別れの理由

 一日目


 私は学校の帰りに春人が入院している病室へ寄った。

 七階に突き当たりにある七八八病室までの道は長く感じた。足取りが重く、上手く真っ直ぐ歩けないような力の抜けた感覚がした。私は病室の重たいドアに手を掛けた。

(ドアを開けた時、私はどんな顔をして春人くんに会えばいいのかな? 私のせいで春人くんは記憶を失っているんだよね。ちゃんと春人くんの顔を見れるかな)

 私は自分の頰を両手で一度叩き、春人に心配されないように気合いを入れた。

「春人くん……。……体はどう? もう痛くない?」

 春人は私を瞳を見つめていた。

 私は春人の瞳を見ることが出来ず、すぐに視線を窓の外へと向けた。私が見た先には、春人が私のお見舞いに来てくれた時と同じように、夕日が辺り一面を真っ赤に染め上げていた。

「昨日よりは痛くなくなりました。心配していただきありがとうございます。心乃さんのことは看護師さんから聞いています……」

 春人はそう言いながら俯いた。看護師から私のことを聞いて、申し訳なさそうに俯く春人に私はなんて声を掛けたらいいか分からなかった。

 ただ、看護師が春人に私のことを話したのは、私のことを心配してくれている夢乃だとすぐに分かった。

「春人くん、看護師さんからどんなことを聞いたの?」

 ベッドに腰を掛けていた春人が、私に少し歩きませんかと声を掛けてきた。小さく頷いた私は春人の後を追いかけるように小走りで病室を後にした。

「ねぇ、どこに行くの?」

「病室でもいいけど、外の空気が吸いたかったんです。心乃さんもあんな狭くて息苦しい部屋よりも広い場所の方がいいですよね」

「うん。……ねぇ、春人くん。やっぱり心乃さんじゃないといけないの? 今まで通り呼んで欲しいなぁ……。それにもっと柔らかく話そうよ、だって……」

 私はそこで言葉を止めた。それ以上は夢乃が話しているか分からない。夢乃が春人に話していないことを今喋れば、春人は私のことを知りたいと思うかも知れない。春人が私との関係を知るのもそう時間はかからないかも知れない。

 私は春人の瞳を見つめた。

 春人も私の瞳を見つめていた。

 ようやく、私は春人の顔を見ることが出来た。今までは春人への後悔の念で見ることが出来なかったが、今度は恥ずかしくなって瞳から目を逸らしたくなった。

 ただ、春人の瞳はあの出逢った日を私に思い出させた。

「心乃ちゃんですか……。確かに僕はそう呼んでいたみたいですけど……。今の僕が心乃さんのことをそう呼んでいいかどうか……」

「いいんだよ、今まで通り心乃ちゃんって呼んで欲しい。堅苦しく話すの私苦手なんだ」

「そっか……。心乃ちゃん、僕たちは付き合ってたんだよね?」

 春人は私を見つめる視線を屋上から見える夕日に移していた。病院の屋上からは海が一望する事が出来た。街中から少し離れた病院の近くには海岸があった。

「うん、そうだよ。でもね……私が春人くんに別れを切り出したの。それにね、別れを切り出した理由を、春人くんに私は言わなかったんだ」

「……心乃ちゃんに別れを切り出された時の僕は何を考えていたんでしょうね? きっと、心乃ちゃんのことを心から好きだったから、僕は別れを受け入れたんでしょうけどね。でも、別れたい理由って何だったの?」

 春人が答えを求める事は初めから分かっていた。ただ、私は春人にそのことを伝える勇気が無かった。

「わぁ、綺麗。春人くん、綺麗だね」

 私は話の話題を変えることしか出来なかった。

 水平線を赤く染める夕日は、辺りを明るく照らしながら水の中へと消えていった。

「うん、綺麗だね。心乃ちゃん、僕は何で心乃ちゃんが別れを切り出したのか分からないけど、僕は心乃ちゃんのこと好きだよ。これは今の僕の気持ちだけど……以前の僕はどうだったんだろう? 心乃ちゃんから別れを切り出された時、僕は心乃ちゃんのことを嫌いになったのかな?」

 春人が話す言葉一つ一つが私には重すぎた。夢乃が春人に話したのは、おそらく私との血縁関係以外の全ての事だろう。それを知ってもなお、春人は私を好きでいる。自分だけが別れを告げた理由を知っている分、春人の好きだよという一言は頭の中で響き続けた。

「……」

 私は言葉を発する事が出来なかった。

(春人くんが今見ている私はどんな人に見えるのかな?)

