『夕霧物語』「ひだるさま」

夕霧太夫とあたし、まめぞう、さだきち、りすけの3人の頼りになる男たち。


同行5人の道行きは平穏なものだ。


それはまずは遊行上人様の幟のおかげだった。


街道を行く人はみな、夕霧太夫を見ると最初は気味悪がるものの、上人の名を幟に認めると、合掌して念仏を唱え出す、土車を曳こうと申し出る、その場にうずくまって涙を流す者までいた。


まめぞうたちの威勢も助けになってくれた。


鬼子神社を出立したすぐのときは、阿波の鳴門屋を打ち壊し火を放った輩が追っ手をかけないかと心配したが、まめぞうに恐れをなしたか静かなものだった。


その後も、時折粗暴な連中が夕霧太夫に惹かれ絡んで来たりしたが、まめぞうたちのおかげで荒々しいことにはならなかった。


とはいえ、まめぞうたちは威張ったりはしない。


彼らは何があろうとひたすら土車の3本の紐を持ち、一心に車を曳くだけなのだ。


 そんな一行にとっての唯一の差し障りがあった。


それを「ひだるさま」と言う。


人里離れた長い一本道や九十九折の暗い山道を歩くとき、急に腹がしくしくとなって足が進まなくなることがある。


しまいにそこにへたばって動けなくなり、そのまま放っておけば行き倒れだ。


それを人は「ひだるさまに憑かれた」と忌み嫌った。


先に行き倒れた者などの亡者が悪さをするからで、そういう時は掌に「米」と書いて飲む真似をすると治るとも言われている。


 よくある言い伝えのようだが、あたしたち一行にとってはそれこそが命に関わる障りだったのだ。


というのも、ひだるさまは死に瀕する者に憑りつき体を乗っ取ることがあるからだ。


まさに、今の夕霧太夫は死に瀕する者、ひだるさまの格好の餌食。


そんな夕霧太夫を狙って、ひだるさまは何度も何度も襲いかかってきたのだった。


 ひだるさまが現れる時、多くの場合、兆候はあたしかりすけに起こった。


刺すような痛みが下腹をキュウと襲うと、足が止まり、次には膝を突いてまったく動けなくなる。


すると、あたりに生臭い匂いが漂い出して、闇が一面を支配しだしたかと思うと、森の奥、叢の中、谷の底、土手の向こうからひだるさまが現れる。


そして時に一匹、時に大勢のひだるさまが夕霧太夫に襲いかかって来るのだった。


 その時も尾根が夕陽を遮って陰になる山道だった。


あたしたちは、土車の車輪の音をギシギシと軋ませて勾配を登っていた。


そんな中、初めにりすけが膝を突いた。


額から脂汗をしたたらせ、苦悶の表情をにじませながら、まめぞうに苦痛を伝えようとしている。


まめぞうは、さだきちに指図してりすけのもとに走らせると、背にした新月刀を抜いて身構えた。


こういう時のまめぞうの背中は2倍にも3倍にも大きく見えて頼もしい。


 ガサガサと森の下草が鳴る。何かが近づいて来る気配がする。


そして、辺りに異臭が漂い、小暗い森がさらに闇につつまれると、谷と反対側の叢の中から現れたのが、ひだるさまだった。


その姿は、真っ黒な体に半纏はんてん赤襦袢あかじゅばんを纏い、腹は異様に膨らみ、手足は細く手先には巨大な鎌のような爪が生え、眼は金色で炯炯とこちらを睨めつけ、口から銀色の牙を覗かせている。


今回は半纏と赤襦袢のひだるさまが複数現れたのだった。


それらはあたしたちには目もくれず、夕霧太夫の土車に真っ直ぐ向かって来た。


まず半纏が、まめぞうの横を過っていきなり夕霧太夫に襲いかかろうとしたが、すかさずまめぞうが新月刀を横に薙ぎ払ってその半纏を真二つに切り裂いた。


半身となってその場に崩れ落ちた半纏は、青い炎を上げ道に吸い込まれて消える。


次の赤襦袢はまめぞうを避けて横に動き、さだきちを飛び越えて夕霧太夫に襲いかからんとする。


さだきちはその動きを背中で受けて、振り向きざま大刀を抜いて串刺しにすると、赤襦袢は奇声を上げて炎となり煙とともに消え失せた。


りすけも膝を突きながらもよく応戦し、もみ合った末1匹のひだるさまを谷底に突き落とした。


まめぞうらが襲い来るひだるさまを一匹一匹と迎え撃ち数を減らして行く。


日が落ちて辺りに暗闇が迫るころ、ようやくひだるさまが残り少なになった。


そしてまめぞうが最後の一匹を新月刀で突き上げ皆の気持ちがそこに集まった時それは起こった。


あたしの左足が火鉢を押し当てたように熱くなったのだ。


振り向くと地面から半身を湧き出たせたひだるさまが、巨大な爪であたしの太ももを串刺しにしていた。


まだ襲撃は終わりではなかったのだ。


瞬時にひだるさまの爪が引かれ、あたしの右足は体から離れて丸太のように谷の暗闇の中へ転がって行った。


あたしが見たのはそこまでだ。あとは気を失ったので分からない。


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