「辻沢日記 29」(エニシの糸)

 今回のフィールドワーク対象は鬼子神社だ。


鬼子神社の社殿や境内を実測して記録に残す。


日中は鬼子神社に行って実測したものを野帳に記録し、夜に四ツ辻に戻って図面に落とす。


調査の間、紫子さんの家でお世話になるので、お借りする部屋に道具をセットアップした。


といっても高校の時から馴染の文机にノートパソコンと製図用具、鞠野フスキから借りた書籍を置いただけだけど。


 その夜、あたしのことを知っている四ツ辻の人たちが紫子さんの家に訪ねて来てくれた。


紫子さんと同年代の方が5人。


皆さん、あたしのことを娘のようだと言ってくれる方たちだ。


 以前と同じに持ち寄った惣菜やおつまみで宴会となる。


皆さんの屈託のない笑顔や明るい話しぶりを見ていて、高校の時ここに来るのが大好きだったのを思い出す。


食卓の片付けを済ませ、皆さんが明日も作業があるからと家に帰られたころには10時を過ぎていた。


 お風呂を先に頂き紫子さんの寝室に敷いてもらったお布団に入る。


紫子さんの所に来たときはいつも一緒の部屋で寝させてもらっているのだ。


 お風呂を終えて浴衣姿の紫子さんが部屋に入ってきた。


鏡台の前で寝支度をしている背中を懐かしく見る。


ここへ来るたびにいつもこの背中を見て、あたしはほっとしていたのを思い出す。


ユウのことで不安になったり疑問に思ったりするとここに来たけど、それを直接紫子さんに話すことはなかった。


ただ、ここへ来て、ホッとして、一緒に寝て、次の日またユウの元に戻る。


そんな休息の地として、あたしは紫子さんの家を訪れていた。


今回もユウのことで気にかかっていることはあるけど、それを紫子さんに話すつもりはないのだった。


 少し世間話をしてから電気を消した。


紫子さんはすぐに寝息を立て始める。


外では虫の音がしている。


寝室の雨戸は開け放たれていて、窓から入る月の光が縁側を白く染めていた。




 何かの夢を見て夜中に目が覚めた。

 

庭に開いた部屋に月光が差し込んで美しかった。


濡れ縁に目を移すとユウが座っていた。


ユウはいつになく陰のある表情で、あたしがいることを知りながら床板に目を落としたままでいる。


寂しそうでもあり退屈そうでもある。


あたしの右手の薬指からユウの左手の薬指に赤いエニシの糸が伸びているのが見える。


その赤い糸を少し引いてみる。


ユウがこっちを見てくれるかもしれないというかすかな期待を込めて。


でもユウは、自分の薬指があたしの方に少しだけ引っ張られたのを不思議そうに見ているだけだ。


しばらくして、あたしの右手の薬指がほわっと熱くなった。


その温もりはあたしの甲を伝い、腕を伝ってやがて胸の内にやってきた。


そして、温かいものがこみあげてきたかと思うと、涙となって目じりを伝い枕に落ちた。




 翌朝、鬼子神社へ出発。


今日は農作業も休みだということで紫子さんも一緒に行こうと言ってくれた。


けれど神社までの道が悪い上に紫子さんが膝を痛めているのも知っていたので断った。


「それじゃあこれ持って行きなさい」


 と手渡されたのは巾着袋だ。


ずっしりと重かったので中身を見るとおにぎりだった。


お礼を言って四ツ辻を後にする。


 鬼子神社へは、四ツ辻から女の足で1時間半かかると言われている。


軽い登山くらいの気持ちで行かないと思った以上に時間がかかって難儀する。


上下は長袖長ズボンでちゃんとした靴を履き帽子もかぶって出かける。


まだ朝が早いけど向こうで一日実測をして帰って来られるのは陽が暮れるころになるだろう。


 舗装された峠道から鬼子神社に通じる山道に入るとまったく整備されていない。


これは初めて来たときと同じだった。


あの時はまだ幼かったユウとあたしはこの道をまろびながら必死になって歩いたのだった。


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