4 宇宙を見詰める

 ウルフはティーカップを片付けてから戻ると言ってキッチンに向かった。僕はこの紅茶まみれの靴下を洗いにシャワールーム(ここは半分ランドリールームでもある)へ行って、


「あれ、この服」


 置き去りにされていた服を見つけた。さっきの男のものだ。丸ごと置いていったらしい。

 僕は溜め息をついた。困ったな。ここに置きっぱなしにしておいたら、この寮の予備の服の仲間入りだ。預かっておいて、どこかのタイミングで返しに行ってあげないと。

 洗った靴下と男の服を抱えてシャワールームを出る。

 と、


「おいロドニー!」

「うわ、何?」


 あっと言う間に同じ寮の連中に四方を囲まれた。


「なぁなぁ、さっきの奴は何だったんだ?」

「魔法使いが呪ってたのか?」

「何の話だったんだ?」

「やっぱりアイツって人を呪うのか?」


 うんぬんかんぬん――普段は静かにしているが、やっぱりみんなウルフのことが気になっていたらしい。それもそうか。魔法使いなんてめったにお目にかかれない存在だし、その実態は霧に包まれていて見通せない。向こうは隠したがるし、こちらは関わりたくない。互いに距離を取り合えば、実態なんて分からないのが当然のことだ。

 一人が馴れ馴れしく肩を組んできた。


「なんかさぁ、アイツ不気味だし、怖くない? 何考えてんのか分かんねぇしさ」ハハッ、と鼻で笑う。「よく同室でいられるよな、お前」

「他人の考えが全部分かる人がいたら、僕はその人の方が怖いね。それじゃあ」


 僕は無愛想に腕を振り払った。

 部屋に戻ると、ウルフはデスクに向かっていた。静かな背中。防音性がちゃんとしている建物で良かった。ほっと息をつく。冷静になった途端、床の水溜まりが目についた。室内灯を反射して白く光る水溜まり。


「あ、そうだった。掃除しないとね。モップを――」

「いえ、そのままで結構です」

「え?」


 がたん、と勢いよく立ち上がったウルフが、水溜まりの傍らに膝をついた。そしてそこに指を突っ込み「調べろsearch」と呟く。

 僕は目を見張った。彼の指を中心に、金色の光が蜘蛛の巣のように広がっていったのだ。光は細く太く、ネットワークのように走り回って、水の表面を隅から隅まで覆い尽くした。リアリティのない輝きがウルフの顔を照らした。真剣な横顔は読書中の彼と変わりない――なのになぜかぞっとした。

 そうだった。彼は、魔法使いだ。

 僕ら普通の人間とは違う存在――


「……やはり、引きずり込まれたというのは勘違いですね」


 ウルフはゆっくりと立ち上がった。金色の光が消えて、水は再び天井の灯りを反射するようになる。僕の大好きな現実的な光だ。だが彼がひょいと手を振って「爽快であるrefreshing」と言うと、水は光ごと消え去った。

 僕はしばらく呆然と立ち尽くしていたらしい。

 黙ってデスクに戻ったウルフが座ったまま振り返った。


「大丈夫ですか?」


 あ、うん。とかなんとか僕は言ったらしい。よく覚えていないが、ウルフが何も言わずにデスクに向き直ったからそうなんだろう。その時の僕の頭の中は、これまでに味わったことのない謎の感情でいっぱいになっていた。芯の部分がじーんとして、なんだか耳鳴りまでしているような気がした。

 他人の服をデスクの上に放り出して、僕はベッドに潜り込んだ。布団をかぶる。暗闇に潜る。強く目を瞑る。何だか今は何も聞きたくないし何も見たくなかった。

 僕はさっき『不気味だ』と言われて腹を立てた。そしてそれと同じ腹の中で、魔法を使うウルフのことを『不気味だ』と思った。なんて矛盾だろう。明らかに正三角形の図形を直角三角形だと証明したような気分だ。理解の外。僕には分からない。分からないことが多すぎる。多すぎて想像力すら働かなかった。呪いのこと。魔法のこと。魔法使いのこと。そして世界のこと。

 頭の裏が痺れてきた。瞼の裏で世界が回る。びりびり。ぐるぐる。難しいことや恐ろしいことを考えるといつもこうなる。何億年後に地球が太陽に飲み込まれることとか。何百年後に海水面が数メートル上昇して地面が何パーセント沈むとか。何十年後に僕が死ぬこととか。

