夏期講習 後半戦(2)
「変? 私が?」
生温い風が周囲の木々の葉を揺らし、耳障りな音を発てている。
すぐ側にある大きな楓の木に、梨緒子は背中を押し付けられた。両二の腕をしっかりと掴まれてしまい、身動きがほとんど取れない。
「ちょっとルイくん、放して……」
「いやだ」
「誰かに見られたらどうするの」
「誰かって?」
わずかな視線の動きを、類は察知したようだ。探るようにして尋ねてくる。
類の表情は真剣だった。
「永瀬?」
梨緒子は一気に血の気が引いた。
「いや……ヤだ、止めてってば!」
「見えないよ」
「お願いだから……ルイくん!」
「俺たちは付き合ってるんだよな?」
強い問いに、梨緒子は思わず抵抗の力を緩めてしまう。
至近距離にある類の焦げ茶色の瞳に、自分の顔が映っている。それが徐々にはっきりと大きくなっていく。
きっと来る――梨緒子は瞬間に悟った。
「こんなトコじゃ、嫌……絶対に嫌!」
「大きな声出すなよ。聞こえるだろ」
――誰に。誰に聞こえるの。
梨緒子はパニックになった。
たとえ見えていなくても、すぐ近くにいるかもしれないというのに。
「あいつのことを意識すんな、とは言わない。けどさ……」
もがく梨緒子の身体を、類はいっそう強く木の幹に押し付ける。
「リオ」
「ちょっ……ルイくんって……やっ」
梨緒子は顔を思い切りそむけた。
的を外れた類の唇は、梨緒子の右耳をかすめた。
類は本気だ。男の子が本気で力を出せば、到底かなわない。
彼がすぐそばにいるのに。
「ルイくん! お願い、だから……」
梨緒子の懇願も、もはや類の耳には届かない。
こんなの違う。絶対に違う。
涙が出てきた。
『彼』がキスしてくれた唇を、何としてでも守り通したかった。
梨緒子はすべての力を振り絞って、類の束縛を解こうと抗った。
「ルイ! 止めなさい!」
そこへ現れたのは美月だった。
類はその声に驚いたように振り返り、梨緒子の腕を放した。
その一瞬の隙をついて、梨緒子は泣きながらその場から逃げ出した。
どうして美月がこの場所へ――。
――もう、ぐちゃぐちゃだ。
日差しが照りつける昼下がりの屋上に、梨緒子はたたずんでいた。
フェンスに寄りかかり、晩夏の高い青空を眺めていた。
――彼女のくせに、嫌悪感丸出しで拒んでしまった。
梨緒子は例えようもないほどの自己嫌悪に陥っていた。
類の突然の行動も、予想していなかったわけではない。しかし先程の一件は、秀平に対する嫉妬心にしか思えなかった。
掴まれていた腕が痛い。
腕以上に、心が痛む。
梨緒子が秀平に片想いをしていたことは、付き合う前から知っていたはずだ。それなのに類は――。
いや、知っているからこそ、なのかもしれない。
だから、図書館の目と鼻の先の裏庭に、わざわざ連れて行かれたのだ。
秀平が見ている前で。秀平にあてつけるように。
彼が本当に図書館にいたかどうかは、分からないのだが――。
梨緒子はスカートのポケットから、水色のはちまきを取り出した。
秀平がしばらくの間、持っていてくれたものだ。
眺めているといろいろな出来事が思い出され、梨緒子の目の前を流れていく。
【これをどうしろと?】
【いや。誰かに渡して欲しいってことなのかと思って】
【俺、ジンクスとかそういうの信じてないから】
【本当は、安藤と仲良くして欲しくなんか……ない】
――秀平くん……。
梨緒子は祈るような気持ちで、はちまきをそっと抱きしめた。
屋上への出入り口の鉄のドアが、ゆっくりと開く音がした。
梨緒子がとっさに振り返ると、そこに立っていたのは一人の少女だった。
「……美月ちゃん」
先ほど、裏庭の修羅場に現れた美月だった。
表情を強ばらせたまま、長髪をなびかせて近づいてくる。
梨緒子は手にしていたはちまきを、慌ててスカートのポケットにしまいこんだ。
「ルイにはとりあえず、先に帰れって言っといた」
言葉を交わすのは、かれこれひと月ぶりだった。
昨日お土産を持って家を訪ねたときも不在で、美月の母親に渡してそのまま帰ってしまった。美月からお礼のメールもなかったため、すっかり諦めていたところだった。
こんなにも、美月の声が懐かしい。
梨緒子はもう、崩れ落ちてしまいそうだった。
「……もう、無理」
美月の両目が大きく見開かれた。想いがあふれてくる。
「なに言ってるの梨緒ちゃん? いまさらそんなこと、私が許さない! どんな気持ちで私がルイをあきらめたと思ってるの? ルイは梨緒ちゃんのことホントに好きなの。だから、私はそれでもいいって――」
「でも、もう無理だから。この先どんなに頑張っても、ルイくんとはキスとかそんなのできない」
梨緒子はしっかりと親友の目を見つめた。
「私、やっぱり秀平くんが好きなの」
これが真実。
これだけが、真実――。
「秀平くんじゃなくちゃダメなの」
美月は続ける言葉を躊躇させた。
高校に入学して、秀平に一目ぼれをした瞬間からずっと、誰よりも梨緒子の気持ちを理解しているのは、他の誰でもない、ここにいる美月なのである。
しかし。
梨緒子の想いは理解するが、現在の状況をまだ把握し切れていない。
「でも、永瀬くんは――」
梨緒子はおずおずとはちまきを取り出した。そして、それを美月に見えるように向けてやる。
「これ、返してもらった」
「それ、あの球技大会のときの? 嘘……というか、いまさら!?」
美月は驚きを隠せずにいる。
無理もない。
このはちまきが梨緒子へ返されなかったことが、そもそもの始まりなのである。『いまさら』という美月の言葉には、何の誇張もない。
「ハッキリ言われたわけじゃないから、分かんないけど……」
「また? 永瀬くんって、どうしてそう曖昧なのかな。いつもいつも!」
美月は取り乱している。怒りが収まらないらしい。たたみかけるようにして梨緒子を問い詰める。
「永瀬くんになんて言われたの?」
「え?」
「そのはちまきを返してきたときに、なんて?」
【江波――】
星の降る暗闇の中で、はちまきを首にかけてくる前に、彼が発した言葉はそれだけだ。
好きだとも、嫌いだとも。付き合って欲しいとも、迷惑だとも。
秀平は何も――。
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