「心乃ちゃん……。ごめん、変なこと言ったよね。でもね、やっぱり僕はどんな理由があって心乃ちゃんと別れたのかは分からないけど、僕は……ううん、以前の僕も心乃ちゃんのことを嫌いになんかなってないと思う。だって、心乃ちゃんの隣にいれてこんなにも嬉しいんだもん」

 春人は一生懸命、私を悲しみから救い上げようといろんな話をしていたが、最後まで私が話に加わる事は無かった。

「ごめん、春人くん……。今日はもう帰るね。また明日も来るから、早く記憶が戻るように頑張ろうね」

「うん、頑張るよ。もし……もしも記憶が戻ったら、別れた理由教えてくれる?」

「うん、いいよ。春人くんの記憶が戻ったら教えてあげるね」

 私は急ぎ足で屋上から姿を消した。これ以上は春人を見続ける事が出来なかった。

 階段を下りて、入り口を通り抜けて、駅まで走る間、病院を、病院の屋上を私が見る事は無かった。

(春人くんはホント優しすぎるんだよ。これじゃあ、私が春人くんに別れを告げた理由を言わなかったのが悪いみたいじゃない。だって、春人くんならそんなこと関係ないよって笑ってくれる。それに、僕たちならどんなことでも乗り越えられるよって言ってくれたはず……。もう、ホント自分の事が嫌になるよ……)


 春人は私が走る姿を屋上から眺めていた。

「……心乃ちゃん、ごめんね。僕ホントは……」

「春人くん、いつまでこんな所にいるのかな? さすがに私もこれ以上怪我人を自由にできないよ」

「夢乃さん……」

「いいんだよ。さっ、病室に戻ろっか」

「はい。でも……」

「でも、じゃない。春人くん、あなたは確かに記憶を一瞬だけど無くしていたの。それに今、心乃にそのことを言ったとしてもだよ。春人くんは心乃が別れを告げた理由分かってないんだよね。心乃が何て言ったか覚えてる?」

「全てを知ってからまた逢いにきて、でした」

「そうでしょ、春人くんは違う意味でまだ何も思い出せていないんだから……」

 夢乃は含みのある言葉で春人を困らせた。春人は暗さを増してきた景色の中で夢乃を見ていた。たった一つ屋上への入り口に備え付けられた白熱電球からは、ほんの少しだけ光が溢れていた。その光は夢乃に影を作っていた。

 春人に光が当たらないのは、まだ春人が何も思い出せていなかったからなのかもしれない。

 夢乃は春人に手招きをしながら

「もう外の空気も吸えたんだし戻るよ」

「そうですね……。すみません、なんか心配してもらって」

「気にしなくていいんだよ。それに春人くんを心配してるのもあるけど、心乃のことを心配して言ってるんだ。春人くんには怪我を治してもらって、心乃の元に行ってもらわないといけないからね」

「……」

 春人は何も言えないまま夢乃の後を追って病室へと戻った。

「安静にしとくのよ。それじゃあね」

 夢乃は春人の瞳を見つめて言った。

 春人は夢乃に見つめられた時、心乃の顔が頭に浮かんだ。

「はい……」

 夢乃が病室を去った後、時計の針が刻む音だけが響いていた。

 一人になった病室で、視界に入ったのは冷たいコンクリートだった。どこまでも続きそうな白いそれは眠気を誘った。

 春人は一人寂しく眠りについた。

  ーー日目……


 四日目


 病院に出勤するため私は車を走らせていた。エンジン音を掻き消すほどの音が車内に流れていた。ラジオからは最近発売されたばかりの楽曲が放送されていた。

 しばらく車を走らせていると、音楽がニュース速報へと変わった。

「えぇー、番組の途中ですが臨時ニュースをお伝えします。たった今気象庁から入った情報によりますと、勢力の強い台風九号が春見市に上陸するようです。そのため、激しい雨や風が予想されます。住民の皆さんは極力外出を控えるなどして身の安全を確保してください。以上でニュース速報を終わります」

 ニュース速報を聞いた私はある考えを思いついた。

(春人くんの記憶が戻ってることを心乃に伝えようとするなら今しかないよね)

