし、あなたも殊更他人行儀に振舞っていたから。年も近いんだし、共通点もあるのに、なんでかな? あ、むしろそれが理由かな? って」

 ふふん、と両手を組んでその上に顎を乗せて微笑む弓子の目は、今までになく挑戦的だった。

「ホントに遠野さんには隠し事できないですね」

「まあ、これでもかつてはジャーナリストの端くれとして、世界を飛び回っていたんだから。編集の子に聞いたんでしょう? 私のこと」

「まあ。一通りは」

 聞かされた、という方が正しい気がするが、事実はそう違わない。

「私も、あなたの経歴を見た時から気になっていた。インドにしばらくいたって。でも、その話私にはしないけど。なんで?」

「隠していたつもりはないんですが」

「そりゃそうよね。ポートフォリオに載せてもいたし。逆にアピールしようとは思わなかったの? この仕事であなたを指名した時に、『知っている風景が、とても繊細に映されていて気に入った』って、コメントしていたんだけど」

「てっきり国内の写真のことだと思っていたので。遠野さんがインドに滞在歴があるって知ったのは、編集の人に教えてもらうまで知らなかったから」


「和矢とは、インドで会ったことあるの?」


 ズバリ核心を突く質問を、不意うちのように投げ込んでくるあたり、元敏腕ジャーナリストらしい話術である。隠し事が得意でない健太に敵う相手ではなかった。

「はい……」

「それは、ここ数年のこと?」

「……まあ」

「違うわね。あなたたちが、

 今まで以上に確信をもって、弓子は言い切る。あいまいな返答を看過されたことより、その言葉の方が健太には衝撃だった。

「遠野さん……?」

「兄さんのこと、知っているの? 兄さんの死の真相について」

「……俺と真矢のこと、知っていたんですか? 和矢が伝えて?」

 弓子には詳細を知らせていない、と和矢は言っていた。だからこそ、自分たちの関係も伏せておくように、と懇願されたのに。

 健太の中で、和矢に対する不信感がどんどん強くなっていく。

 しかし、弓子は首を左右に振り、それを否定する。

「和矢は、何も。あの子は、私に何も言わないわ。言わないことで、何も知らせないことで、私を守ろうとしているのよ。今まで、たった一人で、美矢を守りながら戦ってきたはずなのに。血縁がある、というだけの私なんて、利用すればいいのに」

「和矢は、遠野さんのことを大切に思っている、って俺は思います……」

 そう、思っていた、けれど。小さな不信の芽は、その言葉尻を自信のないものにしてしまう。

「和矢を、信じられないでいる?」

「……」

 無言を肯定と捉えたのか、弓子は悲し気に目を伏せる。

「信じて、とは言わないわ。あの子にも謎が多すぎる。でも、たった一つだけ。あの子が陰で何か画策していたとしても、それは、何一つ、和矢のためじゃないのよ。自分以外の何かのために、何かを守るために、やっていることなの。それだけは、分かってほしい」

「遠野さんは、何を知っているんですか?」

「何も。ほとんど何も知らないわ」

「でも、まるで和矢の守る『何か』を知っているみたいに……」

「そうね。こんな根拠のない自信で、あなたに分かって、なんておこがましいわよね」

 でも。根拠はない、と言いながらも、弓子の目には自信が満ちていた。

「……私は、知る必要があるわ。和矢が私から遠ざけようとしている事実を。それが、どれほど残酷なことでも」

「遠野さん……」

「今から、十年、いえもう少し前になるわね。兄がインドにいるかもしれないことを知って、異動希望をだしたの。最初はイギリスにいるって思っていたんだけど。あんな広い国で、手掛かりなしに一人の人間を捜索するなんて無理な話よね。だから、兄に関係しそうな組織の存在をまず探ってみたの」

「組織?」

「兄がイギリスで懇意にしていたという人がことごとく消息不明で、ずっと手掛かりがなくて。兄の結婚相手は混血ハーフだとは知っていたけど、イギリスには移民も多いから、それだけじゃ雲をつかむようなものだったわ。かろうじて探し出した知り合いも、口をつぐんでいて、情報は得られなかった。ただ一つだけ『アンダーグラウンド』には気をつけろって。オカルトチックな都市伝説だと思っていたけど、その組織は存在した」

