夏期講習 後半戦(7)

 放課後の生徒昇降口は、緊迫した様相を呈していた。


 彼氏の類が、愕然とした表情で梨緒子を見下ろしている。呼吸が震え、乱れているのがはっきりと伝わってくる。怒りを通り越して呆れ果て、どういう反応をすればいいのか分からないようだ。


「……ルイくん、私」


「リオ……嘘だろ…………リオ」


 取り返しのつかないところまで来てしまったのだ――大きな犠牲を払ってしまったことに、梨緒子の心は激しく痛む。

 そのときである。


「梨緒ちゃん、早く追っかけて!」


 親友の叫び声に、梨緒子は我に返った。


「美月ちゃん……でも」


 こんな状態では、とても秀平を追いかけることはできない。

 ぐずぐず迷っていると、美月に無理矢理腕を掴まれ、背中を押された。


「でも、じゃない! 早く! 永瀬くんの気持ちを無駄にしないで! 梨緒ちゃん!」


 手遅れになる前に。

 ためらっている時間はない。


「あとで、あとでちゃんと説明するから、ルイくん! 約束する!」


 梨緒子は自分の意思で一歩また一歩、類から遠ざかるようにして離れていく。

 しかし。

 類から言葉が返ってくることはなかった。




 秀平は、学校の正門へと続く並木の、ちょうど中ほどを歩いていた。

 梨緒子は懸命に彼の背を追いかけ、息を切らしながら、肩から提げている秀平のカバンを軽く引っ張った。


「待って、秀平くん!」


 秀平は振り返り、その場に立ち止まった。そして、すっかり息の上がっている梨緒子を、黙って眺める。

 涼しい秋の風が、二人の間を穏やかに吹き抜けていく。

 秀平は梨緒子の足元に一瞥をくれた。


「内履きのままだよ」


 そう指摘されて、梨緒子は気が動転していたあまり、土足のまま飛び出してきたことに気がついた。


「あっ……ホントだ。いますぐ履き替えてくるから、ここで待ってて!」


「いいよ別に。波多野たちと帰れば?」


「秀平くん……そんな」


 なんという無慈悲な言葉を、彼は投げかけるのだろうか――。

 絶句する梨緒子に、秀平はくるりと背を向けた。


「全部本当の事だから。勉強以外の目的で大学を目指すのは困るのも、確かだし。もっとちゃんとして――だって。言ってる意味が分からないよ。それは俺が逆に、みんなに言いたいことだ」


