第十一章 見えない虹
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期末テストを終えた、その翌日。
俊が美術室に来ると、そこは無人だった。
テスト明けで、今日は四時間目で終了になっており、いつもよりかなり早い時間であるとはいえ、誰もいないのは珍しかった。
同じクラスの加奈は委員会があり、和矢は日直のため遅れてくることは分かっていたが、他の部員もまだ来ていない。手近な椅子に腰かけて、リュックサックを机に置く。シン、とした室内に寂しさを感じた。もちろん部活の時でも作業中は静かになる。けれど、人の気配がないだけで、ここまで雰囲気が変わるのか……そんな風に感じるようになった自分の変化に、俊自身が戸惑う。
以前は、人がいようがいまいが、そこに何ら感じることはなかったのに。いつの間にか、常に誰かがそばにいることが、当たり前になっていたらしい。
手持ち無沙汰になり、俊はリュックサックの小ポケットを探る。取り出したのは、一台のスマートフォン……昨日、契約したばかりの新品だった。
購入費用や初期費用、月々の代金は俊が自分で払うつもりだったが、契約時に保護者の同意等の確認が必要だったため、母親に同行を求めたところ、月々の代金は高校卒業時まで親が負担してくれることになった。もちろん成績の維持や使用過多にならないことは約束した。
購入後充電だけは目いっぱいしたけれども、まだ操作もよく分からない。授業中は電源を落としてリュックサックごとロッカーに入れっぱなしだった。電源を入れると、しばらく起動画面になり、やがてよく使い道が分からないアイコンが並んだ画面に変わった。
まだ、誰にも電話もメールもしていない(電話会社のメールは昨日来ていたが)。電話帳の登録もまっさらなままである。スマホを机に置いて、俊はパスケースから健太の連絡先を書いたメモを取り出す。マニュアルを読んでも登録の仕方がよく分からないため、正彦が来たら聞いてみようと思いながら、今日はまだ行き会えずにいた。
「あれ? 高天君ひとり? あ、スマホ! 買ったんだ?」
早足で美術室に飛び込んできた真実が、目ざとくスマホに注目する。
「あ、うん。でも使い方が分からなくて」
「そうなの? あ、これ吉村君と同じ系統の機種だね。揃えたの?」
「どんなのかいいか、よく分からなくて。正彦が選んでくれたから……」
「そっか。もう、みんなと連絡先交換した?」
「いや、まだ。今電源入れてみたんだけど……登録とか、難しくて」
「使えばすぐ覚えるよ。連絡先アプリ開ける?」
「えっと、……ゴメン、よく分からない」
「見せてもらっていい? ……やだ、ホントに誰のも登録してないんだね。これは、最初の登録は、私じゃまずいな……」
「?」
モゴモゴつぶやきながら思案顔の真実の次のアドバイスを、俊はじっと黙って待つ。
そうこうするうちに、廊下から楽し気な声が響いてきた……珠美の声である。
「お疲れさまでーす! あれ、まだ二人ですか?」
「あ、おつ! ちょうどよかった! 美矢ちゃん!」
珠美の後ろから「お疲れ様です」と入ってきた美矢を、真実は片手で「おいでおいで」して呼び寄せる。
「スマホの連絡先開いて、QRコード出して……え? 知らない? ここをね……」
美矢と俊に交互にアドバイスしながら、無事、連絡先交換を完了させる。
引き続き、珠美や真実の連絡先交換もしていると、入り口で一緒になったらしい和矢と唐沢兄弟が美術室に入ってくる。真実が仕切って、わいわい連絡先交換会を繰り広げているうちに、委員会を終えた加奈や部員ではない正彦も合流する。
一気に賑やかになった美術室の風景に、俊は安堵感を覚えていた。当たり前のようにみんながいるこの空間が、いつの間にか自分にとって心安らぐ場所になっていることに、改めて気付いた。
「じゃ、俺も部活行くな。夜にメールするから」
穏やかな表情の俊に笑顔でそう告げると、正彦は足早に美術室を出ていく。その背中を見送りながら、俊は再びスマホに目を落とす。連絡先をタップすると、さっきまで空白だった画面に、皆の名前が並んでいる。中央あたりにある、同じ苗字の二つの名前……その下段の「遠野美矢」の文字を見つめ、その名前の本人の方を見ると、目が合った。
「どうしました?」
「いや、あ、……そうだ、手書きでもらってある連絡先は、どうやって登録するのかな?」
慌てて、先ほど一度しまった健太のメモを、再び取り出した。
「見てもいいですか? ……えっと、まず名前を入れましょうか。ここに触って」
美矢がおずおずとのぞき込み、指で画面を指さししながら、説明してくれる。
メモには電話番号とメールアドレスしか書いていないが、俊は記憶を確認しながら、名前の入力を始める。
「『さ』……あれ? 『し』になる……」
「二回押すと、変わっちゃうんですよ」
「『ささ』って入れたいんだけど」
「そうしたら、カーソル動かすか、少し間を空ければいいですよ」
「あ、本当だ。じゃあ、『き』は『か』を二回続けて押せばいいんだ?」
「そうですね。あと、フリックで、こう、触ったまま指を動かすと……他の文字が選べます。で、下に変換候補が出るので……」
「ああ、なるほど……うん、『笹木健太』、と」
「え? 健太?」
俊のつぶやきに、真実が反応する。
「え? 高天君、健太と知り合いなの? あ、でも同姓同名?」
真実がメモをのぞき込んできたので、俊は真実に見やすいように用紙を回転させる。
