終章

 頼りになる明かりなど、何一つない。

 足裏の、廊下の堅く冷たい感触だけを頼りに、闇の中を手探りで進んでいく。

 月のない夜ほど、澄み渡った世界はない。

 全てのものが、呼吸を止める。物音一つ、聞こえない。自分の微かな足音や衣擦れすら、己の耳にまでこだまさせる障壁などない。

 廊下が途切れ、その先は飛び石が並び、その上に屋根をこしらえた渡り廊下となる。

 下駄が見つからず、素足のまま、僕は刺すように冷たく凍った飛び石の上を歩いた。

 やがて、離れに辿り着く。

 漆黒の中に浮かぶ、その仏堂を思わせる庵は、五年前に訪れた時より、一際大きく僕の前にそびえていた。

 離れの廊下に、足を掛ける。

 障子の前に立つ。

 閉ざされた敷居の向こうは、あの夜よりも更に静まり返っていた。

 静寂すら、その気配を失っているように思えた。

「……刀子、姉さま」

 呼びかけの声が闇の中に霧散していく。

 障子に手を掛け、ゆっくりと開く。

「お姉さま……」

 深黒の闇が、顔を覗かせた。

 闇に満たされた深い海だけが、その世界の住人の全てだった。

 闇のたゆたう海へ、ゆっくりと顔を近づける。





 その漆黒の狭間から、すぅー、と青白い手が、僕の顔に伸びた。


                                                                      終

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る