第123話

「お前、あの話本当か?」





 遊覧飛行船、セオドア・フォークス。その外部通路。


 欄干の外に広がる大空を眺めながら二人組の憲兵、その一人が紫煙を吹かしつつ呟く。


「何がだよ?」


 そんな言葉に、隣の憲兵が気だるそうに返す。


 本来、この飛行船の警備を命令されている筈の憲兵二人に、おおよそ緊張感と言えるものは皆無だった。


 その証拠に、言葉を返した憲兵が手にしている“ローズスパイク”と呼ばれる槍は、使わない杖の様に傍の欄干に立て掛けられている。


 預かっている祖父の杖の様な扱いだが、誰もこの気の抜け様、そして緊張感の無さに言及する事は無かった。


「先週、貯めた金でグース・ガーデンに行ったって話だよ」


 片手の紙巻き煙草の灰を、指で叩く様にして憲兵が空に落とす。


 空の底に落ちる灰が、飛行船の下に立ち込める濃霧に溶ける様にして消えていった。


「あぁ、凄かったぜ。噂通りの場所だな、グース・ガーデンてのは」


 槍を脇に備えたまま、口角を上げた憲兵がそんな言葉を返す。


 月給相当の金額を渡さなければ、門すら潜れないと言われる著名な高級娼館の名前を出した憲兵の顔は、その光景や体験を思い出しているのか随分と緩んでいた。


「畜生、折角なら誘えよ。二人がかりならもっと早く金も貯まっただろ」


 片手の指に煙を上げる紙巻き煙草を挟んだまま、紫煙を吹かしていた憲兵が口を尖らせる。


 そんな憲兵に、槍を脇に携えた相手が緩んだままの顔で笑った。


「分かってねぇなぁ、ああいうのは一人で心行くまで自由に楽しむから良いんだよ」


 そんな相手に、憲兵が言い返そうとしたが自分にも似た様な心当たりがあるのか口を尖らせるだけで言い返す事は無く、憲兵が再び煙草を咥える。


 そんな中、飛行船の露天甲板から二人がいる通路にまで微かに聞こえる程の、大演説が始まった。


 憲兵二人が示し合わせた様に顔を上げ、気だるそうな表情を作る。


「いつもより随分早いな、もう演説開始かよ」


 そんな相手の言葉に、気だるそうな表情のまま憲兵が紙巻き煙草を吹かし、更に空へと灰を落とした。


「お前、あの演説まともに聞いた事あるか?すげぇ演説だよな」


 ローズスパイクを脇に携えた憲兵が、鼻で笑う。


「“皆で靴を舐めましょう”クラブだろ?あそこまで腰抜けが染み付くと、いっそ清々しいよ」


 憲兵二人が笑い合う傍を、別の憲兵が退屈そうに通り過ぎていく。


 御世辞にも、真面目に警備しているとは言い難い光景ではあったが例に漏れず、通り過がった憲兵もまるで戒める様子は見せなかった。


 帝国から派遣された憲兵の、誰も分かっている。


 こんな船をわざわざ襲撃する物好きなど、居ない。勿論、近年の状況を加味した上での結論だった。


 確かに近年、何をどうやったのかもう衰弱していた筈の抵抗軍組織“黒羽の団”は息を吹き返し、度々要人を暗殺してはレガリスを恐怖に陥れている。


 上流階級では今頃、心当たりのある連中もない連中もレイヴンが来ない様、テネジアの彫像と聖書でも抱えて震えながら祈っている頃だろう。


 例えそれが飛行船であろうと要人が乗っているなら狙われる可能性は充分ある、本来ならもっと張り詰めた空気の中で警備するべきだろう。


 だが、憲兵達は分かっていた。


 要人が乗っている飛行船は数あれど、レイヴンは絶対に“この飛行船だけは襲わない”。


 この飛行船に乗っている要人というのは、議員が飼い慣らして上手く使っているラグラス人の奴隷だからだ。


 フィッツクラレンス議員が所有している奴隷、ダニール・ヤンコフスキーはラグラス人の奴隷でありながら、かつ数々のラグラス人に服従を促している有名な“贖罪者”でもある。


 現政権の打倒はともかく、奴隷制度の廃止を掲げている“黒羽の団”がラグラス人の奴隷を襲撃する、なんて事は殆ど有り得ないと言って良いからだ。


 打算的ではあるが、事実この飛行船は他の飛行船警備より遥かに楽で安全な仕事と言えた。


 勿論、いざと言う時の為に人数分のローズスパイクに加え、クランクライフルまで備えてはあるが実戦に使う事はまず無いだろう。


 その証拠に、憲兵達が詰めている客室の一つではシフト外の憲兵達が上機嫌な声で騒ぎながら賭けに興じたり、下らない話で笑い合ったりしている。


「あんな演説を喜んで聞きに来ては奴隷の仕事に精を出すってんだから、やっぱり亜人は亜人でしかねぇな」


「ダニールだったか、あいつもキセリア人の都合の良い様に利用されてるのに“我が使命を果たす”って息巻いてんだから、心の底から救えねぇバカだよな」


 調子の良い演説を遠くに聞きながら、憲兵二人が嘲笑を溢す。


 どれだけダニール・ヤンコフスキーが息巻いて演説しようと帝国軍から派遣された憲兵達からすれば、今回の任務は“気取った演説をするバカな亜人”の護衛任務でしかない。


 狙われる訳の無い飛行船の護衛任務など、退屈を抜きにすればこんなにも安全で割りの良い任務は無かった。


「まぁ、結局はあれが亜人の限界だ。どれだけ気取っても所詮は奴隷民族、俺達のケツと靴を舐めるのが“分相応”ってやつなんだろ」


「結局は聖母テネジアを信仰してる奴が勝利するんだよ。事実、亜人の癖にテネジア教徒になったダニールには抵抗軍のレイヴンですら手が出せないんだからな」


 露天甲板から“償いの道”の演説が遠く響いてくる中、憲兵の一人が紙巻き煙草をもう一度深く吸って紫煙を長く吐いた。


「亜人と言いレイヴンと言い、間違った神を信仰した奴等は大変だな。邪神グロングスなんて信じた所で、こうして鼻で笑われてバカにされて、床磨きに雇われるだけじゃねぇか」


 そうぼやく相手に、ローズスパイクを脇に携えた憲兵が嘲った口調で続ける。


「全くだな。巷じゃ色々言われてるが、結局グロングスなんぞに何が出来る?グロングスに祈った所で何になる?」






「こうして、飛行船からバカにしてくる俺達には指一本届かねぇのによ」

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