春期講習(2)

 春期講習も今日で四日目を迎えた。

 いつもと変わらぬ日常だ。あっという間に時間は過ぎていく。


 授業を終えてからというもの、梨緒子は落ち着きをなくしていた。

 ここ数日、ずっと落ち着かない状態が続いているのだが、それはいままさに最高潮に達していた。


 女子トイレ内の、二面ある手洗い場の鏡の前で、梨緒子は手にマイ手鏡を持ち、ありとあらゆる角度から、自身の姿をくまなくチェックする。


「ねえ、私どこもおかしくない? 髪はねてない?」


「自分の家に帰るのに、気合い入りすぎー」


 隣にいた親友の美月が、ブラシで髪をとかしながら鏡越しに返事をした。

 鏡の中の美月は、冷やかしまじりの微笑みを見せている。


「だって、秀平くんのお兄さんにだらしない子だって思われたくないもん」


 梨緒子が家に帰れば、家庭教師との授業が待っている。

 そして、その家庭教師が憧れの彼・永瀬秀平の『実の兄』だと知ったのは、最初の授業のあったほんの三日前の話だった。


 そもそも梨緒子は、秀平と同じ大学に行きたいから、無理を承知で家庭教師をつけて欲しい、と親に頼んだのだ。

 本当なら、なりふり構わず勉強に打ち込まなければならないというのに――。


「そんな調子で梨緒ちゃん、一年乗り切れんの? 代えてもらえば?」


 身だしなみを整え終え、美月はブラシをポーチにしまい、それを自分のカバンに押し込んだ。梨緒子もあわててそれにならう。

 ゆっくりしている時間はない。


「……やっぱり、そう思う?」


「梨緒ちゃんが本気で北大に行きたいって思っているなら、ね」


 容赦のない親友の一言が、梨緒子の心を突き刺した。

 悪気があって言ったわけではないことは、梨緒子にも分かる。

 確かに美月の言うとおり。こんなことに心労を費やしている場合ではない。


「秀平くんが行くなら……行きたい」


「いいの? 本当にそれで。もし仮に二人とも合格できたとしても――そのあとどうするの?」


 親友の指摘を受け、梨緒子は初めて自分が何も考えていなかったことに気づいた。


 そのあと? そのあとは。

 合格するかどうかも分からないうちから、そのあとのことなんて。


「……そしたら、四年間一緒に過ごせるもん」


「大学って、高校と違うんだよ? 学部が違えば校舎は遠く離れちゃうし、授業も別々だしさ」


「でも、サークルとか――」


「永瀬秀平がサークルに入ればいいけど、彼、やらなさそうじゃない?」


 美月は梨緒子の考えをどんどん先読みしてくる。そのすべてが、梨緒子には正論のように思えた。

 自分がしていること、これからしようとしていることがどんなに浅はかなものであるかを、美月は思い知らせようとしているのだろう。

 確かに大学を選ぶ理由として、これからの人生を考えたらあまりに稚拙なものなのかもしれない。


 付き合っているわけでもない憧れの彼と、同じ大学を目指すということ――。


 美月は黙ってしまった梨緒子を気遣って、話題を修正した。


「どこの学部、受けるんだろうね。きっと理数系だよね」


「そこまでは、分かんない。……私ってば、何にも知らないんだ、秀平くんのこと」


 知っているのは、北海道大学が第一志望ということだけだ。

 理系クラスにいる永瀬秀平が、どこか理系の学部を目指しているということだけかろうじて分かる。その程度なのだ。


「ねえ、お兄さんなら知ってるんじゃない? こういうときこそ永瀬くんのお兄さんを上手く使ってやればいいんだって」


 さりげなくね、と美月は笑顔でアドバイスをしてみせた。




「遅っせーよ! 春って言っても、まだまだ風は寒いんですけどー、お二人さん」


 女子トイレのドアを開け廊下に出るなり、正面の壁にもたれ待ち受けていたのは、安藤類少年だった。


「ルイ? 何やってんの、こんなところで。女子トイレ覗くつもり?」


 美月は幼馴染の待ちくたびれ果てたような顔を見て、嫌味を一つ食らわしてやった。いつものことだ。仲が良いからこそ、である。

 類は足元においてあったかばんを背負い、二人にゆっくりと近づいてくる。


「リオについてこうと思って、待ってたんだよ」


「私に? どうして?」


「永瀬の兄貴って、どんなやつかと思ってさ。なに、チラッと見たらすぐ帰るって。お勉強の邪魔はしねえからよ」


 おせっかいで好奇心旺盛。それがこの少年・安藤類の長所でもあり短所でもある。


 美月は驚きを通り越し、もはや蔑むような目で類を見た。

 しかし、彼はまったく気にならないようだ。付き合いが長い分、その扱いも心得ているためだろう。


「……そこまでする?」


「なんだよ美月、お前だって興味あるだろ? どうせヒマなんだろ、一緒に寄っていこうぜ」


 嬉々として何の気なしに誘ってくる類に、美月は呆れたようにため息をついてみせた。


「人の気も知らないで……ホントにもう」


「美月ちゃん?」


 梨緒子が親友の名を呼んだが、それ以上会話は続かなかった。

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