「『アンダーグラウンド』……」

「別名『黄昏の薔薇トワイライトローズ』。イギリスのどこかの時計塔の地下に本部が存在する魔術系の秘密結社、っていうおとぎ話みたいな話を、すぐに信じることはできなかったわ。そもそもイギリスなんて時計塔だらけ。行き詰って、一番有名な時計塔……ビックベンを見ながら、気落ちしていたら、そこで兄の名前を聞いたの。そして、インドにいるかもしれないことも」


「それだけの、あんな短いやり取りだけを信じて?」

「『あんな』? ……あの男の子は、あなたなの?」


「やっぱり、あれは遠野さんだったんだ……時計塔の見える公園で、雪の中泣いていた、女の人……」

「……そうね。藁をもつかむ思いだった。異動希望を叶えてもらうために、必死で仕事して、一年後、ようやく異動になった。その頃には、少しだけど組織の情報も手にしていた。もともと植民地だったインドに、イギリスは強い影響を持っていて、それは裏社会でも同様だったの。神秘学分野では特にね。世紀末という時代背景もあって、終末思想が持て囃されて、そこで組織はどんどん富裕層を取り込んでいた」

「富裕層?」

「そう。科学技術の発達した現代でも、だからこそかしら? その手の思想に一番踊らされやすいのは、多くの財産を持つ人種なのよね。失うものが大きいほど、危機感が高いのかもしれないけど。二十世紀が終わる頃、いわゆるミレニアムね。本来ミレニアムに魔術的な意味はないけれど、ミレニアムに伴う終末思想が、富裕層に限らず、人々の不安を呼び、結果オカルティズム、神秘学への興味関心を高めていたわ。そして、根拠のない不安に襲われた富裕層は、どこかしらから情報を得て、組織につながりを求めるように煽動されていた」

「あの、予言とか」

「そう。マスコミなどの情報媒体を活用し、秘密裏に終末思想を煽っていたのも、かの組織も無関係ではない、と私は考えてるわ。あの予言書は、格好のネタだった。実際にはそれらの予言に効力があるなど、組織は考えていなかったと思うけどね。少なくとも世間に流布された内容とは解離していることを示す研究も公表されていたのも事実」


 二十世紀末をミレニアムとして寿ことほぐ一方で、様々な流言が飛び交い、良くも悪くも世界中の人々が浮足立っていた、らしい。健太にとっては、聞いたことがある、という程度の昔話でしかないが。


「ただ、分かりやすい終末論と、不安定な世界状況は、ますます人々の不安をあおったし、その影に世間には知られていない真の終末の秘密を抱えている、それを特別な者とだけ共有する、という選民思想を煽った。優越感をくすぐられ、失うものが大きい富裕層ほど、その思想にのめりこむ傾向を熟知して、組織はそんな不安をうまく掬い取っては、その財力ごと吸収していったのよ」

「まるっきり、悪辣なカルト宗教団体だな」

 憤りを含んだ健太の言葉に、弓子もうなづいた。

「始末に悪いのは、だましているつもりはない、真実の終末を回避するため、その財力を活用するのだ、むしろその一翼を担わせてやっているのだから、感謝してもらいたい、本気でそう考えている人間が表に立っていたことね。さらに、真実の終末回避の手段として、より能力の高い人材が必要であり、それの教育は若ければ若いほどいい――人材のスカウトと育成を目的に、いくつかの名門と言われる教育機関にも組織は入り込み暗躍していった。おそらくその象徴が『時計塔の地階アンダーグラウンド』という通称なんでしょうね。多くの教育機関は、その近くに教会の時計塔があるもの。時計塔そのものを探しても無駄だったのよ」

「『地階』は『その陰』という暗喩だった、ってことですね」


「私に調べられたのは、ここまでだった。ニューデリー支局に赴任して、大使館や通関の履歴を調べて、何とか兄の入国記録までは手に入れたけれど、その後の足跡は知ることができなかった。ただ、支局に残されていた、ニュースにもならない小さな情報提供タレコミのメモを見つけるまでは」

「タレコミ?」

「スラム街にほど近い路地で日本人の親子が襲撃されて、幼い子供が親の遺体ごと連れ去られた、と。警察にも取り合ってもらえないが、確かに見た、ってね」

「それは……」

「一応裏は取ったみたいなんだけどね。事件性なし、と処理されていたわ。情報提供者も匿名だったし。でも、インドだけでなく東アジアの裏社会で人身売買が横行していて、そのために子供の拉致誘拐事件が少なくないことも周知の事実だったわ。それを『事件性なし』と即断したことに違和感を持ったのよ。情報提供されたのは半年前。私はその情報提供者を探し始めたわ。けれど、やっと目撃情報の場所を特定出来そうになった頃、社命で緊急帰国することになったの」

