3 乱暴者が羽根を踏んだ
グランマは家族が見守る中で、静かに息を引き取ったらしい。享年八十六歳。大往生だ。
彼女の死は大学中を驚愕させた。どこで聞いたのか、OBたちも大挙して押し寄せてきたくらいだ。臨時休業していたグランダッドは葬儀の日だけ扉を開け、弔い酒を振る舞った。泣きぬれた酔っ払いたちは店から溢れ、銘々にたむろい、凍えるような夜をグランマの思い出と一緒に乗り越えた。
それからまたグランダッドは休業の紙を貼った。
僕はベッドに寝転び、ぼーっと天井を見ていた。窓の向こうは相変わらず曇天だ。セントラルヒーティングの復活した部屋は春のように柔らかくて、けれど外と同じくらい灰色に静まり返っていた。
「なぁ、ウルフ」
「なんですか」
彼はいつものようにデスクに向かって、何やら書き物をしていた。傍らには本の山。『すごく変な毒草たち 全三百種』『ケルト社会の植物』『調合理論』『聖人の花』……もう一冊あったけれど、知らない言語のタイトルだった。
そのペンはずいぶん前からまったく動いていない。
「グランマのところに来たっていう少年、あれは何だったの?」
ウルフはゆっくりと振り返った。
「おそらく、血無し少年と呼ばれる類のものかと」
「血無し少年?」
いかにも恐ろしげな名前だ。
「血無し少年と呼ばれる存在は二種類います。いずれも北の方の伝承で、不条理に殺された少年が幽霊になって現れる、というお話です。ハイルトンの血無し少年の方が有名ですね。彼は城主に殺されて、その恨みから幽霊となり悪さをします。ギルスランドの血無し少年は、寒い中に放置されて死んだ少年で、バンシーとほとんど同じことをします」
「バンシー?」
「ええ。寿命が近い人間のもとに現れて、泣くのです」
「……」
「少年が冷たい、冷たいと言っている場合は、死因が病であることを指しています。その場合は病院へ行けば、ある程度寿命の予測はできるでしょう。……彼女が、後悔を残していなければいいのですが」
それきり彼は黙り込んで、話を切り上げるようにデスクへ向き直った。
僕は壁の方へ寝返りを打ち、目を瞑った。
後悔を残していなければいいのですが。祈りを込めて湖に投げ込んだ宝石のような言葉だった。たぽん、と小さな音を立てて、波紋が広がる。
ウルフの父親は有名な俳優で、ちょうど三年前の今頃、突然何者かに殺された。犯人はまだ捕まっていない。
寿命よりもさらに予期できない、強制的な別れ。事が起きてからでは遅い。その時に彼が味わった後悔はどれほどのものなのだろう。後悔だけじゃない。犯人への憎しみとかもあるはずだ。そういうものを彼はどうやって心の内に押し込めているのだろう。そうしながら他人へ祈りを捧げるのは、どんな気分なんだろう。
僕の貧困な想像力ではとてもじゃないが分からなかった。
グランダッドは一ヶ月後に店を再開した。でも、行けばグランマがいなくなったことを思い知らされるだけだ。だから何となく行く気になれなかった。
僕らが再びそこへ行ったのは、二月も下旬に差し掛かった土曜日だった。
「今月入って何度目だよ、もう……」
白い息を吐き出しながらぼやく。セントラルヒーティングによるストライキは少なくとも週に一度、多い時には三度も起きていた。原因は不明だという。
グランダッドが休んでいる間は布団で我慢したり、別のパブへ行ったりしていた。けれど分かったのは、やっぱりグランダッドの居心地が一番いいってことと、暖房無しの一月二月は消えるべきだってことだけ。まして今日は雨も降ってて最悪だ。
ウルフも渋面を取り繕わない。
「いっそ取り替えるべきなんじゃないですかね」
「去年改装したばっかなんだ。金が無いだろ」
「頭の痛い話です」
「僕らもストを起こそうか? 寮生みんなでやれば、どうにかしてくれるかも」
「盗人の鼻先に宝石をぶら下げるようなことはやめてください」
その言葉にふと思い出す。
「盗人って言えば、聞いた?」
「何をです?」
「グランマの家に盗みが入ったって噂」
ウルフの眉根がぎゅっと寄った。
それはグランマが亡くなった直後のことだったという。グランダッドから少し離れたところにあるグランマたちの住居へ、どうやら侵入した者がいたらしい。けれど部屋が荒らされていただけで、何も盗られていなかったという。
「それは不思議ですね。いったい何が目的だったんでしょう」
「さぁ」
僕は肩をすくめた。
「盗みをやろうと思ったことはないから、なんとも」
「侵入することが目的だったか、家人ですら知らない物を盗っていったのか……」
それからウルフは小さくくしゃみをした。
「やっぱりそのコート薄いんだよ。風邪ひくよ」
「平気です」
ウルフは真っ赤になった鼻を啜って、頑なにそう言った。
グランダッドの中はやっぱり同じ寮の連中でいっぱいだった。雨の分の湿り気を帯びた熱気がもわっと押し寄せてきて、ウルフが真っ白になった眼鏡を外した。なんだか前に来たよりも騒がしい。うがった見方かもしれないけれど、僕には暗い空気を避けるためにあえてそうしているように思えた。
「いよう、魔法使い!」
