第4章 5
いつの間に律が帰ったのか、よく覚えていない。
気がつくと部屋の中に僕一人だけがポツリと取り残され、白けた静寂と火鉢の温い気配だけがぽつぽつと揺蕩っていた。
……僕は一体、今まで何を見てきたのだろう。
考えてみれば、不可解なことはいくつもある。
例えば、それは十一年前。
初めて姉と語らい、彼女に欲情し、精通を催した、初夏の夕闇の川辺。
今でも覚えている。姉の下着を染める真っ赤な経血。赤い一筋の伝う美しい少女の太腿。
今だに鮮烈な記憶だった。――異常なほどに鮮明だった。
何故、沈みかけた夕陽を背にして薄暮の影の中に座っていたはずの姉の裾の内側を、夕闇の中まるで灯りでも当てたようにあんなにはっきり見て取ることができたのか。
何故年端もいかぬ未通の娘が、僕が漏らしたそれを嗅ぎ分け、知り顔の淫らなわらいを浮かべて見せたのか。
例えば、それは十年前。
そのずっと後まで僕を慚愧の念に苦しめた、残暑の山中での悪戯。
普通ならば身体の原型を留めぬほどぺしゃんこに潰れてもおかしくない高さから落下したにもかかわらず奇跡的に打撲と脳震盪程度で済み、その上で姉と一時の忌まわしい戯れに及ぶことができたのか。
そして、先程律が語った真相。
姉は、崖から落ち気を失っている僕を身も世もあらず泣きながら助けてくれた。それには、律の他にもきっと大勢の証人がいる。
僕は、姉とは何も過ちは犯していなかったのだ。
ほんの一瞬だが安堵の喜びが胸の奥に湧き上がりかけた。
しかし、次の瞬間僕に再び提示されたのは、身の毛もよだつような恐ろしい最初の疑問だった。
……僕は一体、今まで何を見てきたのか。
十年前の夏の日に、姉と二人の道行きの途中ですれ違った百姓は、姉の後ろ姿をじっと嫌らしく眺めていたわけではなかった。その背後で僕の傍らに潜む何者かの気配を感じ、不審の眼差しを向けていたのだ。
その何者かに手を引かれるように歩く僕は、見る者の背筋を凍てつかせるような笑いでもってにっこりと百姓の方を振り返ったそうだ。――今まで誰も見たことがないという、それがどんな感情によるものなのか、当人は浮かべ方すら知らない「わらい」という表情を浮かべて。
……悪夢の種明かしをされたように、すべての記憶の情景が醜く造形を歪めていく。
十一年前の夕暮れの川辺で、淫らなわらいを浮かべ弟を誘うように、よく見えるようゆっくり開いて見せた姉の股間から滴る艶めかしい月の血が、暗がりから獲物を狙いチロチロと嫌らしく蠢かす有害極まる毒蛇の赤い舌に変わった。
十年前の崖下で、うつ伏せる僕の上で繰り広げられた姉の痴態が、生理的嫌悪を催す無数の蛇玉の中でヌメヌメと汚い汁を垂らしながら交わる蝮共の交尾へと変わった。
目眩く蘇るのは、今尚鮮明な夏の記憶。決して許されない姉との戯れ。
……その鮮やかな記憶の色彩が、みるみるうちに醜悪なものへと変貌を遂げていく。
律が今語ったことが本当だとしたら。
僕が今まで見ていた姉は、一体誰だったのか。
いったい僕は、何を姉だと思い込み、淫らな悪戯とその後に続く慚愧、背徳の悦びをずっと繰り返していたのか。
「夢なんだ。……全部、夢だったんだよ」
……全ての元凶の正体を、僕は悟った。
あれは姉ではなかったのだ。もっと邪悪で悍ましい化け物が、僕たち姉弟の背後に潜んでいたのだ。
(ああ、そんな。……じゃあ、まさか?)
最後に残る疑問。最もおぞましい情景の予感に僕は目眩を覚えた。
……あの夜に何があったのか。
最初の夏の川辺で。次の夏の崖下で。そして、最後の冬の夜に。
今まで自涜の最中の淫らな妄想の世界ではまだしも、実際の行為に及んだ際には、必ず本当の姉が傍にいたはず。
最後まで、何も過ちはなかった。夢だった。全部悪い夢だった。それで終わらせてしまえばどれほど心安らかなことだろう。しかし、あの執拗極まる化け物がこのままただで僕たち姉弟を解放してくれるはずがない。
あの夜、一体僕と姉は何をしたのか。――いや、僕は姉に何をしたのか?
「――嫌だ」
目を覆い耳を覆い顔を覆い、その情景を脳裏に思い浮かべることを拒絶する。
しかし、僕にとり憑いた化け物が、最後の呪詛の仕上げを促すかのように、僕の瞼を無理やりこじ開けにかかる。
「嫌だ……嫌だ、嫌だいやだ!」
(ダメよ?)