 スマートフォンを上着ポケットから取り出し、電話の履歴を指でスライドさせた。目的の番号を見つけた私は、その番号に発信をした。

「どうしたの?」

「あ、心乃、ニュース見た? 台風が明日、春見市に上陸するんだって」

「台風が? それがどうかしたのお姉ちゃん」

「心乃が春人くんと出逢ったのは、激しい雨風の中だったでしょ」

 ようやく私の言いたいことが分かったのか、心乃はあっと声を漏らしていた。

「もしかしてお姉ちゃん……」

「そうだよ。心乃、明日、春人くんと出逢った喫茶店に行きなさい。ちょっと危険な行為だけど、春人くんの記憶が戻るチャンスかも知れない。まぁ、賭けに出てるんだけどね。あ、それとあの喫茶店のマスターは私の友人でね、明日は貸切にしてもらってるから。春人くんに逢ったら、再現は出来ないかも知れないけど、状況は一緒なんだから頑張りなさいよ。念のため私も春人くんと一緒に行くけど、心乃は一人なんだから気をつけてね」

「でも、上手くいくのかなぁ。だけど、やるしかないよね。お姉ちゃん、春人くんをちゃんと連れてきてね」

「任せて、ちゃんと連れていくから。あ、だから今日は帰り遅くなるね」

「分かった。気をつけて帰ってきてね」

「うん、じゃあね」

 電話を終える頃には病院に着いていた。

 夢乃とプレートが差し込まれた人一人入れるロッカーから、ナース服を取り出し手慣れた手つきで着替えを足早く済ませた。

「さっ、仕事、仕事……」


五日目


 ニュースが報じた通り、春見市に大型台風が上陸した。

 あの日のように、大粒の雫が地面に降りつけ、木々が左右に揺さぶられ葉っぱが宙を舞っていた。ただ、今回の台風は備え付けの弱い物なら簡単に飛ばしていくほど勢力が強かった。

 私はいつものように出勤したが、心乃は学校が休校を有線で放送したため休みになった。

 出勤の際に心乃のことが心配になった私は、春人と逢う喫茶店まで連れていった。心乃は私に笑って手を振りながら、喫茶店の中へと入っていった。

 窓を通して見えた心乃は、心の準備をしているのか肩が大きく上下していた。


 病院へと着いた私は、いつものように自分のロッカーからナース服を取り出して着替えを済ませた。

「ふぅー」

 私は深く息を吐いた。

 春人の病室へと向かうため歩いていると、何故か心乃と春人のことなのに自分の足取りが重くなっていることを感じた。

 私は両頬を両手で数回叩き自分に気合をいれさせた。


 コンコンコン……


 私は軽く扉をノックをした。

「はい」

 扉の向こう側から大きな声が聞こえてきた。

「春人くん、入るよ」

「いいですよ」

 私は冷たく重い扉を右側にスライドさせた。重いそれはレールに乗ってスラスラっと流れていった。

「春人くん……」

 春人は私の瞳を見つめていた。

「はい、分かってます。……夢乃さんはどう思ってますか?」

 記憶が失われていたのは、ほんの一瞬のことだった。ただ、春人は記憶が戻っていることを心乃に伝えなかった。心乃と別れた理由がまだ分かっていなかったからだ。

「どう思うって? もしかして、春人くん?」

「いいえ、心乃ちゃんが別れを告げた理由はまだ分かりません。ただ、夢乃さんを見た時に思ったんです。前にも会ったことがあるんじゃないかって……。それに確認しておきたいんです。心乃ちゃんと僕が付き合うことを夢乃さんがどう思うのか……」

「そうね、私は二人が付き合うことに何も言わないよ。ただ、二人が付き合うことを認めてくれない人もいると思うのね。……例えば私の母親とか」

「そっか……。あ、心乃ちゃんが待ってる。夢乃さん連れて行ってもらえますか?」

 私は春人に手を差し出した。その手が春人の手と触れた時、私たちは病室を後にした。

「春人くん、心乃が告げなかったことを知った後も、心乃とずっと付き合ってあげてね。二人が幸せになることが私の幸せでもあるんだからね……」

 春人の瞳は遠くをしっかりと見据えていた。決意が固まったのか、私の手を握る力が少し強くなった。

 看護婦長に見つからないように急いで春人の部屋から一直線上にあるエレベーターに乗り込み、駐車場へと走った。

 入口へと着いた私は、春人をその場に残して車を取りに行った。女の子を際立たせるピンクの車にはクマのぬいぐるみやイヌのぬいぐるみたちが乗っていた。

 車のロックを外し、春人が待つ入口付近に車を付けた。

「乗って春人くん」

「はい」

 私は無事に春人を病室から連れ出すことができた。

 大した距離は走っていないが、春人の息は上がっていた。入院してからの五日間、春人はベッドの上で横になっていた。初日は痛みからか寝返りもまともに出来なかったが、次第に痛みがひいた春人だったが、病室から出ることは殆ど無かった。唯一、心乃と屋上へと上がったのが、春人の一番の遠出だったのかもしれない。