真実はメモをじっくり見た後、自分のスマホを取り出し、見比べる。
「あれ、一緒だ。えー、世間狭すぎ! あ、もしかして弓子さんつながり?」
「え? 弓子さんの? ああ、そうか、笹木さん!」
美矢もその名前に思い当たったようにうなづく。
「いや、それは知らないけど……ああ、健太の言ってた、知り合いの石高生って、森本さん?」
「知り合い……うんまあ」
「彼氏ですよね?! 真実先輩の!」
コイバナとなればチャンスを逃さない珠美が早速食いついてくる。
「まあ……そう、とも言う、かな?」
「そうなんだ……本当に、世間は狭いね」
健太と真実が交際しているという事実に、俊はほんの少しだけ、モヤっとする。それは、自分より近しい位置にいる真実への嫉妬なのか、それを教えてくれなかった健太への不満なのか(そもそも真実と俊が知り合いであることを知らない健太に、これはやや不当な言いがかりだとは思うが)。
でも、まあ。
照れくさそうな真実の笑顔を見ていると、きっと健太は真実を大切にしているのだろうな、と感じる。出会った当初はともかく、今は心の許せる仲間となった真実ならば、健太にはお似合いだと素直に祝福できる。
やや上から目線の自分の思考に、心の中で苦笑しつつ、俊は登録完了のアイコンをタップした。
(後日談になるが、俊が連絡先の登録をしただけでは健太には連絡がいかないことに俊は気付かず、結果、真実経由で健太からブーイングの着信が入ることになり、健太と真実が交際してよかったと、俊は心から感謝することになる)
「笹木さんが初めて仕事に来た時、兄さんは結構話していたよね」
皆が和気あいあいと談話に興じているなか、いつになく無口な和矢に、美矢はそっと話題を振ってみる。
「笹木さん、って、今二十歳くらい?」
「いや、もう少し上だと思うけど……」
「そうなんだ。先輩たち、みんな結構年上の人とお付き合いしているんだね」
健太のことを、弓子の仕事仲間としてしか認知していない美矢は、加奈や真実の恋人が年長であることに憧れ混じりの視線を向けて、軽く頬を染めている。自分自身はそう年の変わらない俊に恋していても、人の恋の形にはまた別のときめきがあるのだろう。
「そうだね。僕も意外だったよ」
……健太が、俊や真実といつの間につながっていたのか。
笑顔で取り繕いながらも、和矢は内心焦りを覚えていた。
弓子や美矢の前では「叔母の仕事相手」という態度を崩さず健太に接しているが、定期的に連絡は取っていた。メールが苦手な健太と詳細なやり取りをするには直接顔を合わせるか、電話をかけるしかなく、二人の目を掠めてやりとりする機会は限られていたが、それでも必要な情報は得ていたつもりだった。
俊や真実とのつながりが
いや、兆しはあった。以前、健太が『シバ』について訊いてきたことがあった。
けれど、それが、俊や真実との関係に結びつけてはいなかった。あるいは、健太自身が『シバ』から何かしらの被害に遭っているのでは、と不安に思っていたくらいで。
「美矢、この後は女子で出かけるんだっけ?」
「あ、うん。駅前のカフェにみんなで行くけど」
授業が早く終わるので、部活も早めに切り上げてテスト終わりの打ち上げ代わりに、お茶しに行こう、と前々から女性陣が計画していたと聞いた。
「あ、女子会だから、兄さんはダメよ? フレンチトーストとロイヤルミルクティーが美味しいんですって」
いつもは和矢にからかわれてばかりなのをリベンジするように、少しだけ意地悪く言う。和矢が甘いものと乳製品が好物なのを知っているので、ここぞとばかりに自慢してくる。
「そのラインナップはかなり心惹かれるけどね。まあ、今日はおとなしく先に帰っているよ。ゆっくりしておいで」
ついでに、真実と健太の馴れ初めでも情報収集してきてくれると助かる。そんな本心を隠して、和矢は快く送り出した。
残された男性陣も、じゃあ代わりに男子会を、というようなことになる面子ではないので、そのまま解散となった。
……今日は、弓子は取材に出かけている。もちろん健太も一緒のはずだ。今日はどこかの老舗食堂のランチの取材だと言っていたから、もう帰宅しているかもしれない。取材後に撮影した写真の確認をするからと健太が家に寄ることも多い。
健太には和矢との過去について話さないように依頼し了承を得ていた。今までは、その約束を無条件に守ってもらえると信じていた。けれど。
いつの間にか和矢の周囲の人々に根を張り巡らしていた健太への行動に、それが過信だったのでは、という疑惑が芽生えている。
それに。
単なる偶然の出会いだとしても。できれば俊からは遠ざけておきたかったのに。
……全く意図しないで気が付けば勝手に巻き込まれている、という線も、捨てきれないからな、ムルは。
ある意味、その可能性の方が高い気がする。あの健太が策を弄して水面下で動いている、と考えるより、よほど納得できる。とはいえ。
その、無策で無意識でいつの間にか核心に迫ってきてしまう、ある意味悪運の強さが、逆に怖い。放っておけば、いずれ知らなくてもいい事実に行きついてしまうだろう。
その時の、健太の反応が、正直怖い。
切迫した思いに背中を押されながら、和矢は家路へ急ぐ。
学校からほど近い、すでに歩きなれた道を、この日ほど遠く感じたことはなかった。
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