 類に言われた言葉と、美月に言われた言葉に、秀平の心は少なからずの衝撃を受けているようだ。その証拠に、寡黙なはずの秀平がいつになく落ち着きなく喋りまくっている。

 そんな秀平の背中に向かって、梨緒子は心の底から謝った。


「嫌な思いさせちゃって、ゴメンなさい。本当に……ゴメンなさい」


 長い沈黙が二人の間にあった。

 背を向けていた秀平が、ようやく梨緒子を振り返った。

 しっかりと目と目を合わせ、秀平はゆっくりと口を開いた。


「安藤を怒らせたみたいだな。……悪かった。江波を困らせるつもりはなかったんだけど」


 先ほどの昇降口での一件を言っているらしい。

 彼氏の安藤類を怒らせて、困ることになるのは他でもない、彼女である梨緒子なのだと――そんな秀平の気遣いが、聞いてとれる。


 困る。確かにそうかもしれない。

 しかし、それ以上のモノの存在に、秀平は気づいていないようだ。


「なんか、嬉しかった」


「嬉しい? 何が?」


 秀平はかすかに眉を寄せ、綺麗な瞳を数度瞬かせた。

 梨緒子の言葉の意味が、彼には良く分からないようだ。


「自分の彼女のこと信じてやれって、そう言ってくれたこと」


「別に当たり前のこと言っただけだろ。お互いのこと信じられないなら、付き合う意味なんてない」


 どうしてこんなにも真っ直ぐなのだろう。梨緒子は透き通った秀平の眼差しを、いとおしく受け止める。

 ふと。

 梨緒子は、彼の兄である家庭教師の優作の言葉を思い出した。


【――秀平は純粋なうえに頑固なほど真っ直ぐだから、浮気の心配とかはしなくてもいいと思うよ、きっと】


 そういうことなんだ――梨緒子は妙に納得し、思わず顔が綻んだ。


「なんで笑うの? 俺、おかしなこと言った?」


 笑われていると勘違いをしたらしい。秀平は訝しげに首を傾げてみせる。

 梨緒子は首を横に振った。そして、付け加えるようにして説明をする。


「秀平くんの彼女だったら、きっとすごく幸せなんだろうなー、と思って」


 瞬間。

 秀平が人形のように固まった。

 まるで、彼の周りだけ時間が止まってしまったかのように。

 切れ長の二重まぶたはさらに大きく見開かれ、じっと梨緒子を見下ろしている。


「そ、そんな固まらなくても! あくまで一般的な感想だから!」


 梨緒子は逆に焦ってしまった。

 秀平には自分の気持ちはとうに伝わっているはずで、このような反応が返ってくるとはまったくの予想外だった。


 もどかしい。

 追いつけない。

 手が届きそうで届かない。


 でも――この人が好き。


「私、秀平くんのこと追いかけるの、止めない! 秀平くんが困ろうが、そんなの関係ないから」


「……もう、追いかけなくていいよ」


 秀平は疲れたような諦めたような、そんな苦い顔でため息をついた。


「俺、帰る」


 駄目だ。ああ――。

 もう、終わりなのだと、梨緒子は悟った。

 いざこざを極度に嫌う彼を、修羅場に巻き込んでしまった。

 そう。

 すべては、自分の優柔不断が引き起こしたこと。


 ――もう、追いかけなくていい。もう……。




 彼が遠ざかっていく。

 ずっと背中を見送っていると、やがて秀平がはるか遠く、学校の正門付近で立ち止まった。

 引き返してくるわけでもない。ただ、こちらに背を向けたまま立っているだけだ。

 そのときである。

 梨緒子の携帯に着信があった。

 スカートのポケットから携帯を取り出し確認すると、ディスプレイには『永瀬秀平』という四文字が表示されている。

 梨緒子は急いでメッセージ確認の画面を開いた。


 送られてきた秀平のメッセージは、短い文章だった。



【追いかけるんじゃなくて】


【俺の側にいて。一緒に行こう、北海道へ。】



 一文字一文字、何度も目で追いかける。

 嘘。嘘。

 足先から頭のてっぺんまで痺れが走り、全身の感覚が麻痺し、身動き一つ取れない。

 梨緒子の両目から、次から次へと涙があふれて、止まらない。


 すぐに返事を送ろうにも、言葉が出てこない。

 追いかけようにも足がすくんでしまい、その場から動けない。

 秀平は最後まで振り返ることなく、そのまま正門の外へと出て行ってしまった。


 携帯のディスプレイに表示された文字の羅列。無機質な言葉が、こんなにも人の心を打ち震わせる。

 もう、涙でぐしゃぐしゃだ。

 携帯を握り締めたまま、梨緒子は声を押し殺しながら泣いていた。

 この言葉をこんなにも欲していた自分に、梨緒子はようやく気がついた。

 あやふやな愛情表現なんかではない、確かな証。


 ――追いかけなくてもいいって、そういう意味? ……もう。


 この分かりにくさが、秀平なのである。

 孤高である彼の精一杯を、梨緒子はひしと噛み締める。


 俺の側にいて。

 一緒に行こう――北海道へ。


 こんな日が本当に来るとは、梨緒子は思ってもみなかった。

 いつも秀平を遠くから見て、勝手に憧れて、同じ大学を目指すと無謀なことばかり言って。

 梨緒子はしゃくりあげながら、震える指で返信の文字を打ち込んだ。

 いまの梨緒子の精一杯、それはたったの七文字。



【はい】


【頑張ります】





 梨緒子が内履きのまま、先ほど飛び出した昇降口へと再び戻ってきた。

 下駄箱の裏から、類と美月の声が聞こえてくる。

 どうやら向こうは、梨緒子が戻ってきたことに気づいていないようだ。


「どういうつもりだよ、美月」


「まだ分からないの? 梨緒ちゃんがどうしてルイと付き合い続けてるのか」


「なんだよ、それ……」


 梨緒子は足音を発てないようにして、下駄箱の陰に身をひそめた。

 類と美月の会話は続いている。


「浮気でも心変わりでもない。梨緒ちゃんの心はずっと永瀬くんにあったんだから」


「リオが俺じゃなく永瀬を好きなのは、最初から分かりきってた事だ。でもさ、いくらリオが好きでも、永瀬は――」


「梨緒ちゃんは永瀬くんのことしか見てないよ。それに、永瀬くんも――」


 親友はすべてを見通している。


「俺、リオのこと全然分かんねー。分かってやれねー。永瀬のヤツはもっと分かんねー。分かりたくもねー……」


「もう、充分でしょ? これ以上、梨緒ちゃんを苦しめないで。自由にしてあげて」


 沈黙が辺りを包んだ。美月の言葉に対しての、類の返事はない。

 梨緒子にだって分かっている。類がどんなに自分のことを大切に思ってくれているか。その想いの強さは、自分が一番よく知っている。


 無理矢理付き合っていたわけではない。

 自分で付き合うと決めて、ここひと月あまり、ともに時間を過ごしてきたのである。

 もちろん友情の延長上にすぎなかったが、それなりに楽しいこともあった。傷ついた梨緒子を明るく振る舞って慰めてくれたのは、すぐそこにいる類少年なのである。


 美月は淡々と類を説く。あえてそっけなく突き放すようにし、下手に同情の言葉をかけないところが美月らしい。


「自分のために言ってるんじゃないから。梨緒ちゃんのために言ってるんだから」


「……根に持ってんな、お前」


 類は深々とため息をついた。そして、半ば投げやりに、力の抜けたな弱々しい声を発する。


「分かったよ。美月の言う通りにすればいいんだろ? けど、あとで泣くのはリオだぞ?」


 下駄箱の陰で、梨緒子は身が引き絞られるような痛みを覚えた。

 息苦しさのあまり、喉の奥から声が出てしまいそうになったが、それを必死にこらえた。


「いままでもそうして永瀬に泣かされてきたんだ。そんなリオ、俺は何度も見てる」


「ルイ……」


「永瀬のヤツに振り回されて泣くリオなんて、もう見たくねえんだよ……」


 最後のほうは震えていて、よく聞き取れない。

 この場所から類の表情はうかがい知ることはできないが――おそらく。

 梨緒子の予想を裏付けるかのように、美月がなだめるように類に問いかけた。


「ほら、ハンカチ貸してあげる。ルイ……あんた、そんなに梨緒ちゃんのこと好きだったんだ?」


「なんだよ、文句あるか!」


 梨緒子はじっと身をひそめながら、涙にくれる元彼の少年と、傷心の彼に恋する親友の会話を、いたたまれぬ思いで立ち聞いていた。


 同時に、どんなことがあっても、孤高の彼・永瀬秀平と一緒に幸せになる――幸せにならなくてはいけないのだと、梨緒子は思った。

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