新学期

新学期(1)

 次の時間は化学の実験だ。化学実験室へと移動である。

 どこへ行くにも美月と行動を共にしている梨緒子だったが、化学だけは別だ。


 梨緒子の通う高校は、理系クラスになると物理・化学・生物・地学の四科目から、二科目を選択することになっている。

 梨緒子は当初医療系短大を目指していたため、化学と生物を選択していた。

 美月は物理と地学。まったく逆である。

 類少年は、梨緒子と同じ化学と生物だ。だから梨緒子は何となく、理科の時間は類と行動を共にしている。

 授業で使う教科書とノート、資料集をカバンから取り出しそろえていると、すぐに類は梨緒子のそばへと寄ってくる。


「さーて、恒例のクイズターイム!」


 いつだって類はテンションが高い。根っからのお調子者で愛想のいい彼は、男女問わずの人気者だ。

 いつものように得意げな笑みを浮かべ、梨緒子に問題を出してくる。


「メタンの水素が一個ずつ取れてそこに塩素がくっつくとするだろ? メタンには水素が四つついてるから、全部付け替わったらはいリオ、何になる?」


 甘く見てはいけない。クイズと銘打っても、ちゃんとした化学の問題だ。しかも、化学の基礎を知らない人間にはまったく手の出ないシロモノである。


 ――メタンには、水素が四つ、ついている??


「ええ? そんなの分かんないよ」


 梨緒子は早々と降参した。

 席を立ち、化学実験室への移動を始める。教室のドアのところまで歩く間も、類はクイズをやめようとしない。


「四塩化炭素。じゃあ、四つのうち三つが塩素に替わったら?」


 いつもいつも、この調子なのだ。

 実験で教室の移動があると、類はずっと簡単には答えられないような小難しい問題を、手を変え品を変え出し続ける。

 そもそも、『人に教える』という行為が好きらしい。


「……もう。分からないよー。生物はそこそこだけど、化学は苦手なんだもん」


「正解はクロロホルム。サスペンス物のドラマでこいつを染み込ませた布で鼻と口を押さえて気い失うシーン、見たことあるだろ? あれだよあれ」


 雑学のような小ネタも交えて、正解を披露する。

 この安藤類がどこの大学を目指しているのか、特に聞いてみたことがなかったが、教育系の学部が向いているのではないか――そう、梨緒子は感じていた。

 梨緒子は教室のドアを出ようとしたところでふと立ち止まり、深々とため息をつくと、背後にたたずむ類の顔を恨めしく見上げた。


「ルイくんってさ、……意外とアタマいいよね」


「何だよ『意外と』って。ここに入ったんだから、そこそこアタマはいいんだぜ?」


 梨緒子に『アタマいい』などと言われて、悪い気はしなかったのだろう。調子づいた笑顔を見せている。

 類の言うとおり、梨緒子の通うこの高校は、県下有数の進学校だ。生徒の学力レベルは、全国平均をはるかに上回っている。


「まあ、数学と化学はいいんだけどな……その代わり、文系科目が思いっきりヤバいけど」


「あ、私も」


「じゃ、全然駄目じゃん。いいトコなしかよ」


 類はからかうように言って、持っていた教科書で軽く梨緒子の頭をはたいた。もちろん、痛くしないよう最小限の注意を払って、である。


「ひどっ。だから、生物はそこそこなの」


「地元の短大行くなら、全然問題ないんだけどな……」


 類は呟くように言った。

 そう。

 梨緒子が憧れの『彼』と同じ大学を目指していること――それを知っているのは親友の美月と、この類少年だけなのだ。

 無謀にも北大を目指していることを、案じての発言であるのか――。


「え? あ……うん。で、でもね。まだ時間あるし! やる前からあきらめてちゃ駄目でしょ?」


 まだ三年の一学期。決して余裕があるわけではないが、なんとかなる、という可能性もまだ残されている。

 類は梨緒子の顔を真顔で見つめ、ぽつりと呟いた。


「俺も北大、目指そうかなあ……」


「え?」


 理由は聞かずもがな、である。




「ちょっと、そこ通して」


 不意に、男子生徒の声がした。

 梨緒子と類の二人が、教室の入り口をふさいでしまっていたため、出るに出られない状況になっていたようだ。

 類は一歩分だけ、脇に避けた。

 すると、その背後にたたずんでいたのは、なんと――。


「あ、ああ。悪い、永瀬」


 梨緒子の憧れの『彼』、永瀬秀平その人だった。

 いきなりの永瀬秀平出現に、梨緒子の頭の中は混乱状態に陥った。


「……あ、あの、ゴメンなさい」


 梨緒子はやっとの思いで、秀平に声をかけた。


「何で君が謝るの?」


 抑揚のない声で秀平は言った。

 決してフレンドリーではないが、かといって怒っているわけでもない、クールな声だ。


 ――あれ、いまの会話って、昨日の電話と同じ……だった?


 その時である。

 二人の間を通り抜けて背を向けていた秀平が、ふと立ち止まり、梨緒子の方へ顔を振り向かせた。


 目と目が合う。そして、半信半疑の顔。

 しかし秀平は、すぐにフイと顔をそむけ、そのまま廊下の先へと歩き去ろうとする。


 ――いったい、何なのかな……。


 類は何かを感じ取ったらしい。立ち去ろうとする秀平の背中に向かって、すかさず問いかけた。


「どうしたんだよ、永瀬?」


「別に……何でもない」


「何でもないって、いま、リオのこと見てただろ?」


 類が少しだけ語調を強くした。

 すると。

 再び、秀平が二人の方へ振り返った。何かに驚いたのか――秀平の目が、普段よりわずかに大きく見開かれている。


「リオ? ……それ、君の名前?」


 普段の秀平なら、そのまま無視してスルーしているところだが、今日は違った。類少年の言葉に、珍しく反応してみせている。

 実物の秀平に、話しかけられている。もう、どう対処していいのか分からない。傍に類がいてくれることが、唯一の救いだ。

 しかし。

 そこで迷惑にも、類のおせっかい虫が顔を出してきた。


「おお? 女子の名前なんか覚えようとしない永瀬が、興味持つなんて珍しいな。さては!?」


「そんなんじゃないよ」


 秀平は即答した。類の冷やかしをあっさり切り捨てる。

 決して、照れ隠しで言っているというわけではなさそうだ。その証拠に、秀平の声はあくまで淡々としている。


 ――そんなんじゃ、ない……か。


 秀平が自分のことをなんとも思っていないことぐらい、梨緒子にだって分かっている。

 しかし、改めて思い知らされると、やはりショックを受けてしまう。


 ――それにやっぱり、名前覚えてもらってないし……。


 でも、一つだけ言えることがある。

 いまの秀平の反応は、おそらく――。


 優作は『梨緒子が、弟の秀平と同級生であることを、本人に言わない』と約束しただけだ。

 さっき秀平が、類の『リオ』という呼び方に反応したのは、優作が家庭教師をしている生徒の名前が、「りおこ」であることを知っていたから――その可能性は高い。

 なにより。

 電話と同じやりとりをしたことで、引き起こされたデジャヴュ的感覚。


 どうしよう。

 秀平はきっと、疑っている。


「絶対あやしい……なんなんだよあいつ。リオ、お前何かしたのか?」


 やはり、同級生だということくらいは、優作から秀平に説明してもらったほうが良かったかも……と、梨緒子はいまさらながら悔やんでいた。

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