鯉
「あぁ、ニシキ。あなたはどうしてニシキなの」
私は錦鯉のコイ。今、橋を隔てて向こう側の池にいるニシキに恋をしている。
神が建てたこの橋は、池を横断するように作られている。だけど、ひょうたん型の池に橋を通したために、私たちが通っていた隙間を、今は木が塞いでしまっているのだ。
「あぁ、コイ。君はどうしてコイなんだ」
ニシキが口をパクパクさせながら悲しそうに泳いでいる。
まるで出口のない迷路をさ迷い泳ぐかのように。
私たちは神の気まぐれによって出逢い、神の気まぐれによって引き裂かれた、哀れな魚。
「でも大丈夫だよ。僕たちはきっとまた出会える。一緒に泳げる日が、きっとまた、来る!」
「あぁニシキ!」
「おおコイ!」
私たちがいつものように見つめあっていると、私たちの飼い主である意地の悪い神がやってきた。
今日も元気で泳いでいるなとか、楽しそうでいいなとか言っている。
楽しいわけない。元気なわけないじゃない!
愛する人と出会い、結ばれ、引き裂かれた!
その痛みは、神には伝わらない。
憐れむかのように味のわからない固形物を振りまき去っていく。
この池にはエサは少ない。おいしくはない、けれどこれを食べなければ生きていけない。
私たちはまさに池の中の鯉。
自由なんて、無かった。
ある日のこと。今日もニシキと愛を語り合っていた時。
「うわぁ!」
「ニシキ!」
ニシキが突然目の前から消えた。
動揺していると、池にバシャーンと水柱が立った。
泡が収まると、そこには傷ついたニシキの姿があった。
「ニシキ! 大丈夫なのニシキ!」
私は今すぐに泳いでいきたかったのに、この柱が邪魔をして私たちの行く手を塞いでいる。
何もできない自分が、嫌だった。
「だ、大丈夫だよ、コイ。ちょっと陸のやつらにじゃれあってやっただけさ」
「そんな、大丈夫じゃないじゃない! 鱗がボロボロ……血だって出てるわ!」
「何でもないさ! 猫が、猫が通っただけだよ」
「そんな、ニシキ!」
池の上を見ると、次は私の番だと言わんばかりに猫がこちらを見つめていた。
獰猛な牙が、爪が、私を捕食せんと迫ってくる。
「逃げるんだ、コイ!」
「あなたを置いてなんていけないわ!」
「いいから早く!」
私は必死に潜った。池の底に顔を押し付けるように泳ぎ、枝葉の影に隠れた。
猫の爪が、何度も水面を掻いている。執拗な攻撃に身を震わせるしかなかった。
やがて異変に気付いた神が近づいてきたころ、ニシキは虫の息になっていた。
もう少し早くて来て追い払ってくれれば。そんなことを考えずにはいられなかった。
「コイ。僕はもうだめだ」
「そんな、ニシキ!」
ニシキの体から力が抜けていく。
やがて水面に浮かぶと、動かなくなった。
「ニシキ……」
少しずつ濁っていく彼の目を、ただ見つめていることしかできなかった。
あの日以来、私は一人さみしく池を泳いでいる。
時折頭に響いてくるニシキの声を、楽しみにしながら。
だけどその日は違った。
『力が欲しいか?』
その声は低く、くぐもっていた。
私はそんなものはいらない。私はこのままニシキを想って生きていくのだと、体を揺らした。
けれど、声はしつこく響いてきた。
『力が欲しければ、くれてやる!』
いらないので他所へ行って欲しいと願っても、しつこい勧誘を続けてきた。そして。
『今なら特別に三割引きだぞ』
何から、何を三割引きするのかわからなかったけど、ちょっとお得だなと思ってしまった。
『おまけに手足もついてくるサービス!』
今度は本当に意味が分からなかったけど、あまりにしつこいのでついついOKしてしまった。
『ならばくれてやる!』
声が響いたかと思うと、私の体は光に包まれていた。
そして、人間のような手足が、体から生えていた。もしかしたら、これであの猫に復讐を果たすことが出来るかもしれない。
そんなことが頭によぎった。それだけで私の体は池の外を目指して駆けていった!
早い。風が鱗をなぞっていく。これが、走るということか!
私は興奮のあまり息をするのも忘れて、夢中で走っていた。
待っていろ、憎き猫め。今からニシキの仇を取ってやる!
「本日未明、新種の魚が発見されました。体から一メートルほどの手足を生やした鯉です。原因はわかっていませんが、突然変異でエラが進化したものと考えられています。なお、陸上に上がった際、呼吸できず窒息死しており、貴重な標本として解剖されることが決まったそうです。次のニュースです——」
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