耳元で、姉の優しく囁く声が聞こえる。
(やめてなんか、あげないの)
「いやだぁ……あああああああ――!」
懐かしい、お姉さまの声。――でもその正体は、ずっと姉の皮を被り続け僕たちを破滅へ導いた化け物の囁きだったのだ。
あの夜。
十三夜の小望月の薄明かりの中で自分の部屋を訪ねてきた弟の姿を見たとき、姉はさぞ歓喜したことだろう。明日には遠くへ旅立ってしまうと偶然小耳に挟んでいたので尚更のことだった。
信じられぬ心持ちで障子を開けると、すぐ目の前に立つ、すっかり背丈が自分を越え大人びた弟の姿に、姉は感極まって涙を零した。夢みたいだと笑い、嬉し泣きに泣き濡れながら弟を抱きしめる。――その姉の唇を、突然弟は奪った。
驚いて身体を離す姉を追い詰め、丁度床に就こうと敷いていた布団の上に乱暴に組み敷いた。
姉はほとんど抵抗しなかった。姉は弟のことが大好きで、弟も同じ気持ちでいてくれていたのだと、だからこうして最後の夜に別れの挨拶に来てくれたのだと信じていたから。
だから、乱暴に夜着を剥ぎ取られ、碌に愛撫もないまま初めてを奪われても、姉は拒まなかった。破瓜の痛みに歯を食いしばって耐えながら、ただ、これは弟も自分のことが好きだからこんなことをするのだと、自分に言い聞かせながらそれが終わるのを待った。
一度目の放出が済み、いくらも間を置かずに、今度は後ろ向きに手をつかされ、顔が見えぬ状態で貫かれた。
姉は背後で幾度も幾度も腰を叩きつけてくる弟に、ポロポロと涙を零しながら、好きよ、大好き、と心の底から呟き続けた。弟の気持ちに応えようと、拙い知識を参考に精一杯喘ぎ、喜びの痴態を演じた。
やがて、姉の中で果てた弟が身体を離すと、既に精根尽きていた姉の身体は支えを失ったように崩れ落ちた。
身支度を整え、部屋を出ようとする弟の背後で、まるで焦点の合わぬ視線を虚空に向けたまま、好きよ、大好き、と未だ心は交歓の中にある様子で、愛する人への睦言をずっと繰り返すばかり。既にその表情から正気の一端も探ることはできないが、そこに浮かんでいるのは微笑。涙にぐしゃぐしゃに濡れた顔に湛えられた、姉にとっては生まれてきて一番幸福な――あまりに悲痛な笑顔だった。
そんな姉の凄惨な姿に、部屋を出る間際の弟も振り返る。
僕もだよ、お姉さま。そう言って、
――にっこりとわらいかけた。
「――嘘だ……こんなの」
これはきっと今までと同じ、僕に苦痛と後悔の罪悪感で永久に苦しめようとする邪悪な幻に違いない。
(でも、ほら。おまえの母親のあの表情を思い出してごらんよ、只事と見えて?)
「あ……」
絶望が、目の前に暗幕の帳を降ろした。
(ふふ、あの女中に真実を全て明かされてこれで目出度く大団円だなんて思った? おまえはこれから毎夜毎晩夢で現でわたしに操られるがまま、自分の姉を壊れるまでめちゃくちゃに弄び続けることになるのよ? もう都会になんか帰してやらない、わたしと一緒に毎夜毎晩覚めることのない夢の中で悔恨に苦しみながら遊ぶのよ。ほぅら、また今までと同じことの繰り返し。寝ても覚めても同じこと。うふふ、素敵じゃなくて?)
「……あああ」
(それにね、勝太郎――)
不意に背後に冷たい濃厚な気配を感じた。振り返る間もなく首筋に冷たい手が回され、柔らかいものが背中にのしかかる。
「――これはおまえ自身が望んだことなのよ? そして、刀子自身も望んだこと。……わたしは、お前たち姉弟の願いを叶えてやっただけ」
「……おまえは、」
「あはははははっ! 言ったでしょう? おまえはもう、わたしから逃げられないって」
「このっ――!」
僕の背中に胸を押し付け高らかに哄笑する何者かを乱暴に払い除けて振り返ると、そこにはただ、すっかり灰だけを残し火の潰えた火鉢が置かれただけの、がらんとした応接間の襖が見えるだけだった。
残されたのは、ただ、部屋に独りきりの静寂と空虚。
「……ああ。こんなの、嘘だ」
もう、逃げられない。
この悪夢は、罪悪と悔恨の連鎖は永久に続く。
あの化け物は産婆をとり殺し、祖母を憑き殺し、祖父を祟り殺して、それを帝都から僕を呼び戻す口実にし、姉を中庭に飼い殺しにした上で、僕を呵責と陵辱の果てに責め殺すつもりに違いない。
なんという執拗な怨嗟。あの蛇の化け物はこの家を末代まで祟り抜くつもりなのだ。
――ああ、恐ろしい。あの赤子は必ず、次の子を喰らうぞ。長者の家に生まれた次の子を、次の次の子を、必ず喰らうことになるぞ
……産婆が村人たちに語ったという戯言が、頭に浮かんだ。
奇しくも、産婆の予言のとおりとなってしまった。
――もう、刀子のことは、忘れなさい
母の言葉が、ぐるぐると目の前を過った。
――おまえが、あの子をどう思っているかは聞きません
今までずっと秘めていた罪悪を突如暴きたてるかのようなまるで走馬灯が。
――あの子は、もうこの家にはいないものです
遠くで咳き込む父の声までもが。
――おまえさえ、忘れてくれればいい
忘れることなどできようもない。胸を抉られるような取り返しのつかない痛みは。
――あの子のことは全て、私が墓場まで持っていきます
――ちりん。
――おまえが、あの子をどう思っているかは聞きません
――あの子のことは全て、
――ちりん。
「――あれ?」
あの子のことは……全て?
――ちりん。
……母の言葉に、違和感が過った。
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