「春人くん、心乃との話が終わったら教えてね。喫茶店の前に車付けるから」

「分かりました。すみません、ありがとうございます」

「いいのよ。それに遠慮してたらダメだぞ」

「はい」

 病院から喫茶店までの距離はあまりなかった。地図上では一センチを半径としたコンパスの円の中に二つの建物は余裕に入っていた。

 喫茶店に着いた春人は私のお礼を言って店の中へと入って行った。最後に私に笑いながら手を上にあげて大きく左右に振っていた。

 私は鏡越しに見える春人の顔を見て安心した。春人は笑顔だった。心乃に心配を掛けさせない為なのか分からなかったが、私には春人と心乃ならどんなことでも乗り越えていけると思った。

 一人の車内に残された私は、近くの駐車スペースに車を停めて携帯をいじっていた。

「はぁ……」

 私は一人寂しく長いため息を吐いた。

「でも大丈夫だよね。春人くんも言ってたし」


「夢乃さんが味方だと心強いです。だけど、僕たちでどんなことでも乗り越えていけるよう頑張ります。……夢乃さん、心乃ちゃんのことは僕が幸せにします。だから、夢乃さんも幸せになってください。心乃ちゃんの幸せが自分の幸せだなんて、そんな寂しいこと言わないでくださいよ。もし、それでも心乃ちゃんの幸せを自分の幸せだと思うのなら、僕は夢乃さんが幸せになることが、僕の幸せです」

「……ありがとう、春人くん。……心乃が待ってるよ」

「そうだった。夢乃さん、いってきます」

「いってらっしゃい、春人くん」

 私は春人に手を振った。

  私は夢乃から聞いた待ち合わせ時間を執拗に気にしていた。右手首に巻かれている腕時計からカチッ、カチッと音を立てる秒針を眺めていると、時間の経過が空しく感じた。

 春人のことを考えれば考えるほど、自分の胸の鼓動が早まっていくのを抑えられなかった。

 春人の記憶を戻すチャンスは、今回が最初で最後かもしれない。そう思えば思うほど私の身体は震えていった。

 窓から普段見えるはずの景色は、相変わらず雨露によって遮られ見えなくなっていた。

 窓をぼんやりと眺めていると肩を叩かれた。

 思わず振り返ると店員さんが、私の目の前に淹れたてのコーヒーをそっと置いた。マグカップからは湯気が立ち登り、手を添えるだけで心は温まった。

「心乃ちゃん、夢乃から話は聞いてるよ。今日は大切な日なんだってね。そんな日こそ緊張してたら普段なら出来るはずのことが出来なくなっちゃうよ。私はそんな経験をしたことが無いから言えないんだけどね。でもね、やっぱり緊張だけはしないほうがいいと思うんだ。だって、緊張は自分の敵だと思うから……」

 店員さんは優しく、そして緊張を和らげるように私に話しかけた。店員さんの言葉で私は少し気が楽になった気がした。

「ありがとうございます。そう言っていただけると気持ちが落ち着きます」

「……良かった。人にアドバイスしたりするのって私苦手なんだ。だからね、心乃ちゃんに私が言えるのは、頑張ってねってしか言えないんだ。心乃ちゃん、頑張ってね」

「はい。頑張ります」

 店員さんがカウンターへと戻った時、机上に置いてある携帯が振動し、着信音が店内に鳴り響いた。急いで私はそれに手を伸ばし、深く一息吐いてから電話に出た。

「……もしもし」

「あ、心乃。今から行くから、心の準備しとくのよ」

「うん。ありがとう、お姉ちゃん。春人くんの記憶が戻ったら……」

「心乃、それは絶対に言わないといけないんだよ。それにその関係は法律には違反してないんだから。だから、それに反対する人は、今までの偏見が抜けきっていないただの人間なんだから。私は心乃の味方だから……」

「そうだよね……」

「じゃあ、電話切るね。春人くんのこと頼んだよ」

「うん」

 電話を再び机の上に置き、私はまた窓の外を眺めた。


 雫が窓を叩く音に聴き入っていた私は、春人が目の前に座っていることに気がつかなかった。微笑みを浮かべ私を見つめていた春人に何と声をかけるか考えていた。

 ただ、言葉よりも先に脳裏を過ぎったのは春人の記憶についてだった。

 普通なら記憶喪失が戻る要因としては、自分に起きた場面をもう一度体験することが一番にあげられるだろう。しかし、私の前にはすでに春人が座っている。それに私たちが座っている席、店内のお客など、あの日を再現するには条件が揃ってなさすぎた。

