ブービートラップ ―張り巡らされた罠の中で―

鬼霧宗作

プロローグ

 いつから意識が途絶えていたのか。それはほんの数分前なのかもしれないし、数時間前なのかもしれない。もしかすると、丸一日経っているなんてこともあり得るだろう。信じられないが、過去に同じような経験をしたことがある。また飲みすぎたか。


 まだ重たいまぶたを開いてみると、まず目に飛び込んできたのは、煌々こうこうと明かりの灯る傘付きの電灯だった。寝る時に手が届かなくて不便なのだろう。ご丁寧なことに長い紐が付け足されており、紐の先端にはピエロだろうか――決してカワイイとは言えない、なんだか気味の悪さを感じるマスコットがぶら下がっていた。


 とりあえず起き上がろうとしたが、世界がぐわんと揺れたことで、とりあえず諦めた。胃の奥からは熱を帯びた空気が上がってくるし、思い出したかのように頭がガンガンと痛み出す。これは俗にいう二日酔いというやつだった。


 そこで彼はほんの少し前の記憶を思い出す。新歓コンパだ。確か大学の新歓コンパで、二次会……いいや、カラオケに行ったのは三次会か。そこまでの記憶はあるものの、しかし歌った記憶は曖昧だし……あぁ、でもカクテルか何かを罰ゲームで一気に飲み干した記憶は残っている。いや、あれはウォッカのショットだったか。


 このようなブラックアウトは珍しくなかった。ただ、どんなに酔っていようが、妙な帰巣本能だけはあるらしく、絶対に自分の部屋で目が覚めた。だから、彼はそこで初めて違和感を抱いた。今、自分が見ている光景は、明らかに自分の部屋のものではないからだ。


 とうとう、これまで完璧に働いていた帰巣本能も酒浸しになり、仲間の家で寝てしまったのか。ともあれ、喉は乾いているし、トイレにも行きたいような気がする。頭を揺さぶられるような感覚におちいり、自己嫌悪をするのは嫌なのであるが、そろそろ起きねばなるまい。


 彼は決心して上半身を起こした。学習机と、その棚の上にずらりと並べられたプラモデル。部屋の隅に積み上げられているのは、小学生辺りが好んで読みそうな、分厚い漫画誌だった。彼も小学生の頃、愛読していたものだ。どういうわけだか窓はひとつもなく、電灯が点けっぱなしであることに合点がいった。小さなベッドが視界に入ったということは、どうやら床で寝ていたらしい。


 仲間の部屋――にしては幼すぎる。どう見ても子ども部屋だった。そして、何よりも部屋にいるのは彼……水落悠斗みずおちゆうとだけだったのだ。


 見知らぬ部屋で目が覚め、そして部屋は子ども部屋。しかも、自分一人だけ。なんだか少し気味が悪くなってきた。おまけに二日酔いだから始末が悪い。ただ、この時に彼が抱いた気味の悪さというものは、決して気のせいなどではなく、彼の本能が潜在的に命の危機を読み取ったものだったのだ。


 ケタケタケタケタ――。耳元で不気味な笑い声を聞いたような気がした。上半身を起こしただけの状態で飛び上がった水落は、いまだに気味の悪い笑い声が聞こえるほうへと視線をやった。そこには、電気の紐にぶら下がっていたピエロのマスコットがいた。


 どんな仕組みになっているのかは分からない。分からないが、まるでネジ巻きの玩具のように両手をばたばたとさせ、その口からは絶えず笑い声らしきものが漏れ出していた。ピエロの駆動音が笑い声に聞こえるだけだと思い込もうとしたが、しかし駄目だった。なぜなら、はっきり喋ったから。親指ほどのサイズしかないマスコット人形らしきピエロが、喋ったのだから。


『トラップ発動。トラップ発動。潰ーブーサレテー死ンジャウヨー』


 最後のほうはメロディーを口ずさむかのように、恐ろしいことを言ってくれるピエロ。その直後、カチン――と音がした。ズンと部屋そのものが揺れたかと思ったら、学習机やらベッドがゆっくりと迫ってくる。いいや、迫って来ているのは学習机でもベッドでもない。壁そのものが迫ってきているのだ。水落が少年の頃に愛読していた漫画誌が音を立て崩れ落ちた。


「なんだよ、これっ!」


 誰に問うわけでもなく口に出すと、ようやく立ち上がった。頭がズキンと痛んだが、そんなことを気にしている暇はなさそうだ。なんせ、ゆっくりではあるものの、左右の壁が迫りつつあるのだから。このまま動かずにいたらぺしゃんこ。人肉サンドウィッチの完成だ。――ケチャップなら間に合ってる。


 ただ、幸いなことに壁が動く速度自体は遅い。少なくとも、水落が辺りを見回して、どうすれば部屋を脱出できるのかを考える時間くらいはあった。


 ――この部屋には窓がない。しかし、水落の真正面に、ドアノブ付きの扉があった。そこに向かって駆け出そうとした一歩目から、何かに足を引っ掛けて転びそうになった。振り返ると小さなショルダーバッグが転がっている。それを見るや否やピエロのマスコットが気味の悪い声を絞り出した。


