第116話
「酷い顔ですね」
開口一番、読んでいた本から目線を上げたゼレーニナがそんな言葉を投げ掛けてくる。
魔女の塔まで呼び出され、あの仰々しい昇降機で居住区まで上がり、ボタンを押してシャッターを上げて、漸く対面したかと思えば「酷い顔」ときたものだ。
初めて出会った時の事を考えれば、これでも随分と親切な対応と言わざるを得ないが。
もうすぐ“降雪の月”だというのに、部屋は快適な室温にまで暖まっていた。
それでも寒いのかゼレーニナ自身は、室内にも関わらず以前より分厚いジャケットを着込んでいる。
その上座っているゼレーニナの傍にあるポールハンガーには、丈が長い厚手の外套まで掛かっていた。
寒がりなのだろうか。勿論口に出して聞く程、勇気がある訳では無いが。
加えて部屋が暖かい時点で予想は付いていたが、やはりと言うか何と言うか。
部屋の中心では、恐らくは手製であろう大型の蒸気暖房がディロジウムの容器と連結され、穏やかな熱気を放っていた。
明らかに表面の磨耗に差がある部品達が、ゼレーニナが手製で組み上げた事を物語っている。間違いなく組み上げたのは今日、恐らくは今日の朝にでも組み上げたのだろう。
それほど離れていない場所に工具箱と革手袋が置いてある辺り、用済みになれば再び分解される未来がありありと見える。
「どうも」
返事もそこそこに、暖炉で暖まるが如く手製の蒸気暖房に両手を翳す。大型なのでやたらと火力が強そうに見えるが、熱すぎる事もなく適度に暖かい。
どうやら、ゼレーニナなりに考えて組み上げた暖房らしい。
そして言われるまでもなく、自身の顔色が芳しくない事は分かっていた。
両手を暖房に翳しつつ、揉みほぐす。
「一応聞くが、ウルグスとクジラについて何か関連はあるか?」
幾つか指の関節を鳴らしながら、そんな事を聞くとゼレーニナが片眉を上げた。
「神霊ウルグスとクジラ、ですか?」
「最近、酷い夢を見たんだが………その夢ではクジラの亡骸に出会ったんだ。何か、文献や記録でそういう記述は無いか?」
そんな俺の言葉に、ゼレーニナが記憶を探る様な顔をする。
きっと今、こいつの脳内では俺には想像も付かない程の情報が駆け巡っているのだろう。
少し目線を落としてから、ゼレーニナが再び視線を上げる。
「一つ聞きますが」
「先に言っておくが、間違いなくウルグスが関係してる。上手く言えないが分かるんだよ、何というか…………肌で感じるんだ。あの独特の空気を」
先手を打つ。あれは体調や、精神面の不調に寄るものではなかった。それだけは、間違いない。
暖房に翳していた手を曲げ伸ばす。そろそろ、充分か。
癖だろうか、ゼレーニナが唇に指で触れる。
「……過去の文献には不明瞭ながら、骨と関係する記述は幾つかあったと記憶していますが、クジラと明確に関連する様な記述は覚えがありませんね」
「骨?」
此方も少し記憶を探る。あぁ、確か前に炎天下の中呼び出された際、そんな事も言っていたか。
枯れ木の森の中で、フカクジラから“骨の両手剣”を引き抜いた記憶が蘇る。
これだけ暖かい部屋に居ても、あの夢を思い出すと再び芯まで身体が冷え込む様な気がした。
左手の痣を、見つめる。
「ブロウズ?」
怪訝な声色と表情でゼレーニナが呟くのが、少し遠く聞こえた。
骨、か。
左手を見つめたまま、静かに口を開いた。
「骨に関しては、どんな記述がある?」
視界の隅で、意外そうに眉を上げたゼレーニナが何かを言おうとしたが、またも少し考え込んだ。
力と意識を込めると、左手の痣が蒸気暖房とはまた別の熱を僅かに帯びる。
「………………ウルグス神霊教を狂信している者達は、大型空魚や大型鳥類の骨を加工し、貴方の左手の痣の様な独特の紋様が入った装飾品を作る事があります」
手元の本には一切目を向けぬまま、そう答えるゼレーニナに改めて目を向けた。
「骨の装飾品?」
はい、とゼレーニナが続ける。
