チュートリアルタイム

真辺 千緋呂

プロローグ

 その家庭教師が、梨緒子の王子様・永瀬秀平の兄だと知ったのは、初めて勉強をみてもらった日のおしまいのころ。

 桜のつぼみが膨らみ始める三月の、春休みの出来事――。


 母親が頼んだ大学生の家庭教師が『男』だということで、梨緒子もそれなりに期待をふくらませていた。


 しかし、現実とは、こんなものだ。

 決してブ男というわけではなかったが、どこにでもいそうな冴えない青年だった。

 身長も、160センチの梨緒子よりもわずかに高い程度だ。一般の成人男性の平均以下だろう。

 ただ、穏やかで和やかな雰囲気をかもし出している。


「敬語、使わなくていいからね」


 初めての言葉がそれだった。


 この春から医大の三年生になるというその家庭教師の青年は、歳は梨緒子と三つしか違わないはずだった。しかし、クラスの男子よりもずっとずっと大人びている――梨緒子はそう感じた。


 永瀬優作。

 それが家庭教師の名前だった。


「できれば下の名前で呼んでね。永瀬先生じゃ、『せ』が二つ重なって発音しづらいから。あ、別に先生って呼ばれたいわけじゃないんだけどね」


 よく喋る、それでいてどことなく隙のある男だった。

 アイロンのかかっていない洗いざらしのシャツや半端な無精ヒゲ、かすかに香る煙草の匂い。若白髪の混じった髪の毛は、八方に毛先を遊ばせている。

 じっと髪の毛を凝視している梨緒子に、彼は説明をした。


「普段は真っ直ぐなんだよ。寝癖直すの、面倒だったんだ。それに、バイトの初日から遅刻しちゃ、印象悪いかと思って」


 梨緒子もこの家庭教師もいまは春休み中ということで、初顔合わせを午後二時という時間で約束をしていた。

 おそらく、昼過ぎまで寝ていたということなのだろう。

 梨緒子にも兄が一人いるが、まったくの異種族だ。



 二人は、リビングの応接セットに向かい合うようにして腰かけていた。

 それは梨緒子の親が、娘の自室に若い男を入れるのをためらったからである。

 しばらくは様子見ということで、リビングでの個人授業――扉の向こうのキッチンには母親がいる。

 万が一のことがあっても、大丈夫だ。

 しかし、この家庭教師の第一印象だけで、梨緒子はすでに心の緊張が解きほぐされていた。


 優作青年は、梨緒子の簡単な自己紹介や現在の成績、志望校などを書きこんだ調査シートを受け取り、それについての簡単な面談を始めた。


「随分と目標が高いみたいだね」


 優作はのんびりと言った。


「どうしても入りたいんです」


「まだ時間はあるからね。目標がハッキリしてる方がカリキュラムを組みやすいし。ところで、どうして北大に?」


 梨緒子は口ごもった。


 ――どうしてって、それは……。


 優作は梨緒子の通っている高校名の欄に目をとめ、んん? と間の抜けたような声をあげた。


「梨緒子ちゃんは春から三年生なんだよね」


 確認するような優作の問いかけに、梨緒子は無言のまま首を縦に振った。


「じゃあ、僕の弟とおんなじだ」


「弟? うちの学校に……ですか?」


「ハハハ、だから敬語は使わなくていいって。この春から、県立東の三年生だから。奇遇だねえ」


 意外な共通点を見つけ、お互い少しだけ親近感を覚える。


「秀平っていうの。知ってるかなあ。うちの弟、大人しいから、目立たないかもね」


 時間が、止まった。

 シュウヘイ。

 この家庭教師の名前は、永瀬優作。

 当然、弟の名前も、永瀬。

 永瀬――?


 と、いうことは。


「――嘘」


 梨緒子は驚きのあまり、息を吸うことも忘れていた。消え入りそうな声で返答するのが精一杯だ。


「嘘じゃないよ。知ってるんだ?」


 優作は楽しそうに言った。たれ気味の目がさらに細くたれる。

 梨緒子にしてみれば、知っているどころの話ではすまない。

 にわかに信じられない話だ。

 第一、クラスメイトの永瀬秀平とこの目の前の優作という男は、どこをどうとっても、似ているところなどひとつもない。


「同じ、クラスだよ。ねえ、優作先生は、ホントにホントにホントおおおに、あの秀平くんのお兄……さん?」


「なんだ、同級生だったのか。じゃあ、秀平にも梨緒子ちゃんのこと聞いてみようかなあ」


「駄目。止めて。そんなことしないで」


 何の気もなさそうに呟かれた家庭教師の言葉に、思わず梨緒子は過剰に反応してしまった。


 梨緒子は、秀平と友達というわけではない。

 それどころか、クラスメイトといっても、一度も言葉を交わしたことがないのである。

 そんな秀平に梨緒子の事を聞くなど――怖くてとてもできたものではない。

 優作は手にしていた書類をテーブルの上に無造作に置き、ゆっくりとソファの背に身を預けた。


「ああ、そう。じゃあ聞かないよ。そんな困ったような顔、しなくてもいいから」


 そう言われて、梨緒子は自分の顔の表情がこわばっていることに気づいた。


「あいつ、無愛想でしょ。みんなとちゃーんと仲良くやってるか、お兄さんはとっても心配、なんだよねえ」


 梨緒子の気持ちを和らげようとしているのか、優作はおどけた調子で自分のことを『お兄さん』と呼び、弟の秀平をまるで小さな子供のように扱ってみせる。

 たったそれだけのことで、梨緒子の知りえない永瀬家の兄弟の関係が、わずかに垣間見えた気がした。


「無愛想だなんてそんな。秀平くんはね、とっても人気があるんだから! 控え目で真面目で物憂げでクールでね、頭もすっごくイイし、バスケで3ポイントバシバシ決めるときなんかものすごくカッコいいし、それにねそれにね」


 それまで口数の少なかった梨緒子が、突然秀平のことを喋りだしたのを見て、優作は驚いたように両目を見開かせた。


 ――し、しまった……。


 優作青年はそのまましばらく呆気にとられていたが――やがて、声を上げて楽しそうに笑い出した。


「ハハハ、我が弟ながら感心するよ。相変わらず、女の子によくモテてるんだなあ」


 完全に気持ちを悟られた。

 梨緒子は弁解を試みる余裕もないほど、動揺していた。

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