第5章 3

 ……雪道に幾度となく足を取られ、余計な時間を浪費してしまった。

 もと鳥居があったと思しき岩間を抜け、辛うじて参道とわかる細い山道を登ると、既に陽は西へ傾きかけていた。もう間もなく日も沈んでしまうだろう。


 ――ちりん。


「――大丈夫、まだ間に合うわ」

 傍らでにっこりと姉が微笑みかける。

「冬は太陽の位置が少し違うから、今だと丁度良く見えてよ」

 真っ白な白銀の世界の中で、あの日と同じ、鶸色の夏衣の少女が、僕の手を取り雪の階段を上る。――いや、それは彼岸蝉の時雨が降り注ぐ、あの夏のままの光景。

 僕は姉に導かれるまま、夏草の生い茂る石の階段を上っていく。姉と繋いだ自分の掌も、インキの染みついた大学生の青白い手ではなく、あの夏の日の少年と同じ、日に焼けた小さな掌。


「――さあ、着いた。ここが神様の祠がある場所よ」


 ようやく目的地に着き、汗を拭いながら朗らかに姉が笑う。

 目的地、といっても、特別風景が変わったわけではない。山裾の途上でプツリと傾斜が途切れ、わずかばかり開けた平地があるだけの、例えるなら尋常小学校の階段の踊り場のような場所。

祠がある場所というより、昔あったというべきか。山側の斜面に、墓石を大きくしたような碑がひとつ苔むしてあるきりで、碑文も辛うじて「水」と「巳」の文字が読み取れるばかりの寂しい場所だった。

「……ここが、神様のいる祠?」

 些か拍子抜けし、折角ここまで汗だくになって登ってきたのにという若干非難の色も込めて姉に問う。

しかし姉はそんな反応など最初から予期していたかのように「んふふ」と笑い、

「ちょっと、こっちに来て頂戴。……あ、気をつけて! ここのすぐ下は崖になっているから」

 と手招きする。

 ここまでの徒労に内心憮然としながら姉の傍に寄る。姉の傍らに立ち足元を見下ろすと信じられないほど深い切り立った崖に危うく悲鳴を上げるところだったが、

「見て」

 と姉に肩を叩かれ、顔を上げた僕は――息を飲んだ。

「わぁ……!」

 目の前には、里の家々、田畑やその中心を流れる川、一番奥まったところにマッチ箱のように小さい学校。――僕たちの住む麓の集落の全景が広がっていた。

 ちょうど夕陽がまもなく山裾にかかるところで、集落の在る窪地全体が橙一色に染まっている。

 その中心に眩しく煌めく光の反射の中に、僕は見つけた。

「あれは――蛇?」

 傍らに立つ姉が微笑みながら頷く。

「そう、この村の守り神――白蛇の姫神さまよ」

 ……それは自然が見せた魔法だった。

 村のほぼ真ん中を流れる川は「弓手川」と呼ばれるとおり、いくつかの小さな蛇行はあるものの、全体が東側に向けて弓を引いたように大きな弧を描いているのが此処からだとよくわかる。

 その沈みかけた夕陽がきらきら反射する金色の川面の中心に、ひときわ光を集め、真っ白に輝いている一筋があった。

 どういう光の加減なのか、それは川の中心に真っ白な蛇が浮かんでいるようで、ここから川の全体と対比させると小さく見えるが、実際の長さは優に百米近くあるだろう。

 それが、恐らく日の沈むのに合わせて少しずつこちらの方へ、つまり南側にある祠の方へとゆらゆら近づいてくる。既にもうすぐ手前の方まで近づいていた。まさに白い大蛇が川を遡上しながら祠へ帰ろうとしているような。

「この時間、この場所でしか見ることができないの。吃驚したでしょう? ここに祠があったのも、神様がこの場所に帰ってくるからよ」

 白い大蛇を見下ろしたまま姉が言う。

 僕はただ黙って、偶然が生んだ自然の神秘に見惚れていた。

「……この集落は、山々に囲まれた窪地にあるでしょう? 本当だったら、大雨なんか降ったら、岩だらけの山肌を伝って、一斉に流れ込んだ雨水で川が氾濫して、洪水で集落が全て水の底に沈んでしまっても不思議ではないの。でも、あの川は一度も溢れたことなんかない。逆に、枯れたこともない。わたしたちのご先祖様がこの地に集落を築く前に、ここに住んでいた人たちがこの場所を見つけて、きっと神様に感謝を込めて、ささやかでも社を建ててお祀りしたのでしょうね」

 静かに語る姉の話に、僕は遠い昔の集落の姿に思いを馳せる。……その人たちは、一体どこに行ってしまったのだろう。

「ねえ、勝太郎?」

 いつの間にか、姉は僕の手を握っていた。

「わたし、勝太郎に見せたい場所、見せたいもの、他にもたくさんあるの。また一緒に遊びに行きましょうね?」

 僕は頷いた。

 姉も嬉しそうににっこり笑う。

「……それでね、勝太郎?」

 姉は少しだけ真面目な顔になる。勿論、照れたような微笑を浮かべたままであったが。

「もし、今に勝太郎が大人になって、お姉さまより背が大きくなったら、今度はおまえがわたしを何処か素敵なところに連れて行って頂戴ね?」

「何処かって、何処? お姉さまなら、何処がいいの?」

 僕が問うと、姉は予め答えを用意していたかのように抑揚をつけて言った。

「うん……っと遠いところ。ふふ、誰も知らないところ、見たことも、聞いたこともないところ」

「難しいなあ……」

 かなり真剣に悩む僕の頭にコテンと自分の頭を預け、「んふふ」と幸せそうに姉は笑う。

僕は、繋いだままの姉の手をそっと握り返した。

「勝太郎……」

 頭を乗せたまま、甘えるような声で姉は目を瞑る。

「大好きよ――」


  ――ちりん。

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