『夕霧物語』「土車の上の夕霧太夫」

 浜に打ち上げられ、夕霧太夫のお情けで捨てた命をはかなくも繋いだ後も、磯の匂いがずっと体に纏わりついて取れなかった。


しつこい匂いは体の芯まで沁み込んで、息や涙や汗や小便にまで混じって、いつまでもあたしのことをなぶり続けた。


 あの夜、あたしは荒れ狂う海に身を投げた。

 

人から蔑まれて疎まれて生きる苦しみを背負うのが嫌になって、暗い海に飛び込んだ。


何度も何度も波に煽られて、何度も何度も潮を被り、何度も何度も塩辛い水を呑込んで、それでも沈まずいつまでも浮ききらずに、海の上辺を延々と漂っていた。


あのまま死ねればよかったのに、海の藻屑になれればよかったのに、でも海神わたつみ様はあたしのことを決して受け入れては下さらなかった。


「伊左衛門や。また、あのことを思い出したか?」


 夕霧太夫のお声で我に返る。見ると太夫は心なしかこちらに首を傾がせているようでもある。


でも、今の太夫はしゃべれない。あたしはきっと幻を聴いたのだ。


「いいえ、とんでもございません」


 他の者には聞こえないように小声で応える。それに太夫が頷いたように見えたのもやはり気のせいなのだ。


 土車の上の太夫は耳も聞こえない。目も見えない。物も口にしないし、歩けもしない。


全身焼け焦げ血膿が滲んだ衣を纏い、まるで赤黒い襤褸を巻いた朽木のように土車に端坐している。


あたしはその土車を太夫の後ろになって、もう何日も押し続けている。


 夕霧太夫を乗せるこの土車は、青墓への道行きのため廃材を寄せ集めて作った。


一枚の板に太夫をもたせかける衝立と、丸太を切って四ツ車を履かせる。


前を三角の木材で飾ったのは、あたしだ。


出発の地となった鬼子神社の舟形を模したのだ。


荒波のような道行の困難を乗り越えられるよう祈ってのこと。


それに上人様に頂いた幟を結わえつけ、さらに三本の真っ赤に染めた縄を繋げ、まめぞう、さだきち、りすけの男たちが曳くのだ。


 太夫の旅の装いは、拾った着物で一番いいものを頭から被せ、胴の所に赤い帯を巻いてそれを土車に結わえつけ倒れぬようにし、引きつって握ったままの掌をこじ開けて印のサンゴの簪を握らせてある。


 阿波の鳴門屋が焼き討ちされてからちょうど半年、あたしたちは青墓の杜に向かって出発した。


街道一の名妓、夕霧太夫と禿かむろの伊左衛門、まめぞう、さだきち、りすけの三人の従者。あわせて同行五人。


まめぞうは「おてんとさまの油注ぎ」と言われるほどの大男。


大きいからと言って木偶ではなく、胸板が鎮守の大銀杏のように隆起して引き締まり、そこらの博打うちなら一度に十人相手にできるほど。それで頭が軒の上にあるのだ。


だれがこの大男に逆らえよう。


そして、さだきちは背は小さいが立派な髭を蓄えた侍のような風体。


筋骨はできあがってなかなかに強い。


りすけはまだ表情に幼さの残る若い男だが、動きがすばやく機転が利く。


どれも大食という国から来た奴隷で、太夫が人買いから買ってお座敷に侍らせていた者たち。


阿波の鳴門屋がなくなった今、本当はしばりのない身なのに太夫の土車を曳いてくれている。


『ゆうきりたゆうかみちゆき こらうしくたされ 遊行上人』


 車に結わえつけた幟の文字に、往来の人たちが驚嘆の声を上げる。


「これが、夕霧太夫の成れの果て」


「因果よのう」


「業深い女の末路よ」


「くさい、くさいよう」


 あるものは一文二文と銭を投げ、あるものは一つ二つと石の礫を投げつける。


身じろぎもできず人の所業を受け入れるしかない今の太夫の有様だ。


夕霧太夫の本来の美しさを知ったら、どいつもこいつも目を見張って驚くだろうのに。


あたしは歯を食いしばって土車を押して行く。


きっと青墓の杜のけちんぼ池に連れて行って、あのお美しい夕霧太夫に戻っていただくのだ。


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