「夏頃に貴方に見せた、紋様を描いた彫刻や絵画とは別に、狂信している者達の所持品から加工した骨の装飾品が見つかる事があるそうです。勿論、レガリスでは禁制品として処罰の対象となる代物ですが」
確かに考えてみれば、骨で出来た装飾品を後生大事に持っているなど、邪神グロングスの崇拝を禁じているレガリスでは確実に許されない。
没収、もしくは焼却か粉砕。間違いなく逃れられないだろう。
「……だろうな」
そんな言葉が口から零れる。
これはグロングスとは無関係だ、等と言っても確実に認められないし許される訳も無い。
俺個人としてはそこまで嫌う様な代物ではないが、帝国軍の憲兵はまず間違いなく「これは怪しい」と難癖を付けてくるだろう。
レガリスでは路地で憲兵に呼び止められた際、一晩飲める程の金貨を持ち歩いていなければ非常にまずい事になる。
憲兵に所持品を改められたなら、最早その時点で所持品に禁制品があるかどうかは、“憲兵が決める”のだ。
青タバコが木箱で見つかろうとも、憲兵が「問題ない」と言えば問題ないし禁制品は無いのだ。
まぁ、そんな事があれば間違いなくその憲兵は一袋程の金貨を懐に収めているとは思うが。
逆に、ポケットから空の小瓶と糸屑程度が出てきただけとしても、「問題がある」と憲兵が言うなら禁制品を所持している事になる。
その場で禁制品を憲兵から手渡されるか、空の小瓶に“禁止薬物の匂いがする”とでも言えば、もうそれで嫌疑は充分だ。
何なら、息が臭かったり動きが怪しい事にしても良い。
自分を呼び止めた憲兵が昨晩、賭けに負けたり深酒していて二日酔いが抜けてない、なんて事になっていれば無事では済まないだろう。
このレガリスでは、その程度で顔を殴る理由や連行する理由、何なら処刑する理由にもなるのだから。
“元”帝国兵が言うのだから、間違いない。
「北方国リドゴニアの文献も幾つか調べましたが、どうやら狂信者達は自作の物か否かに関わらずその骨の装飾品に異常に執着する傾向があり、明らかに釣り合わない取引や調達、時には殺人を犯してまでその骨の装飾品を求めるそうです」
淡々とそう述べるゼレーニナ。
この話し方からして、どうやら夏頃にウルグスの事を聞いたあの後も独自にウルグス神霊教やグロングスの事を調べていたらしい。
「…………まぁ、狂信者から“拠り所”を取り上げようとすれば、抵抗されるのは当たり前だな」
そんな言葉を返していると、妙に痣がざわついている様な気がした。
何か引っ掛かる。
聞き慣れた歌が思い出せない様な、もしくは耳に馴染んだ旋律が何処からか微かに聴こえる様な、そんな細い糸を手繰る様な感覚。
気の迷いの様な、見間違いを思い返す様な、奇妙な感覚が何故か左手から伝わってくる。
痣が、何かを探している。そんな気がした。
少し眉を寄せ、右手で痣を解す様にして擦る。
何にせよ、余り良い予感では無いだろう。只の気の迷いならまだしも、近頃の自分は大抵こういう時、厄介な事が起きる。
そんな思いの中、並列してゼレーニナの話を頭の中で組み立てていると一つの疑問が、染みの様に降って湧いた。
「……待て、なら他の装飾品は違うのか?以前の文献には木材や石材を彫刻したり、塗料を絵画みたいに塗った物もあっただろう?他は、そこまで執着していないのか?」
ふと口に出したそんな言葉に、ゼレーニナが意外そうな顔をした後、その顔が微かに満足そうな色を帯びる。
「はい。貴方の言う通り、ウルグス神霊教の狂信者がそれほどまでに執着するのは何故か“骨”を用いた装飾品のみです。木材や石材、鉱石や金属を主に使った彫刻や彫像、または装飾品を作る事はありますが狂信者達は何故か、鳥類や魚類の“骨”を直接加工したものにのみ、先述した異常な執着を見せる傾向にあります」
少し饒舌に語るゼレーニナの言葉に、頭を掻いた。
装飾品云々は置いておくにしろ、ウルグス神霊教には何かしら骨に関する要素がある事は間違いないらしい。
あの不気味な夢で見せられた要素が、一つだけ噛み合った。
「骨か…………」
ウルグスが見せた夢が何を示しているのかは分からないにしろ、少なくとも“骨”に関係あるのは間違いないだろう。