「社命で?」

「表向きは、母の危篤、だったけどね。メールも電話も通じなくて、でも、慌てて帰国したら母はピンピンしていたわ。そして、国内の部署に異動になった。表向きは役職も上がって栄転扱いだったけれど、社用ではもちろん、個人での渡航も禁止されたの。何かの圧力がかかったことを感じたわ。それも、うちのような大手に圧力がかけられる、途方もない権力を持った存在の。そして、私は新聞社を退職した」

「それが、組織、だと?」

「タレコミを調べるのと並行して、組織のことも調べていたのよ。人身売買、っていうキーワードから、英国系の児童養護団体に行き当たったの。表向きは、篤志家による児童養護施設……その実、高い能力を持つ子供を集めての英才教育、ひいては能力研究を行っていることをね。もちろん、それだけでは決して非合法な組織ではないわ。世界中の名だたる企業のトップが協賛していて、中には日本の企業も含まれていた。その企業の古い社員名簿に、兄の名を見つけたのよ」


「その企業……『オミ・インターナショナル』?」

 健太の問いかけに、弓子は目を見張る。

「その通りよ。……笹木君、あなた、どこまで知っているの?」


「何も。ほとんどは、つぎはぎの情報でしかなくて。それも、人に聞かされた言葉ばかりで、事実として自分で見たことではないんです。俺が聞いたのは、『真矢の命の火が消えた』というおばあの……真矢親子と一緒に暮らしていた老女の言葉と、もう一つ」

「もう、ひとつ」


「『真矢は、組織に殺された』」


「ころ……された?」

「それが本当なのか、事実は分かりません。だた、そのことで、和矢を恨んで復讐しようとしている男がいることは事実なんです」

「なんで? どうして和矢を? 兄の死に、組織に一番苦しめられているのは和矢なのに!」

「……弓子さん、あなたは何を知っているんですか? あなたこそ、どこまで……」


「……組織、と言っても、それは『黄昏の薔薇』ひとつではないの。他にも様々な秘密結社や団体が加盟している、集合体なのよ。そして、その中でも強大な権力を持ち『黄昏の薔薇』と組織の両翼を担っているといっていいのが、『世界神聖学会』。元はヒンズー教の一宗派だったのが英国の魔術集団と融合して学術派閥として発展した団体よ」

「英国魔術と、ヒンズー教の融合?」

「そう。インド周辺の国や地域には、『神降ろし』の信仰があってね。まあ、日本のイタコや沖縄のノロやユタなんかもその派生だけど、神や精霊が乗り移ることのできる存在を崇める風習があるのよ。特に高位の神や精霊、仏教だと仏も入るわね、そう言った存在は乗り移る一時的な依代、というよりも、魂ごと生まれ変わってくる、生き神、という存在として扱われるのよ。現地の言葉では『クマリ』と呼ぶこともあるわね。対象を幼い少女に限定している地域もあるようだけど。大人になると生き神としての寿命を迎え、只人に戻る、という感じで。でも、『世界神聖学会』では、『クマリ』は終身なのよ。成長しても年老いても、その存在は肉体の死を迎えるまで、神同然なの」


「インドの……神?」

「そうね。インドは神様の数も多いけど、信仰対象になるのは、やっぱり上位の、主神に近い神様よね。有名なところでは、ブラフマー、ヴィシュヌ、そして……」

「シヴァ……」


「そう。……和矢は、おそらくその三主神の、トリムルティの一柱になる人材としてか、もしくはその存在を探す能力者として、組織に連れ去られたと思っている。兄も、……そうだったから」

「真矢が?」

「昔から、兄には不思議な力があってね。心を読む、ってわけじゃないけど、どんなに隠そうとしても感情の変化や気配を察知したり、もっと言うと、離れた人の思いなんかにも気付くことがあったの。兄と父は仲が悪くてね。それは、父の不倫が原因で。それも一人じゃなくて。母も父の不貞は何となく察していたみたいなんだけど、兄は父にまとわりつく女性の気配を見分けて、それも複数の。もともと生真面目な性格だったから、それが許せなかったんでしょうね。母が死ぬ間際に教えてくれなかったら、私は一生気付きもしなかったくらい、よき父よき夫の体面は繕っていたし、お葬式に顔の知らない兄弟が現れることもなかったし。母の死後、兄の不思議な力のことを知って、ようやく兄と組織のことが結びついた気がした。そして、今度は和矢が、その力のことで、組織に囚われていることも」