『持ッテケェェェェ。ソレ、テメエノダカラ持ッテケェェェェ。持ッテカネェト、後デ泣キベソカクゾォォ』


 どこかで水落の行動を監視しているかのごとくタイミングだった。全身に鳥肌が立ったのが自分でも分かる。それでも、素直にピエロの忠告に従って、ショルダーバッグを拾い上げる。ご丁寧にショルダーバッグにはタグがついていて【みずおちゆうと】と平仮名で名前が書かれていた。


 ショルダーバッグを肩にかけると、そのまま真正面の扉へと飛びついた。左右の壁は徐々に狭まり、部屋にある物を次々と飲み込んでいく。挟まれたベッドがミシミシと嫌な音を立てる。水落は飛びついた勢いでドアノブを回し、そして肝を冷やした。何の抵抗もなく回ったドアノブは、水落のことを馬鹿にするように、ポロリと取れてしまったのだ。


「はぁ? どうなってんだよ? おい!」


 外れてしまったドアノブを投げ捨てると、その苛立ちをぶつけるかのように扉を力任せに叩いた。叩く、叩く、叩く。その度に木製の扉はわずかにたわむ。間違いなく扉の向こうに空間がある証拠だ。しかし、ドアノブは取れてしまったし、どれだけ叩いても扉は開きやしない。


 とうとう音を立ててベッドが部屋の崩壊に巻き込まれ始めた。徐々に迫る閉塞感。扉を壊せそうなものは部屋の中に見当たらない。


 水落は扉から離れて距離を取ると、小さく息を吸い、息を止めたまま駆け出し、そして体ごと扉へとぶつける。漫画などでは雄叫びをあげたりするが――実際のところは、そんな暇などないというのが現実だった。そんな余力があるのならば、今は力づくで扉を破ることに全力を費やすべき。


 叩きつける、叩きつける、叩きつける。助走をつけては体を扉にぶつけ、また少し距離を置いては、体を扉にぶつけた。でも、扉はビクともしない。左右の壁の動きも止まりはしない。横になっていたベッドが縦になり、それに学習机が押されてしまい、いよいよ助走するスペースもなくなった。仕方がなく学習机の上に飛び乗る。死へのカウトダウンは着実に進んでいた。


 学習机に飛び乗った拍子に、電灯の紐にぶら下がっていたピエロのマスコット人形に腕が触れた――その時である。すると、ピエロのマスコット人形が急に口を開いたのだ。この状況下で、まるで最後まで潰されぬように、計算されたかのような位置にある電灯の真下で、紐にぶら下がったピエロのマスコット人形がだ。


『コノ罠カラノ脱出手段。マズ、邪魔ニナッテイル、ドアノブをヲ外シマース。後ハ――ケタケタケタケタ。言ワセンナヨ。恥ズカシイ。ケタケタケタケタ』


 パニックだった水落は、あまりその事実には触れずにいたのであるが、ピエロの人形がまるで意志を持ったかのように喋る光景は、それはそれで下手なホラー映画よりも恐ろしい光景であろう。それよりも、生きることに対する執着が勝つのだから、人間の本能というものは凄い。むしろ自然とピエロのマスコット人形が喋ることを受け入れているのだから。笑い声に聞こえるものは、口の噛み合わせが悪いものだと自分に言い聞かせた。


「ドアノブを外すのが――脱出の手段?」


 本来、それが外開きであろうと内開きであろうと、ドアノブというものは必要となってくるはず。それなのに、ドアノブを外すことが脱出するための手段になるとはどういうことか。


 水落はドアノブの取れてしまった扉を見つめつつ、あることに気づいた。ドアノブが取れてしまった今、それは引き戸にも見えなくない気がする。ドアノブがついていたからこそ、水落は扉が外開きか内開きのどちらかで開くものだと考えた。しかし、そもそも押しても引いても開かない造りの扉だったとしたら。


 刻一刻と緊急レベルは上がっていた。いよいよ、水落が足場にしていた学習机が、歯ぎしりのような音を立て始めた。水落は学習机を飛び降りると、扉に駆け寄る。


 扉の模様のくぼみに手をかけ、まずは横にスライドさせることを試みた。右方向は駄目。そして左方向も――駄目。


「これで合ってるはず。これで合ってるはずなんだ!」


 もう、今さら方針を転換する余裕はなかった。すでに左右の壁は水落の肩幅と等しくなろうとしていた。


 水落は腰を低く落とすと、扉の下部に手をかける。頼む、頼む、頼む、頼む。これで駄目だったらアウト。まさしくサンドウィッチの完成だ。


「いや、マジで頼むって!」


 水落は力任せに扉を引き上げた。シャッターなどを開ける時と同じ原理で、下から上に向かってだ。すると、これまでびくともしなかったのが嘘だったかのように、扉はスルスルと開き、そして光が差し込んだ。水落は体を横にして、なんとか脱出口へと体を滑り込ませた。変な表現かもしれないが、廊下らしき場所へとずり落ちると同時に、かつて子ども部屋であったであろう部屋は、この世から消滅してしまった。辺りに舞うのは魔物が閉じた後に生じた粉塵ばかり。


 ――もう少し遅かったら死んでた。喉はカラカラ。両手足はジンジンと痺れている。何が起きたのかなんて分からないし、ここがどこかも分からない。


 理不尽なゲームの始まりを告げる町内アナウンスが流れたのは、まさしくその直後のことであった。


 この時の水落は、まだ状況を把握できていないせいで知らなかった。これから目をそらしたくなるような群像劇に自分が巻き込まれていくことを。


 ――最後まで目をそらすんじゃない。

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