第31話 別手組の寅之助

 物語の舞台はパリから日本へと戻る。

 と同時に、時間も慶応三年(1867年)の年明け頃まで一旦さかのぼる。


 篤太夫とくだゆうを含めた昭武あきたけ一行は一月三日に京都を出発した。そして一月五日に兵庫で長鯨ちょうげい丸に乗って横浜へ向かい、そのあと横浜からパリへ向けて出発した。


 実はこの同じ一月五日、昭武一行が出発する少し前にアーガス号というイギリス軍艦が兵庫に入港してきた。

 このアーガス号には江戸のイギリス公使館で働くアーネスト・サトウとアルジャーノン・ミットフォードという二人のイギリス人が乗っていた。


 彼らが江戸から兵庫へやって来たのは、いずれ大坂城で行なわれる予定となっている

「新将軍慶喜と四ヶ国(英仏蘭米)公使との謁見式えっけんしき

 の時に使う大坂の宿舎を下見するためだった。


 翌日、この二人を護衛するために大坂から兵庫へ別手組べつてぐみの騎馬隊が派遣された。

 別手組の人数は十人で、その中に寅之助もいた。


 さらにその翌日、サトウとミットフォードは馬に乗って兵庫を出発し、大坂へ向かった。そして寅之助たち騎馬隊は二人を取り囲むようにして並走した。

 このとき幕府はご丁寧にも約千名の歩兵隊を手配して、この騎馬隊一行が通る街道沿いに一定の間隔で歩哨ほしょうを立てて警備していた。


 これまでの幕府には見られなかった手厚い外国人への気配りである。

 このように外国人への対応をガラリと変えたのは、新将軍になった慶喜が「外国との交際を重視する」という姿勢を内外にアピールするためだった。


(沿道にここまで兵を配置するなんて、まったく大袈裟なことをしたもんだな。この二人は別に公使でもないのに……)

 寅之助はそう思いながら二人のイギリス人と並走して馬を走らせた。


 正午ごろ西宮にしのみやに到着し、“本陣”で昼飯を食べることにした。“本陣”とは大名などが宿場町に泊まる際に利用する立派な宿のことである。

 サトウとミットフォードは暖かい部屋に案内され、特別に用意された椅子とテーブルの食卓につき、日本食の昼食を食べはじめた。

 そして二人が食べている向かいの部屋で、寅之助たち別手組の一同も昼食の席に着いた。むろん、椅子など使うはずもない。

 寅之助は、サトウたちがはしを使って日本食を食べているのを見て

(西洋人のくせに箸を使えるとは器用な奴だ。それに西洋人は肉しか食わないと思っていたけど、米も食うのか)

 と少し驚いた。


 寅之助の隣りで飯を食っていた同僚の鈴木という男が、寅之助に話しかけてきた。

「吉田殿は武蔵国むさしのくにのご出身と聞いておりますが、実は拙者も、少し前に江戸の別手組からこちらへ配属された関東者です。それゆえ、あの二人、特にサトウという男のことはよく存じております。吉田殿はあのサトウのことをご存知ですか?」

「いや、よくは存じません。ただ、外人のくせにサトウとかいう日本人みたいな名前なのでご同輩から少し話を聞きましたところ、相当日本語が達者だとか……」

「確かにあのサトウは日本語が達者です。おそらくイギリス政府が日本へ送り込んできた間者かんじゃでしょう。あいつはまったくとんでもない奴で、『英国策論さくろん』とかいう本を日本中に広めて、ご公儀のことをひどくおとしめているのです」

「何ですか、その『英国策論』とかいうのは?」

「拙者もよくは知らんのですが、ご公儀は日本国の代表ではなくて諸侯の一つに過ぎず、ご公儀よりも朝廷のほうが偉い、などという恐れ多いことを書いているそうです」

「なるほど。それは確かに、我々幕臣にとっては極悪人ですな」


 とは言ったものの寅之助は、本心から極悪人と思っているわけではない。

(ご公儀よりも朝廷のほうが偉い、と言うことのどこがおかしいのか?実際、今の時勢は完全にそうなっているではないか)

 という気持ちもある。

 根岸友山ゆうざんという激烈な尊王攘夷家に師事していた寅之助からすれば、サトウの考え方にあまり違和感は感じない。が、今の寅之助は幕臣である。幕臣となった以上、幕府、特に自分の主君である将軍慶喜を守らねばならない。元々尊王攘夷家だっただけに寅之助は、あえて意識して「サトウは極悪人だ」と思うようにつとめているのである。