「それは、かなりの極秘情報トップシークレットだと思うんですが、いったいどうやって?」

「まあ、蛇の道は蛇? なんて、かっこいいこと言ってみたいけど、もう私にはそんな伝手はないのよね。だったら、自分で伝手を作るしかないわけ」

「……まさか?」

「私自身が、組織の一員になればいいのよ。幸い、資産だけは十分にあったし。相続税対策で家を手放した時の残りを、ポンと寄付したら、あっという間に上位会員よ。まあその後、和矢と美矢を引き取った時に、生活に必要な資金として、そのうちの何割か分振り込まれたけどね。まあ、地獄の沙汰も金次第、ってかんじね」


 ……薄々感じてはいたけれど、何て破天荒なんだ。

 今までの話から考えると、一歩間違えば組織に存在を消されかねなかった、というのに。

「どっちかと言うと、虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってかんじですが」

「そうとも言うわね。まあともかく、結果的に私は和矢と美矢を、一時的にしろ取り戻すことができたわ。兄の死の真相は、まだ分からないままだけど。『殺された』って言うのも、まだ信じられない。あの組織は、確かに裏ではかなり非合法なこともしているし、おそらく人を殺めることもあったかもしれない。ただ、組織の性質上、能力者にはかなりの敬意を払っているし、手段は不法で荒っぽくても、その命を奪うことは、ホントの最終手段だと感じているわ。迎合しているわけじゃなくて、中に入ったから、見えてきたものもあるのよ」

「能力者、には、ですか。……能力者じゃないと分かれば?」

「……まあ、手の内にあれば無関心で放置、逆らえば、手段を問わない可能性もあるわね。笹木君も、『ロスト』なのかな?」

「『ロスト』?」

「『失われた能力者ロストナンバーズ』、組織付属の育成機関で集めた能力者候補のうち、能力発現しなかった子供達をそう呼んでいるのよ。昔は、能力がありそうな子供を攫ってきて、名前の代わりに番号をつけていたらしくて。ここ数年で上層部が変わって、今は禁じているらしいんだけど」

「ちょっと違いますね。俺は、番号すら付けられずにいたらしいですから。だから虐待されていたらしいんですけど、そんなこと覚えていないんですよね。どうやら、真矢が守ってくれて救われたらしくて。でも、忘れていた俺は、真矢との懐かしい思い出しかない俺は、ある意味幸せなんだろうな。『ロスト』なんて呼ばれた子供達は……どうなったんですか?」

「責任をもって、成人に近い子はそのまま組織や系列企業に就職したり、幼い子は養育先に引き取られたらしいけど。まあ、すべて『手の内』、でしょうけどね」

「なるほど。だから、か」


 自分もある意味、『ロスト』と同じ経歴を歩んできたらしい。ただ、末端で秘密裏に行われた養子縁組だったので、今まで組織に関わらず生きてこれたのだろう。


「和矢は、このことは?」

「おそらく知らないと思うわ。私が和矢達を引き取ることも、全面的に組織側の意向だと思っているでしょうね。私が和矢達を引き取る際の交換条件は、『何も知らない唯一の血縁として和矢達を受け入れること』だったから。ただ、敏い和矢のことですもの。いずれはこのことを知る日が来るかもしれない。でも、私はそんな日が来てほしくないのよ。兄の死の真相が知りたかったのは、本当。でも、今は……もう、分からなくてもいい。その代わり、一日でも長く、和矢と美矢と暮らしたい。平凡で、ありきたりの日々を、過ごしたい。だから」

 不意に、弓子の目の色が暗くなる。それは、今までに見たこともないような、剣呑な光を宿した、くらい瞳だった。


「もし、あなたが和矢を信じられずに、その復讐者に協力するというのなら、私はあなたを許さないわよ?」

「大丈夫ですよ。それは、俺も同じなんだ。和矢と美矢は、俺にとっても、大切な弟妹で、家族同然の存在なんですから」


 もし、彼らを害するとすれば、それは。

 シヴァを害する存在となった時、だけ。



 心の奥底の悲痛な選択を迫られる時が来ないことを、健太はただひたすら祈り、弓子の問いにうなづいた。

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