 宇宙の果てが今もまだ拡大し続けていることとか。

 僕はまだ彼の目をまともに見られていない。




 暗闇の向こうからノックの音が聞こえた。


「はい」


 応答したのはウルフだ。パタン。本を閉じる音。カタンッ。椅子を引いた音。僕はのそのそと布団から這い出た。時計は夜の七時。あのまま寝てしまっていたらしい。雨はまだ窓を叩いていた。


「こんばんは」

「よーお、魔法使いの坊ちゃん。やっぱりお前さんだったか」

「サマーヘイズ警部」


 わずかにうわずったウルフの声。起き上がって見ると、二人の男性が部屋に入ってくるところだった。片方は若くて背が高い。いかにもスポーツマンです、って感じの体格をしていた。トレンチコートも真新しくて、雨粒をよくはじいている。視線には露骨な警戒。彼はウルフを睨むように見ながら、後ろ手に扉を閉めた。もう一方はおじさんだ。四十代くらいだろう。白髪の混じった髪はぼさぼさで、なんとなくやるせない感じだ。くたびれたコートの下半分は濡れて色が変わっていた。煙草のにおい。

 寝起きの僕の頭は大いに混乱した。ウルフはさっき“警部”と言ったよな。ということは、彼らは警察――なぜ、どうして、警察がここにいる?


「坊ちゃんはもうやめてください」


 ウルフはおじさんに向かって尖った声を出した。そうするとこちらがサマーヘイズ警部であるらしい。どうやら知り合いみたい。


「何のご用ですか」

「お前さん、コイツの顔に見覚えは?」


 サマーヘイズ警部は写真をぺらりと掲げた。


「……今朝、私のところに怒鳴り込んできた男ですね」


 ウルフがちらりと僕の方を見た。来い、って言われたような気がした。

 彼の横に並んで写真を覗き込む。

 茶髪。そばかすの散った鼻。入学時に出した書類の写真だろうか。すごく硬い表情をしていて、会った時の印象とは少し違う。生え際も当時はまだ元気だったみたい。けれど、


「うん、確かに、今朝のやつだね」

「怒鳴り込んできた、というのは?」


 若い方が尋問口調で聞いてきた。一言も聞き洩らしてなんかやらない、という決意が感じられる声だった。

 ウルフは落ち着き払っていた。


「不運が続いたのを呪われたと勘違いして、私のせいにしようとしてきたんです」

「君、魔法使いなんだってね。本物?」


 何も言うことはない、という感じで、ウルフは黒革の手帳を差し出した。若い刑事はそれを受け取って、疑い深い目で中身をじっと見つめた。


「ふぅん。それで、呪いをかけたのか?」

「まさか。呪いは魔法法によって禁じられています。そうでなくとも、私は魔法で誰かを傷付けるようなことはしません!」


 絶対に! と言ったときの彼の様子は少しおかしかった。怪しい、という意味じゃない。むしろその反対だ。間違いなくそうなんだろう、と頷ける説得力があった。でもその説得力が、いつもの落ち着きをベースにしたものじゃなくて――なんていうか――嘘をつくことを知らない子どもが闇雲に主張しているような感じだったのだ。少なくとも僕は、まだ二ヶ月しか一緒にいないけれど、彼がこんな風に落ち着きをなくすところを初めて見た。


「分かってるよ、坊ちゃん」


 サマーヘイズ警部がへらりと笑いながら口を挟んだ。


「真っ赤なコートの魔法使い、って聞いた時点でお前さんだろうなぁと思ってたんだが、本当にお前さんで助かったぜ。これで呪いだなんだって線は完全に消えたからなぁ」

「警部っ?」信じられない、って声。若い刑事さんだ。「どうしてそんなことが言えるんですか!」

「そりゃあだってこの坊ちゃんは、二年前に父親を――」

「警部!」突き刺すような声。ウルフだ。「デリカシーがないにも程があります。その話は私がいないところでしてください」


 サマーヘイズ警部はおどけた調子で「はいはい」と肩をすくめた。


「んじゃ、本題に入ろう」

「ようやくですか」とウルフの溜め息。「この方がどうしたんですか」

「階段から突き落とされた」


 僕らはそろって息を呑んだ。


「今日の一時ぐらいの話だ。まぁ今のところ死んじゃあいねぇ。危ないには危ないが。意識不明の重体だ」警部は立て続けにそう言った。考える時間を奪うみたいに。「そういうわけだから、知ってること全部キリキリ吐いてくれ。この男――マックス・アンドリューズについて」


 え。困惑の声を上げたのはウルフもだ。思わず顔を見合わせる。

 マックス・アンドリューズ。それは、この男のルームメイトの名前じゃなかったか?


「おいおい、さっそく新展開か?」


 警部がぼさぼさの眉毛を吊り上げた。


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