しかし骨に注意、着目するとしてもどうすれば良い?まさか自分の骨が変形する訳でも飛び出す訳でもあるまい。
「ブロウズ」
顔をしかめて頭を巡らせていると、不意にそんな声が掛かる。
改めて目前に意識を向ければ、本を閉じて脇にやったゼレーニナが顔の前で指の腹を合わせつつ、丁寧な口調で呟いた。
「率直に聞きますが……先述した様な彫刻や装飾品に興味がある、または製作したい衝動を感じた事はありますか?また、精神的な変動や変化があれば伺いたいのですが」
真剣に聞いているのは勿論分かるのだが、何というか、こんなにも真正面から聞いてくるとそれはそれで笑ってしまう。
少し考えれば分かる理屈ではある。俺は今、世にも珍しい“神霊の伝承を体現した張本人”なのだ。
それも、数多の狂信者が生涯を狂気に捧げてまで求める程の力を、実際に手に入れてしまっている。
俺自身が他の狂信者の如く狂気に侵されていくかも知れない、と考えるのは当然の話だ。
その張本人に対して、ここまで真正面から聞くかどうかは別にしても。
「今の所、そんな衝動は無いな。期待に添えず残念だが」
そんな俺の言葉に、指の腹を合わせていたゼレーニナが分かりやすく眉を潜める。
「…………前例が無い為、神霊ウルグスがグロングスに対して具体的にどの様な代償を求めるのかは分かりませんが、その代償が正気の喪失や錯乱という精神症である可能性は充分に有り得ます。自覚症状が現れた際には、報告してください」
丁寧な話し方のまま、ゼレーニナが問診の様に説明する。
仮にも張本人に対して「神様のせいでお前の頭がおかしくなったら、直ぐに知らせてくれ」と来たものだ。
まぁ、神霊ウルグスに実際に目を付けられ、対面までした男が目の前に居るのだ。そいつがどう変化していくのか、非常に興味をそそる内容なのだろう。
彼女なりに心配している様に見えなくもないが、流石に俺もそこまで楽観的じゃない。
「左だけじゃ足りずに、右手にも同じ紋様を刻み始めたら教えるさ。それで良いだろ?」
そんな皮肉混じりの俺の言葉に、ゼレーニナが眼を細める。が、俺も真っ直ぐ見つめ返す。
少しして、長く息を吐く音が聞こえた。拍子抜けとも安堵とも取れる、複雑な大人の溜め息だった。
少なくとも今は着目する程の変化は俺には無い、と結論付けたらしい。
一見失礼な質問に思えるが、考えてみればその可能性を考慮するのは当然だ。
今までの固定観念に囚われず広く視野を持った結果、“デイヴィッド・ブロウズがこれから狂気に陥るかも知れない”という有り得る選択肢の一つを提案、警戒しただけに過ぎない。
複雑な立場に居る身としては、幅広く考える事の重要性はよく分かっている。
…………幅広く考えるにしても、俺ならその張本人に真正面から質問したりはしないが。
机に視線を下ろし、思慮に耽っている辺りを見るとまだまだ俺と俺の“痣”については思う所があるのだろう。
仕方無い。機嫌を取る訳ではないが、意識を他に向ける意味も込めてそろそろ本題に移るとするか。
「そう言えば注文していた装備の最終調整と聞いたが、間が悪いなら日を改めるか?」
そんな俺の言葉に、机の上で指を合わせていたゼレーニナが上機嫌そうに顔を上げた。
「いえ、改めて呼ぶのも面倒です。今日の内に済ませましょう」
面倒です、と来たもんだ。対応は置いておくにしても、相変わらず技術や開発が第一で“その他”は後回しらしい。
余りに分かりやすいゼレーニナの行動に、僅かばかり苦笑が漏れる。
「お前、他の連中から分かりやすいって言われた事無いか?」
そんな俺の言葉に、ゼレーニナが不思議そうな顔で一拍置いてから答える。
「ありませんね。ここまで話し込む相手はグリムか、貴方ぐらいしか居ないので。団にはこれと言った友人も居ませんし」
「…………その、何だ。悪かったな」
「何がです?」
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