 ただ、私は春人を見て確信した。

 春人の記憶は戻っている。もしかすれば、記憶が戻っただけでなく、私が別れを告げた理由も分かっているのかも知れない。

 でも、別れを告げた理由に気づいていた場合、私が原因で春人は事故にあった可能性もあった。

 私はかける言葉を見失った。

 春人に会ったら色んなことを話したかった。頭の中には入りきらないほど話題が思い浮かんでいたはずなのに、何一つ言葉にならなかった。

「……」

 テーブルの上に軽く重ねていた手に春人は自分の手を被せた。

「わっ、春人くん? ……びっくりしたぁ。ごめんね、急に何を話したらいいのか分からなくなっちゃって……」

「ううん、そうだよね、何話したらいいか分からなくなるよね。それに謝るのは僕の方だよ。だって本当は僕、記憶戻ってるんだ」

「……」

 私は春人の記憶が戻ったことに嬉しさを感じながらも不安を感じていた。春人が記憶を取り戻し、私が別れを告げた理由に気づいていれば、私に別れを切り出すかも知れない。私の鼓動は更に早まっていた。

 ドクンドクンと音を荒らげる振動が春人にも伝わっているかと思うと、私は春人の手を自分の手から遠ざけていた。

「そうだよね……。あれだけ心配してくれたんだもんね。……ごめん、心乃ちゃん」

 今、自ら遠ざけた手がどこか自分の知らない遠い場所に行ってしまいそうで、思わず私はその手を力強く握った。

「ううん、いいの。だって、記憶が戻ったんだよ。もっと喜ばないと……」

 春人は申し訳なさそうに私を見ていた。

「どうしてそんな顔するの? ……それに、春人くんが事故にあったのは、私のせいかも知れないんだよ」

「でも、心乃ちゃんは僕のことずっと心配してくれていたんだよね。それなのに、記憶が戻ったことを言わなかったーーううん、言えなかったんだ。だって、記憶が戻ったら心乃ちゃんが別れを告げた理由を知ってしまうから」

「春人くん……」

 私は俯いて春人から目を逸らした。いや、春人から目を逸らしたかった。

「心乃ちゃん、僕の瞳を見て。僕は心乃ちゃんのことを何があっても幸せにするし、ずっと側に寄り添うし、何よりどんなことでも一緒に乗り越えていく自信があるんだ。だからさ……」

 春人は私の手を離さないように強く握りしめ、その手を引っ張った。私はその反動でテーブルの上に身体を持っていかれた。

「わっ、びっくりし……」

 そのまま私の身体を席から離し、春人は走り出した。

 コンクリートに大粒の雨が降りつけ、葉っぱが舞う歩道を走ると、顔面に雫が叩きつけられ、濡れてまとまった髪が後ろに引っ張られた。春人に身を任せるように、私は春人との手が離れないようギュッと、その手をより強く握った。

「春人くん……」

 私は分かっていた今何故春人が走っているのか。どこに向かうのかは分からなかったが、春人は確かめたい事があることだけは分かった。春人は記憶を失う前に多分、私が別れを告げた理由に気づいた。だから、春人は事故にあった。そして、記憶が戻った春人なら、その事実を確かめる。

 どんなことでも一緒に乗り越えていく自信があると春人は言った。私は覚悟を決めるしか無かった。好きな人と一緒にいるためにはどんなことでも乗り越えていかなければいけないことを……

 春人なら別れを告げた理由を知っても、別れを告げないと私は分かっていた。法律には違反にならない、私と春人との関係を、ただ思い込みで反対する人がいる。多分、春人はその確認をして、私たちの両親が味方になってくれるかも確かめたいのだと私は思った。

「ごめん、心乃ちゃん……。本当はね、もう分かってるんだ、心乃ちゃんが別れを告げた理由……。だから、確かめずにはいられないんだ」

「春人くん……」

 私たちの服はびしょ濡れになり、走る度身体にあたる風が私を震えさせた。春人が震えているのも繋いだ手から伝わってきた。

 ただ、繋いだ手からお互いの体温が伝わり、身体が火照っていた。

 身を任せて走り続けていると、駅へと辿り着いた。

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