 余談ではあるが『幕末百話』という本の中にこの別手組のことが書かれている。ただし見出しは「御用ごよう出役しゅつやく」という、別手組の古い名前が使われている。

 その別手組の一員だった人の話によると別手組は、武士からは「なんだ異人のお供なんかして、武士の面汚しだ」とさげすまれていたのだが、庶民からは「あのおさむらいは異人が暴れ出した時に一発お見舞いするためにああやって付き添っているそうだ。さすがおかみは行き届いたもんだ」と褒められたらしい。ただし実際のところは外国人にそんな強く出られるわけもなく、ほとんど外国人に引きずり回されてばかりだったので「まあ、物はとりようですなあ、ハハハ」と、その人は庶民の受け取め方を笑っている。

 しかし実は外国人の側も、一発お見舞いする云々うんぬんの話は別として、この別手組は「護衛するため」というよりも「監視するため」に我々につきまとっているのだろう、と感じている人間が大半だった。それゆえある意味、庶民の別手組に対する見方は当たっていないこともないのだが、ともかくも、このような組織は監視社会だった江戸時代ならではの代物で、後に完全に姿を消すことになる。




 一行はその後、大坂に入った。

 大坂と兵庫が外国人に開かれるのはこの年の暮れ(慶応三年十二月七日、すなわち西暦1868年1月1日)の予定となっており、江戸と違って大坂の人々は、これまで西洋人をほとんど見たことがなかった。そのためサトウとミットフォードが通る道は、珍しい西洋人を見るために集まった見物人でいっぱいだった。

 寅之助たち別手組の隊員は見物人の中に怪しい者がいないかどうか確認しつつ、二人に付き添って道を進んだ。といっても、大坂は江戸と違って武士が少ないので見物人は、いたって大人しい様子だった。


 そして一行は中寺なかでら町(現在の地下鉄谷町たにまち九丁目の近く)の本覚寺ほんかくじという寺に入った。ここがサトウたちの宿舎となり、寅之助たち別手組はこの寺の詰所に入って二人の警備についた。

 幕府はこの宿舎でも外国人を丁重に扱い、トイレに石鹸やオーデコロンを用意し、食事には西洋料理を出してシャトー・ラローズという高級ワインまで出してもてなした。


 翌日からサトウたちは謁見式の時に公使館員が泊まる宿舎の手配に回り、ついでに大坂の名所を回って見学した。それは大坂城、二つの本願寺、天王寺、住吉大社、堺の町などであったのだが、護衛役の寅之助たち別手組もそれに同行した。またサトウたちはしょっちゅう心斎橋などの店へ買い物に出かけたりしたので、そのつど一緒について回った。もちろん、どこへ行っても西洋人を見ようとする見物人だらけだった。


 買い物が終わって本覚寺へ戻る時に、サトウが近くにいた寅之助に声をかけた。

「お店の人が『まいど、おおきに』と言っているのは、どういう意味ですか?大坂の言葉はよく分からないね」

「えっ?ああ、『いつも、ありがとう』とか『お買い上げ、ありがとう』という意味だが、拙者は関東の人間なので拙者も大坂の言葉はよく分からん。よって、あまり尋ねないでもらいたい」

「ほう、関東の人ですか。名前は何というのですか?」

「吉田寅之助と申す」

「寅之助?ああ、タイガーね」

「いや、大河という名前ではない」


 その翌日、サトウとミットフォードは越中えっちゅう橋の近くにある薩摩藩の蔵屋敷くらやしきを訪問した。もちろん「監視役」である寅之助たち別手組もついて行き、二人が蔵屋敷から出て来るまで表で待っていた。

 そのとき、門の外で待っていた寅之助の前に意外な男が現れた。それで寅之助は思わずその男に声をかけた。

「松木さん!松木さんじゃないですか!」

「うん?おや、ひょっとして君は、吉田寅之助君か?」

「お久しぶりです、松木さん。無事、藩邸へ戻れたんですね。まさかこの大坂でお会いするとは思いませんでした」

「それは私も同じ気持ちだよ、寅之助君。君こそ無事でなによりだった。ちなみに私は今、寺島陶蔵とうぞうと名乗っている。しかし君、その格好はひょっとして……」

「はい。松木さん……、いや寺島さんの助言の通り、結局あのあと一橋家へ仕官することになり、今は幕臣になりました」

「そうか、なるほど。一橋公が将軍になられたからな。さもあろう。ところで、お多恵さんとはどうなったんだい?」

「え?ああ……。彼女は商家へ嫁に行きました」

「そうか……。まあ男女のことだ。何があったかは聞かんでおこう。吉田家の方々や卯三郎さんはお元気かね?」

「だと思いますけど、ながらく関東へ戻ってないので便りでしか知らないのです。伝え聞いた話では卯三郎さんと二郎はパリの万博へ向かったとか……」

「ほう、パリ万博へね。それは大したものだ。しかし、それにしても、君が幕臣になっているとはな……。そうか、幕臣か……」

 そのあと寺島は「じゃあ、急ぎの用事があるから」と言って、すぐにどこかへ出かけて行ってしまった。寺島としては幕臣である寅之助と、あまり気さくな会話をする気にはなれなかったのだ。

 なんせ、今この蔵屋敷の中では、薩摩藩家老の小松帯刀たてわきとサトウたちが「幕府から権力を奪い取るための陰謀」について話し合っているところなのだから。




 数日後、本覚寺のサトウのところに会津藩家老の梶原平馬へいまなど数名の会津藩士が訪問した。

 これはサトウが「イギリスの中立性」を保つために梶原たちを招待したのだった。薩摩藩邸だけを訪問したのでは「イギリスは薩摩の味方をしている」と幕府から疑われてしまうかも知れず、それを避けるためにサトウは佐幕藩である会津藩の人々も招待したのである。


 以前書いた通り、なにしろ会津藩は尊王攘夷の意識が強く、外国人をひどく嫌っていた。

 それで梶原たちは最初なかなかサトウやミットフォードに打ち解けなかった。けれども酒が進むにつれて彼らも心を開くようになり、しまいには卑猥ひわいな春画をサトウたちにプレゼントするほど打ち解けるようになった。

 そのあと梶原はサトウとミットフォードを「大坂一の芸者の店へ案内する」と提案した。サトウの日記や著書を見れば一目瞭然だが、この二人は無類の女好きである。当然誘いに乗った。


 しかし幕府の外国奉行の役人と別手組の隊長がこれに強く反対した。

 例え会津藩のような佐幕藩といえども、諸藩の人間が勝手に外国人を宴会へ連れて行くのは前例がないし、乱暴な行為だ、として反対したのだ。要するに「事なかれ主義」である。

 それでサトウたちはあきらめて宿舎で夕食をとりはじめた。それを見て、役人たちも安心して休むことにした。


 ところがサトウたちはあきらめたフリをしただけだった。

 芸者の店を手配した梶原がサトウのところへ人を寄こし、サトウとミットフォードはこっそりと寺を抜け出して芸者の店へ向かおうとした。


 そのサトウたちの姿を寅之助が見つけた。

 寅之助がこれから寝ようとしていたところ、サトウたちが寺から出て行くのに気づき、すぐに彼らを追いかけて行った。

「おい、どこへ行く!」

 と寅之助がサトウたちに向かって叫んだ。

「Oh!タイガー寅之助か。これから梶原の招待で芸者の店へ行くんだ。一緒に行かないか?」

「いや、だから俺の名前は大河じゃない。それはともかく、勝手に芸者の店へ行ってはいかんと言われただろう?すぐに寺へ戻れ」

「ちょっと芸者と会うぐらい良いじゃないか。役人は頭が固すぎるね。我々が芸者に会ったところで別に誰も困らないだろう?」

 そう言ってサトウは、寅之助の言うことを聞かずに歩き続けた。

「……確かに誰も困りはせんが、見てしまった以上、お前たちを止めないと、あとで俺がおしかりを受ける」

「じゃあ見なかったことにすれば良い」

 サトウは寅之助の説得にまったく耳を貸さなかった。さりとて寅之助としては、首に縄をつけて連れ帰る、ということもできない。仕方がないので寅之助はサトウと一緒に店まで同行した。場所は天神橋の近くだった。店に着くと梶原がサトウたちを中へ案内した。

 サトウは寅之助に「一緒に遊んでいけ」と勧めたが、寅之助は「ここで待ってるからお前たちだけで行け」と言って断った。


 サトウとミットフォードは遠慮なく芸者たちと酒を飲んで楽しんだ。

 が、二時間ほど経ってから幕府の役人と別手組の連中が店に乗り込んできた。そしてサトウたちに寺へ戻るよう懇願こんがんした。彼らを連れて来たのは無論、寅之助である。

 サトウとミットフォードはすでに十分楽しんだので、この日はこれで切り上げて帰ることにした。


 帰り道の途中、サトウは寅之助に感謝の言葉を述べた。

「寅之助。わざと時間を遅らせて、彼らを連れてきたのだろう?おいどまーきに」

「何だ、その『おいど』ってのは?」

「さっき芸者に『まいどおおきに』って言おうとして『おいどまーきに』って間違えたら、すごく笑ってくれたんだ。これは酒の席の冗談として、とても使えると思ったね。今までは『おだてともっこにゃ乗りたくねえ』しか冗談を言えなかったんだけど、これでネタが一つ増えたね」

(何を訳の分からんことを言っているのだ、この外人は?間者じゃなくて、ただのバカなんじゃないのか……?)

 幕府内ではこのサトウのことを危険視する人間が多いが、買いかぶり過ぎなんじゃないのか?と寅之助は思った。




 サトウたちイギリス人が去ったあと、今度は一月末にフランス人が大坂へやって来た。

 フランスの軍艦は兵庫に着いた後、はしけ船に随員を乗せて直接大坂へやって来たので、寅之助たち別手組が兵庫まで出迎えることはなかった。

 このフランスの一行にはロッシュ公使も含まれていたのだが、彼らの大坂訪問の目的はサトウたちイギリス人と違って、もっと大胆なものだった。


 ロッシュはいきなり将軍慶喜に会いに来たのである。

 英仏蘭米の四ヶ国公使が新将軍慶喜と謁見式を行なう、という計画自体は決まっているものの、前年末に孝明天皇が崩御しており、その服喪ふくも期間も考慮して謁見式は三月に行なう予定となっていた。

 そのためパークスなど英蘭米三ヶ国の公使たちは三月まで大坂訪問を手控えていたのだが、以前から幕府と親しい関係にあるロッシュは他の三ヶ国を出し抜くかたちで勝手に大坂へやって来たのだった。


 ただしこの時、慶喜は京都にいた。そのためロッシュだけ大坂に残して、軍艦の艦長であるローズ提督など他の随行員は兵庫へ戻り、そのまま港から去っていった。

 ロッシュは大坂で慶喜の下坂を待ち続け、二月六日、さらに翌七日、大坂城で慶喜と謁見した。その際、ロッシュは慶喜に様々な幕府強化策を助言した。


 さらに二月十五日、フランス軍艦が兵庫を再訪。今度はローズ提督も含めたフランス人一行が大坂城に入って、二月二十日、慶喜に謁見した。

 この間、フランス人もサトウと同じように大坂の町を見学して回ったので、寅之助たち別手組はそのつど、フランス人に同行した。

 ただ、フランス人一行には日本語通訳がおらず(ロッシュの通訳だったカションはパリにいたので)、通訳はもっぱら日本側のフランス語通訳である塩田しおた三郎などが担当し、サトウの時と違って寅之助がフランス人と会話を交わすことはなかった。




 そして三月の中頃になると四ヶ国の代表団が続々と大坂へやって来た。

 三月二十五日にイギリス代表が大坂城で内謁見うちえっけん(少人数での非公式会見)にのぞみ、そのあと各国の内謁見があり、さらに各国の公式謁見(大代表団による儀礼的な謁見式)が三月末まで連日、大坂城内で催された。

 寅之助たち別手組は、各国代表が宿舎から大坂城へ向かう際の警護にあたり、また彼らが大坂市内へ見学に出かける際にも同行し、てんてこ舞いの忙しさだった。

 この時はサトウも再び大坂へ来ていたのだが、寅之助はその日その日で各国の警護にあたっており、サトウと顔を合わせる機会はなかった。


 ちなみに前回少し触れたように、ロッシュなどの英仏蘭の公使が将軍慶喜と公式謁見をしたのは三月二十八日のことで、奇しくもその四日前、すなわち三月二十四日にはパリで慶喜の弟昭武がテュイルリー宮殿でナポレオン三世に謁見していた。


 が、それはさておき、この間、慶喜は大坂城で「新大君たいくん(将軍)」「日本の新しい主権者」として堂々と各国代表と渡り合い、中でも、これまで幕府にとって最も難敵であったイギリス公使パークスの心を見事に射止いとめ、イギリスの政策を薩長寄りから幕府寄りへ引き戻すことに成功した。


 それは、これまでずっと政治的論争が続いてきた「兵庫開港、大坂開市」を

「約束通り、この年の暮れに必ず開く」

 と慶喜がパークスに確約したことが大きかった。

 パークスは、この聡明で力強い新大君の慶喜を信用したのである。


 事実そのあと慶喜は、京都で越前・土佐・宇和島・薩摩の老公を集めた「四侯会議」が開かれた際に、四侯ならびに朝廷を強引に説き伏せて、見事に兵庫開港、大坂開市の勅許を勝ち取った。これは五月のことだった。


 また慶喜は将軍就任後、抜本的な幕政改革に乗り出し、旧態依然だった政治や軍事の制度を改め、それが有効に機能するよう改善させた。そしてその取り組みの効果が少しずつ出始めていた。


 「名君慶喜」が幕府をよみがえらせつつあったのである。

 が、このことがかえって、彼の政敵たちに「革命の決意」を促すことにもなった。


 この頃の慶喜に対する評価を『徳川慶喜公伝』から引用すると次のようになる。

 岩倉具視「今の将軍慶喜の動作を見るに、果断、勇断の意志が強く、軽視すべからざる強敵なり」

 坂本龍馬「将軍家は余程の奮発にて、これまでの将軍とはまったく違い、決して油断ならず」

 木戸孝允「今や関東の政令や兵制は新将軍によって一変していると聞く。彼の能力は決して侮ることができない。もし幕府が力を取り戻し、再び朝廷を取り込んでしまえば、まさに家康の再来を見ることになるだろう」


 そして兵庫開港の勅許が出たあと

「幕府主導で兵庫開港を進められては、大坂での貿易で大きな利益を得ている我が藩は経済的に枯渇する」

 と危惧していた薩摩藩が、なかでも西郷と大久保が、武力倒幕へ向けて本格的に動き出すのである。





 寅之助はその頃、仕事の都合で京都へ来ていた。そして久しぶりに松吉と会った。

 松吉たちが所属していた一橋家の農兵部隊は、このころ幕府軍に編入され、二条城に詰めていた。


 松吉は、例の甘味処のお幸と所帯をもっていた。すでに赤ん坊が一人、生まれていた。

 寅之助は松吉の家を訪問して松吉の家族と会った。

「また思い切ったことをしたものだな、松吉。『お前たち、後先も考えずに!』とか、先方の親御さんから言われなかったか?」

「まあ『出来ちゃったものは仕方がない』と、わりあいあっさり認めてくれました。子供の名前は、去年の暮れに生まれましたので寅太郎とらたろうと付けました」

「確かに去年も寅年だったからな。俺も寅年の生まれだが」

「おそれながら、吉田先生のお名前からも頂いたつもりです。きっと先生のような強い男になるでしょう」

「ふふん。まあ、俺みたいな風来坊にならなければ良いがな」

「先生も早く所帯を持ってください。お幸も不思議がってますよ。なぜ先生ほどの良い男が所帯を持たないのか。まさか女子おなごよりも若衆わかしゅう好みなのかしら、とかいろいろ言ってますよ」

「奥方、ご心配なく。私はそちらの趣味はござらん」

 脇にいたお幸が松吉に「あんた、またバカなことを言って!」と文句を言った。

「まったく先生には本当に感謝しております。こうして上様のお膝元で軍務に就くことができ、そしてお幸と巡り会えたのも、すべては先生のお誘いがあったからこそです」

「このまま上様のご政道が順調に続けば、篤太夫さんですら『完全に死に体だ』と見放していた幕府も、きっと息を吹き返すだろうさ」




 七月下旬、寅之助は、別手組の取締役である塚原寛十郎かんじゅうろうら二十名と共に、大坂から近江おうみ長浜ながはままで騎馬で出向いた。

 日本海の港を視察中に能登へ上陸したイギリス公使館員二名が、加賀、越前の北国ほっこく街道を通って長浜までやって来る予定となっており「彼らを大津および伏見へ入れずに大坂まで連れて来い」という命令を受けて、長浜まで来たのだった。


 この妙な命令は、三ヶ月前にイギリス公使パークスが大坂から敦賀つるがへ向かう際に伏見と大津を通ったため、尊王攘夷の意識が強い朝廷が「京都に近い大津と伏見にイギリス人を入れるとはけしからん!」と幕府に抗議して政治問題となったので、その二の舞を避けるために別手組を長浜へ派遣したのである。


 寅之助たちが長浜に着いてしばらくすると、彦根藩士の護衛をうけた二体の駕籠かごが北国街道を南下してやって来た。

 駕籠の中から出てきたイギリス人は、またもやサトウとミットフォードだった。

(また、こいつらか。まったく人騒がせなイギリス人どもだ……)

 と寅之助は呆れた。


 この日の晩は長浜に泊まった。そして翌日、別手組に守られたサトウたちは草津くさつまで進んだ。

 すると草津で、幕府の外国奉行から派遣された役人も一行に合流した。言うまでもなく、この役人はサトウたちを大津へ入れないようにするために派遣されたのである。

 草津に泊まることになったサトウとミットフォードに、幕府の役人は

「明日は大津へは入らず、石山寺いしやまでらと宇治を見学することをお勧めします」

 と、大津を迂回うかいするよう勧めたのだが、サトウは幕府役人の思惑をお見通しだった。

「いや、そんな遠回りをするより、我々は断然大津を通って大坂へ向かう!」

 とサトウは意固地なまでに主張し、幕府の役人をけちょんけちょんにののしった。結局、役人は謝罪文を書いてまでサトウに懇願し、ようやく大津を回避してもらうことになった。


 翌日、一行は石山寺へ行き(ただし寺の僧侶は拝観を拒絶した)、そのあと山道を通って宇治へ向かった。

 別手組もサトウたちと一緒に山道を登った。その山道の途中、寅之助がサトウに声をかけた。

「お久しゅうござる、サトウ殿」

「おっ、タイガー寅之助じゃないか。お久しぶり」

「だから大河じゃないと言ってるだろう。なぜ拙者が大河なのだ」

「大河じゃなくて、タイガーだよ。英語で虎のことだよ」

「……それはそれとして、この先の伏見で土佐藩士たちがお二人の命を狙っているという噂がある。それゆえ、伏見は避けてもらえないだろうか?」

「お断りだね。どうせ幕府の役人が、我々を伏見へ入れないために作った嘘話だろう。もっとも、もし本当だったとしても我々のピストルで返り討ちにしてみせるよ」

「やれやれ、困ったものだ。なぜ、そのように我々を困らせるようなことばかりするのか?」

「なぜ、と言いたいのはこっちのほうだよ。なぜ幕府は我々が京都へ近づくことを嫌がるのか?朝廷が我々外国人に対して偏見へんけんを持っているからじゃないのか?」

「それは……、確かに朝廷は外国人に対して偏見を持っている。だが、仕方がないではないか。彼らは無知で、外国人のことを何も知らないのだから」

「寅之助はどうだった?やはり以前は攘夷だったのか?」

「ああ、その通り。攘夷だった」

「だけど現に、今こうして私と会話をしているじゃないか。実際に会ったこともない相手を嫌うなんて、バカげたことだと思わないか?」

「……実は、以前からサトウ殿に聞いてみたいと思っていたことがあるのだが……」

「ほほう、どんな事?」

「以前、イギリス艦隊が鹿児島でいくさをした時、鹿児島の町を焼いたと聞いたのだが、サトウ殿はそのことをどう思っておられるのか?」

「……ああ、そのことね……。あれはわざと焼いたのではない。たまたま町に火が及んで、風が強かったから大きな火事になったんだ、というのが我々の公式見解です。実際、本国のイギリス議会でも町を焼いたことを非難する声があったけど、決してわざとではない。だけど、戦争では時々不幸なことが起こる。悪いことをする人間も出て来る。だから、戦争はやらないほうが良い、というのが私の考えです」

「それは、誰だって戦なんてやりたいとは思わないだろうが……」

「私はこうやって山を歩くのが好きなんだ。日本の山は美しい。国や戦争のことなんか考えずに、こうやって楽しく山歩きばかりしていたいよ、私は」

 こうして歩き続けているとようやく山頂に到着し、そこから京都の町を一望することができた。その背後には愛宕山あたごやまがそびえ立っているのも見えた。


 そのあとサトウとミットフォードは山を下りて宇治に入り、それから少しだけ伏見に寄って夜船で大坂へ下っていった。結局、土佐藩士の襲撃は無かった。寅之助たち別手組は、サトウたちに同行して大坂へ戻った。




 そして九月下旬のある日、大坂の寅之助の宿舎に突然、おまさがやって来た。

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