ブランド牛


「俺はダメだ!」

 怒りのあまり叩きつけた拳で、こたつの上のミカンがはねた。

「ものに当たるなって言ってるでしょ!」

「げふ!」

 何度目かの注意の後だったので、嫁に殴られた。

 ゆっくりと起き上がり、こたつの上の習字道具を見つめる。

「でも、何も浮かばないんだ!」

 苦節三十年。ようやく俺のオリジナルブランド牛を生み出した。

 柔らかい肉質に歯ごたえ。脂肪たっぷりの霜降り牛がもてはやされている時代で、赤身の、霜の少ない柔らかい肉質を目指して研究を重ねた。

 その集大成の、名前が浮かばない。

「なーんでもいいでしょうに。あんたの牛でしょ」

 嫁が、冷たい!

 思えば嫁にもたくさん苦労かけてきた。その結晶の名前を、もう一週間も悩んでいるのだから呆れられていた。

 最初はとても喜んでくれた。慎重に決めていいからと言ってくれていた。

 でも三日を超えたあたりで『さっさとしなさいオーラ』が出てきた。

 そんなせっかちな嫁が、三十年もよく待っていてくれた。

 だからこそ、絶対嫁の名前を入れたかったのだが。

「あたしゃ嫌よ」

 ひどい。俺の渾身の一筆を、そんなあっさり却下しなくてもいいじゃないか。

「あんたが、必死で頑張った結果じゃない。あんたの名前にしな!」

 などというが、俺一人で出来るたわけはないだろう!

 大人になって嫁にいった娘。大学で酪農の勉強をして、俺の後を継いでやると息巻いてる高校生の息子。そして失敗するたびに鞭と蝋燭で尻を叩いてくれた嫁。

 家族の支えがあったからできたことなんだ。

 それなのに俺の名前だけ入れるとか、考えられない。ならば。

「なぁ、やっぱりお前の名前を——」

「今夜はとげ付きの鞭がいいのかい?」

「あ、大丈夫です……」

 どうしよう、嫁が冷たい。


「うーむ」

 翌日もこたつで頭をひねる。

が、いい名前は思いつかない。俺の名前も嫁の名前もダメ。どうしたらいいのか。

「そうか!」

「子供の名前もダメですからね」

 どうしろっていうんだ!

 ひらめいたと思ったのにそんなこと言い捨てていくなよぉ、もお!

「まったく。しょうがないんだから」

 嫁が隣に座り半紙を眺める。

「あんた、好きなものは何だい?」

「おまえ」

「そういうんじゃないわ」

 やめろ、テレビのリモコンで小突くな!

「あんたが大切にしているものさ」

「おまえ」

 わぁった! もう言わないから広辞苑の角はやめろ!

「そういうものに、託しちゃいなさいよ」

「でもなぁ」

「はぁ。決まんないんなら、神戸―とか松坂—とか山形―とか、そいういうブランド牛みたいな名前にしなさいな」

「嫌だよ! 俺とおまえで育てた牛だぞ!」

「ほら、それ」

「あん?」

「なんで地名とかじゃ嫌なの?」

「だぁって、おまえの名前がないじゃないか!」

「あたしの名前なんてどうでもいいんだよ! なんで悩んでるのかってことさね!」

 なんでって、そりゃぁ……おまえに喜んでもらいたくて……。あ。

「じゃあタク」

「タクヤって名前を付けたら離婚するからね?」

「へい……」

 じゃあどうしろってんだよ。もうわけわかんねえよ。

「ねえ、あんた。あたしがなんで牛を育てるしか能のない男と結婚したと思ってるんだい?」

「……なんでだろうなぁ?」

 ミカンは投げるなミカンは! こらヤメロ!

「三十年、馬鹿の一つ覚えで牛をこさえてきたのはどうしてだったっけ?」

「そりゃぁ、おめぇ」

 あぁ、そうか。

「そうかぁ。うん。そうだなぁ」

「ちなみに近所じゃもうその名前で通ってる」

「え!?」

「はっはっはっは。ほんと、バカよねぇ」

 嫁が大口開けて笑ってやがる。

 そうか。口癖だったっけなぁ。筆をとり、半紙に文字を入れる。出来た。

「男のロマン」

 こうして、俺の牛の名前が決まった。

 ちなみに後日確認すると、嫁によって「浪漫牛」と書き直されていたのでひと悶着あった。

 が、なんか言いやすかったのでこっちがいいということになった。

 なんか賞状ももらった気がするが、どっかにいってしまった。

 居間には大きな文字で浪漫と書いた半紙と、牛と一緒に映る夫婦の写真が飾った。

 嫁を「最高に美人だ」と言ったら殴られた思い出と共に。

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