ふざけた調子でウルフと肩を組んだのは、一階にいるお調子者のリトルだった。ある一件(詳しくは“血飛沫婦人の回遊”を見てほしい)以来、ウルフのことを不気味だなんだと言っていたのはすっかり忘れることにしたらしい。
「なぁ俺たち同じ寮の友人だろ? 魔法で暖房を直してくれよ!」
リトルの無遠慮なニキビ面に向かって、ウルフは距離感のある微笑みを浮かべた。
「ゲーテの『魔法使いの弟子』ってご存知ですか? アニメの方でもいいのですが」
「もちろん! あれだろ、箒が蜂起するやつ」
「あれ同様に、暖房が乱暴を始めてもいいならやりますけど」
「あれってリアルな話なのか?」
「ご想像にお任せします」
ウルフはひょいと肩をすくめて、彼を躱した。
カウンターの向こう側にはミックさんが立っていた。ちょうど注文を終えたらしいミスター・サムが、こちらに向かってちょっと微笑んで、カウンターの隅の席に腰を落ち着けた。うつむきがちにグラスを傾ける。
ミックさんが僕らに片手を挙げた。
「よ、真っ赤なお二人さん」
少し疲れているような笑顔の隣で、空の安楽椅子がかすかに揺れていた。マチルダはいなかった。
僕はそこから目を引き剥がした。
「こんにちは、ミックさん」
「また壊れたんだって?」
「そう。どうも気難しいやつみたい」
「へそまがりには困ったもんだね。注文は?」
僕はやっぱりチーズオムレツ、ウルフは日替わりパイ――今日は子牛とアプリコットのパイだった――を頼んだ。それからモルド・ワイン。この時期には欠かせない一杯だ。ウルフが代金を渡すと、ミックさんは厨房の方に引っ込んでいった。
「ミックさん、疲れてるみたいだったね」
僕が囁くと、ウルフは眉を上げた。
「そうでしたか?」
「見て分からない?」
「私はそういうのが苦手なので」
ウルフはくるりと背を向けて、カウンターに寄りかかった。厨房の方からカシャーンとグラスの割れる音がした。うっかり者のキャシーがまたやらかしたらしい。ミスター・サムがびくっと顔を上げて、またゆっくりとうつむいた。
その直後だった。
平穏を愛するこの店にあるまじき乱暴さで扉が開いた。音にびっくりして振り返ると、小汚いがに股のおっさんがずかずかと入ってくるところだった。五十代くらいだろうか。“私は荒れた生活を送っています”と喧伝するような格好で、傘も持っていなかったのだろう、全身ずぶ濡れだった。頭頂部は禿げていて、縮れた茶髪が耳の上にくっ付いている。大きな鷲鼻と偏屈そうに曲がった口。煙みたいなグレーの目が僕を睨んだ。
「おらどけ小僧!」
「わ」
包帯を巻いた手に押しのけられる。なんだコイツ。横柄でヤな奴。酒臭いし。店内は静まり返って、この無礼な男(もはや客ではない)をじっと見つめた。
だが男はまったく怯まなかった。カウンターをガンガンガンガン叩きながら、奥に向かって叫ぶ。
「おうい、ミック。ミッキー。ミッキー・ダルトン!」
「はいはい何だい――」
厨房から出てきたミックさんは、男の顔を見るなり硬直した。そしてカァッと紅潮した。
「お前っ……店には来るなって言っただろう!」
「はぁあ? 誰に向かって言ってんだ。今この店の持ち主は俺だぞ!」
店内がわずかにどよめいた。僕もみんなと同じ気持ち。この男がグランダッドの持ち主だって? それって……どういうことだ?
ちらりとウルフの方を窺うと、彼は厳しい目で男を見ていた。
男は勝ち誇ったような厭らしい笑みを浮かべて、カウンターにだらしなく寄りかかった。拳が細かく震えているのは、たぶんアルコール中毒だろう。
「そっちがその気なら、今すぐ権利書売っ払ってやってもいいんだけどなぁあ」
ミックさんはぎゅっと顔を歪めた。
「分かった、分かりましたよ。とにかく、この場で騒ぐのはやめてください。話は奥で聞きますから」
「話? んなもんいいよ、金出せ、金。レジにある分だけでいいぞぉお」
最低だ。この男は――どうやってかは知らないが、簡単には取り返せないような正規の手段で手に入れた――権利書を盾に、金をせびりに来たらしい。
ただの強盗ならぶん殴って済ますだろうミックさんが、素直にレジを開けた。
僕は胃がむかむかしてきた。出来ることなら、この腫れぼったい横っ面を張り倒して、テムズ川に捨ててやりたかった。従わないでくれミックさん! って心の中では張り裂けるくらい叫んでいた。こんな汚い男に、僕らの綺麗なはした金を渡さないでくれ! って。
男はだらしなく笑いながら、カウンターに置かれた紙幣を無造作に鷲掴みにした。
「こんだけかよ、しけてんな。ああ、あと酒。酒も寄越せ。一等良いヤツな」
「あんたなぁ――」
我慢ならない様子で言い返しかけたミックさんが、男に睨まれて口をへの字に曲げる。そして苦しそうな呻き声を漏らし、酒の棚の方へ足を向けた。
その時だった。
「待ちたまえ」
威厳に満ちた静かな声。
ミスター・サムがステッキに両手を置き、しっかりと立って男を見据えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます