第25話 パリの激闘

 斎藤健次郎が以前パリで「池田使節」と接触したことは第十九話で書いた。ちょうどこの一年前のことである。

 その時も健次郎はロニーと一緒に活動していたが、今回もロニーと一緒にロンドンの薩摩人のところへやって来た。もちろん前回同様、モンブランのために働いているのである。


 六月十八日の夜8時頃のことだった。

「ごめんください。夜分遅く、いきなりお邪魔して申し訳ございません。私はパリに住んでいる日本人で斎藤健次郎と申します。三年前から欧州に来ております。日本の皆様にお会いしたいと思いまして参上いたしました」


 前回の池田使節の時も、いきなり現れた健次郎に幕府使節の三宅たちは驚いたものだった。

 むろん、今回の薩摩人も健次郎の訪問には驚いた。その驚きは長州の山尾たちがやって来た時以上だった。一応山尾たちが来た時は事前に彼らを見かけた者がいて、段取りを踏んだ上での面会だったので心の準備があった。


 しかし今度の健次郎とロニーはいきなりの訪問だった。

 玄関で対応した森金之丞きんのじょう(のちの有礼ありのり)は驚くと同時に、ひどく警戒した。

(まさか、この男は幕府の密偵ではあるまいな?)

 と。なにしろ池田使節と違って今度の薩摩人たちは「密航」留学生なのだ。一応、法的には違法な存在であり、幕府の目を警戒せざるを得ない。ただし森としても「まさか幕府も、わざわざロンドンに来てまで密航を取り締まりはしないだろう」と、たかをくくってはいるのだが。

(とにかく、この日本人が怪しいのもさることながら、隣りにいる白人は一体何なのだ?)

 と森は気になった。

 するとロニーが日本語で話しかけてきた。

「こんばんは。私はロニーと申します。フランス人です。日本のことが好きで、日本語を学んでいます。ぜひ日本人に会いたいと思ってやって来ました」

 白人がいきなり流暢りゅうちょうに日本語をしゃべり出したので森はビックリした。

 そして二人に「しばしお持ちくだされ」と言って、部屋へ戻った。


 部屋に戻ってきた森は皆に説明した。

「今、日本人とフランス人の二人が下に来ている。どうやら幕府の密偵ではないらしい。フランス人のほうはロニーとかいう名前の男で……」

 これを聞いて松木が驚いた表情で言った。

「フランス人のロニーだと?まさか……。その男は日本語をしゃべらなかったか?」

「しゃべりました」

「それは私の友人のロニー君だ。さっそくここへ案内してくれたまえ」


 森が二人を室内へ案内するとロニーが松木を見かけて驚喜し、松木に飛びついてきてハグをした。

 その様子に、薩摩人たちはあっけに取られた。

 しかし健次郎も予想外の出来事に驚いた。まさか両者の間で、このような友人同士がいるとは思っていなかったからだ。


 以前少しだけ触れたことがあるが、三年前に竹内使節がヨーロッパへ来た際、ロニーは使節の通訳をつとめた。そのとき使節の一人だった松木はロニーと親しく交際して、お互い手紙のやり取りなどもした。その手紙の中には松木が書いた詩なども含まれており、松木はロニーから「サツマ詩人」と呼ばれていた。それほどの仲である。


 そのような訳で、とにかく薩摩人たちは二人の話を聞くことにした。

 薩摩側で対応したのは留学生たちの監督役である松木と町田久成ひさなりである。

「斎藤さんはどういった経緯でパリに来られたのですか?また本日はどのようなご用件でこちらへ参られたのですか?」

 と松木が尋ねた。

「私は熊谷の生まれで、以前は薬問屋で働いておりました。そのあと横浜で働くようになったのですが、そこでモンブランというフランス人と知り合いになり、彼に付いてフランスへ渡ったのです。単刀直入に申しますと、私の主人であるモンブランが薩摩の方々に興味があり、ぜひお会いしたいということで私を派遣したのです。また、もしこれからフランスへ来る予定がおありでしたら、私を通訳として使っていただきたいと思いまして参上しました」

「そのモンブランという方はどういう人物ですか?」

「偉い人です。フランス人ではありますがベルギーに居城をもっています。彼は日本が大好きなのです。何か日本のために役に立ちたいと思っているのです」

「居城を持っているということは大名のような方ですか?」

「そう思っていただいて結構だと思います。コントやバロンといった官位も持っております」

「うーむ……。しかしここにいる我々は留学の事にしか関わっておりません。そういった用件でしたら別の者がホテルに泊まっているので、そちらへ行ってみてください」

 そう言って松木は、ホテルにいる五代と新納にいろ宛ての紹介状を書いて健次郎に渡した。


 話を聞いて松木は直感的に「おそらくフランス商人の売り込みだな」と思った。けれども松木は留学生の世話とイギリス外務省とのやり取りが任務なので、とりあえず話を五代へ回すことにしたのである。商売のことであれば五代の専門なのだから。


 その後、健次郎は五代のところへ会いに行った。しかし五代は既にイギリス国内を回る視察旅行の予定が決まっていたので、すぐにモンブランには会えないが前向きに考えておく、と返事をした。

 それで健次郎はしばらくロンドンにとどまり、薩摩留学生たちとの交流を続けることにした。





 それから数週間後の七月十五日、柴田剛中たけなかが率いる幕府外務官僚の一行が南仏マルセイユの駅を出発し、フランス南東の都市リヨンへ向かった。

 柴田は当時「仏英行」という滞欧日記を書いていた。この日の記録では、汽車の車窓から見た風景を次のように書いている。

「風景絶景の地あり。右傍にモンフラン(白山という訳なり)ならびに鉄橋等を望む」

 このモンフランはもちろん、リヨンから百数十キロほど東に位置している、西ヨーロッパ最高峰のモンブランのことである。

 “モンブラン”とは「白い山」を意味し、健次郎の主人であるモンブラン伯爵も日本では「白山伯」と呼ばれていた。

 このとき柴田は、この山と同じ名前の「白山伯」が、このあと柴田の前に立ちはだかることになろうとは夢にも思わなかった。


 この日、そのモンブランから遣わされた健次郎がリヨンの駅で柴田一行を待ち受けていた。


 今回、柴田一行がフランスへやって来たのは、横須賀製鉄所を建設するための技師や機材を手配するのが目的だった。この製鉄所の建設は開明派の幕臣、小栗忠順ただまさ上野介こうずけのすけ)が尽力したことで有名だが、親仏派の小栗は新しいフランス公使ロッシュの協力を得て、この事業を推進していた。

 今回の使節の代表である柴田は、三年前の竹内使節にも同行し、その時は正使、副使に次ぐ組頭くみがしらの立場として各国と交渉にあたっていたベテラン外交官である。ちなみに今回の一行の中には、三年前の竹内使節に柴田と共に参加していた幕臣の福地源一郎げんいちろうも参加していた。福地はのちにロニーからフランス語を学ぶことになる。


 柴田一行はこのあとパリに入ってフランスの政府高官と折衝を行なうのだが、この柴田一行のパリ訪問をどこからか聞きつけてきたモンブランが、あいさつ代わりとして健次郎を派遣してきたのである。


 再度、柴田の日記から引くと、この日の様子は次の通りだった(以下、筆者の意訳)。

「リヨンの駅で汽車を降りて馬車に乗り移ろうとすると、部下たちを接待している職員の中に日本人そっくりの男がいた。後で部下に聞くと、江戸近郊の医師某のせがれ、斎藤健次郎と申す者にて、三年前にフランスへ亡命し、パリに住んでいるとのことだった」

 こうやって健次郎は柴田使節に同行してモンブランとの渡りをつけることに成功した。

 そして三日後、柴田たちが泊まるパリのルーブルホテルにモンブラン本人がやって来て、柴田と面談することになった。

 モンブランが柴田に会いに来た理由は、前年の池田使節の時と同じである。幕府に取り入って、なんとか自分のビジネスにつなげたいと思っていたのだ。


 要するに、モンブランは幕府と薩摩を両天秤にかけていたのである。


 といっても、モンブランとしては「日本の正式な政府は幕府である」と思っていたので、まだ未知数の存在である薩摩よりも、とりあえずは幕府を優先したのである。

 このあとモンブランは何度も柴田に会いに来て、ビジネスの話、特にベルギーと通商条約を締結することを盛んに勧めた。





 一方ロンドンでは、五代がイギリス国内の視察から戻って来て、このあとモンブランと会うことになった。

 しかし留学生たちは五代がモンブランと会うことに否定的だった。彼らは度々会っている健次郎のことをあまりこころよく思っていなかったのだ。

 森が五代に意見を申し述べた。

「あの健次郎という男は、どことなく信用できません。その主人であるモンブランという男も、どうせ怪しい男に決まってます。お会いにならないほうがよろしいのではないですか?」

 それに五代が答えた。

「まあ、実際に会ってみないとどんな男であるかは分かるまい。最初から決めつけるのは良くないぞ」

「ですが、あの健次郎という男は、武士ではなくて商人あきんどでしょう?どうも話をしていると金の話ばかりで、金にいやしい性格なのがよく分かります。あんな男は金ですぐ、敵にも味方にも転ぶでしょう。信用できません」

「多分その男は相当、西洋人に感化されたのだろう。西洋では金で判断を左右するのが当たり前だと思っている。しかしそれは一面、真理でもあるだろう。慈善事業で我々を助けようなんて奴がいるはずがない。むしろそんな事を言う奴のほうが、裏で何かもっと悪い事を企んでいるかも知れず、信用できん。健次郎にせよモンブランにせよ、金目当て、というのは分かりやすくて良いではないか。商人は金で動く。当たり前のことだ」

 五代はこのように留学生たちを説得してモンブランと会うことになった。



 七月下旬、五代と新納、それに通訳の堀はドーバー海峡を渡ってベルギーへ行き、モンブランと会った。そして彼の居城であるインゲルムンスター城に入った。健次郎も通訳としてここに来ていた。


 ここで五代とモンブランは、あっという間に意気投合してしまった。

 二人はがっちりと手を組んだのである。


 二人とも金儲けが好きで、新奇で面白そうなことをやったり大言壮語を吐くのが好きで、そして何より女が大好きだった。

 いかにも似た者同士である。結局、森たち留学生が心配していた通りの結果になってしまったのだった。


 しかもビジネスの面でも二人には、お互いに好都合な面があった。

 五代としては、すでにイギリスでの商談は終わっていた。鉄砲や大砲、それに産業機械などはイギリスで購入済みだった。しかしイギリス以外の国、例えばフランスやベルギーについての視察や商談はこれからだった。このモンブランの申し出は、まさに「渡りに船」という話だった。


 かたやモンブランとしても、薩摩が大藩であることは健次郎から聞いて知っていたが、ヨーロッパに多数の留学生を送ったり、ヨーロッパで武器や機械を買い付けるほどの経済力があるとは思っていなかった。


(ひょっとすると、幕府から薩摩へ乗り換えるという手もアリなのでは?)

 モンブランの心にも多少、そんな気持ちが起き始めていた。


 そこでモンブランはベルギーで連日、五代たちを接待した。

 モンブランが所有している領内で鳥撃ちの狩猟をしたり、ナポレオンが敗れたワーテルローの戦場(ベルギーの首都ブリュッセルの南方)へ行ってみたり、工場や博物館の見学に連れて行ったりした。


 ただしその一方でモンブランは、インゲルムンスターとパリを汽車で往復して、パリで柴田と会うことも欠かさなかった。まことに商売熱心といったところであろう。




 ところが八月三日。とうとう柴田とモンブランが決裂した。

 この日の柴田の日記では次のように書かれている(以下、筆者の意訳)。

「今日もモンブランが来たが、自分勝手な主張もここに極まれりといったところで、ついには大いに怒って罵声を放ってきた。愚かで噓つきであるという彼の正体が露わになった。おそらく、いずれ自分の居城へ帰るだろう。これでわずらわしい相手が一人いなくなって誠に幸いである。シーボルトも早くこのように片付いてもらいたいものだ」


 結局、柴田はモンブランを相手にしなかったのである。

 それはそうだろう。柴田とすれば正式にフランス政府を相手にして仕事を進めているのだ。何か用があればフランス政府の高官に依頼をする。モンブランのような山師にいちいち仕事を頼むいわれはない。


 おそらくモンブランの方としても、そういった柴田の思惑を読んでいたのだろう。

(幕府はフランス政府に仕事を依頼することはあっても、自分やベルギー政府に何かを依頼するという可能性は、もはや無いな)

 とはいえ、ここでモンブランの手元に「薩摩の五代」という手駒が無かったら、いくらモンブランといえどもここまで強気には出られなかったであろう。けれども前年、池田使節に助言して上手くいかず、今度は柴田に助言しても受け入れられず、もはやモンブランも幕府に対してキレたのだった。


(幕府がここまで私のことを邪険にするのなら、こっちにも考えがある。この際、薩摩を大いに応援して、幕府にけしかけてやろうじゃないか!)

 世の中には「味方にすると頼りないが、敵に回すと恐ろしい」という厄介な男が時々いるもので、このモンブランがまさに、そういったたぐいの男だった。


 翌四日、モンブランは自分の居城で五代と、いわゆる「薩摩・ベルギー商社」設立の内約書を作成した。そして二十五日には正式な契約が結ばれることになった。

 ちなみに、上記の柴田の日記中「シーボルトも云々」と書いてあるのは、前回の池田使節の時と同様に、今回も「大シーボルト」が日仏問題に口を差し挟もうとして連日、モンブランと並んで柴田に会いに来たので、それをわずらわしく思っていたのである。



 さて、薩摩・ベルギー商社について一応簡単に説明しておくと、薩摩藩とモンブランおよびベルギーのビジネス団体が協力して貿易商社を設立し、薩摩領内の鉱物資源開発、また武器製造や産業技術の開発を促進する、といったような計画である。どういった鉱物、武器、物産を開発するかは具体的に契約書の中に明記されており(例えば砂糖精製、紡績、ドックの整備、電信など)、出資金や利益の分配についても取り決められている。

 このように外国人と合弁会社を設立する計画というのは、史上初の試みであったろう。坂本龍馬の「亀山社中」の発想より、五代は遥かに先を行っていた。


 ただし先回りして結果を述べてしまうと、この契約はのちに薩摩側がキャンセルして計画は頓挫とんざすることになる。

 五代自身は帰国後もこの計画を実現させようと奔走するのだが、あまりにも計画が壮大すぎることと時勢が合わなかったことによって、結局失敗に終わるのである。


 しかしながら、この取り組み自体は無駄ではなかったであろう。少なくとも五代にとっては。

 のちに五代は、この商社でやろうとした事業を、別の組織で実現に移すことになる。この時の商社計画はその「雛形ひながた」になったのだ。それを考えれば五代にとっては決して無駄ではなかっただろう。

 何と言っても五代は、ベンチャー社長のハシリのような人間で「とにかく需要がありそうなら何でもやってみる。その中で何か一つ当たれば、しめたものだ」みたいな感覚で次々とベンチャービジネスに挑戦する男なのである。そんな彼にとっては無駄なビジネスなど一つも無かったはずだ。


 ともかくも、これで薩摩藩とモンブラン、というか五代とモンブランは、完全な同盟相手となったのである。





 一方、松木はイギリス外務省との外交交渉に取りかかっていた。

 と言っても、もちろん薩摩藩は日本の一地方政府に過ぎない。そのような存在の薩摩藩を、イギリス政府が相手にするはずがない。普通であれば。

 そこで松木は、オリファントという人物宛ての紹介状をグラバーからもらってきていた。オリファントはグラバーと同じくスコットランド出身で、二人は友人同士だった。


 さて、このオリファントという人物。

 筆者の前作『伊藤とサトウ』をお読みいただいた方には説明不要と思われるが、アーネスト・サトウを語る上では欠かせない人物である。

 安政五年(1858年)に来日して日本見聞録を書き、その本がサトウを日本へと導くことになったのだが、その本の筆致からも分かるようにオリファントは大の親日家である。

 にもかかわらず、文久元年(1861年)、イギリス公使館の東禅寺とうぜんじで攘夷派浪士に襲われて重傷を負い、イギリスへ追い返されるという皮肉な運命に遭遇した。

 ところがこのオリファントの凄いところは、それでも日本を嫌いにならなかったということである。


 松木が訪英したこの当時、オリファントはイギリスの国会議員になっていた。また外務省出身のオリファントは外務次官のレイヤード、さらには外相のジョン・ラッセル(この松木の訪英中にパーマストン首相が死去して、その後任の首相になる)とも親しい関係にあったので彼らと会えるよう松木に紹介状を書いてくれた。松木は彼らと会って薩摩藩の意向を伝えたのだが、そのあとジョン・ラッセルの後任の外相、クラレンドンにも会うことができた。すべてオリファントのおかげである。


 松木はイギリス外務省に

「幕府による貿易独占の廃止および朝廷を頂点とした諸侯連合政権の確立」

 という薩摩藩の考えを訴えて、最終的にはそれなりの賛同を得ることに成功した。


 この頃のイギリス政府の対日方針は「内政不干渉」が原則だったので、この松木の外交交渉がそれほど大きくイギリスの対日方針に影響を与えたわけではないが(なにしろ当時の駐日イギリス公使はハリー・パークスで、この男の強烈なキャラクターによって日英外交は左右されることが多かった)それでもイギリスが幕府を見放す要因の一つにはなったと思われ、少なくとも幕府にとっては、影響は小さくなかったであろう。



 それにしてもこの五代と松木は、少し前まで熊谷北郊の下奈良しもなら村に潜伏してもがき苦しんでいたというのに、数年も経ずして、まさかヨーロッパでこのように活躍する日が来ようとは、と、感慨深く思ったことだろう。



 余談だが、オリファントは松木をイギリス外務省に紹介するだけではなくて、自由主義経済の本質、さらにヨーロッパ外交の駆け引きについても様々な助言を与えた。

「英仏などの列強が自由貿易を拡大しようとしているのは、日本から富を奪い、戦争をせずに国力を奪おうとしているのだ」


 何だか現代の「新自由主義経済、グローバリズム」といった考え方にも関係がありそうな、大いに含蓄がんちくのある助言だが、それはさておき、オリファントは単なる外交官ではなく、ジャーナリストや小説家としての仕事もしていたので、こういったヒューマニスト的な側面を強く持ち合わせていた。

 ヒューマニズムを掲げる人間は社会主義と相性が良い。

 オリファントはこの頃、トーマス・レイク・ハリスという社会改良主義を掲げる宗教家に傾倒しており、彼がアメリカで行なっている「新生兄弟社」という宗教団体に参加しようとしていた。この新生兄弟社は「文明から離れて、神のために自然の中で労働をする」というスピリチュアルな宗教団体である。


「金は汚いもの、商人あきんどいやしい存在」

 と考えがちな日本の武士、特にこの時ロンドンに来ていた森金之丞ら薩摩武士の数人は、この後、留学資金の不足問題もあってオリファントに勧められるまま、このアメリカの新生兄弟社へと移っていくことになる。

 しかし結局のところほぼ全員、アメリカに移住して何年も経たない内にこの宗教団体とは決別して日本へ帰国することになるのだが、薩摩スチューデントの最年少、長沢かなえだけは最後まで残り続け、アメリカに骨を埋めることになるのである。


 とにかく一時的であれ、こういった宗教団体に引き込まれるだけあって森などの薩摩留学生たちは思い込みが激しく、アメリカへ移る少し前ぐらいの頃、本国の薩摩藩へ忠告書を送ることになる。

 ヨーロッパ人の善意を信じてはならない、特にモンブランを信用してはならない、と。

「歴史上、ヨーロッパ人が世界に害を及ぼした例は数知れず、損得抜きで他人を助けようとしたヨーロッパ人など一人もいない。彼らは一見公平そうに見えても、一皮むけば欲望の塊である」





 その欲望の塊であるモンブランの話に戻る。

 十月六日、彼はとうとう柴田に「宣戦布告」を叩きつけた。

 再び柴田の日記より引用する(筆者の意訳)。

「ベルギー人のモンブランという男が久しぶりにやって来た。彼は、最近では薩摩藩のために働くことが多くなり、再来年のパリ万博においては薩摩藩の仕事を一手に引き受けることになった、自分はこれからも大いに薩摩藩を応援するつもりだ、と傲然ごうぜんと言った。まったく憤懣ふんまんにたえず、奴の顔にツバをはきかけてやろうかと思ったが、あとあと日本に迷惑をかけるかもしれないと考えて思いとどまり、話の途中で席を立って退出した」


 八月三日に柴田と手切れになって以降、モンブランはますます薩摩藩との関係を深めており、ついにこの日の宣戦布告となったのである。

 さて、柴田の日記の中で述べられている「再来年のパリ万博」については、詳しくは後章で述べることになるので、ここでは簡単に述べておくにとどめる。


 この二年後の慶応三年(1867年)にパリで万博が開かれる。

 そこでフランス政府は柴田に日本の参加、すなわち幕府の参加を求めたところ、柴田は横須賀製鉄所関連の仕事が忙しかったせいか即答しなかった。万博そのものの価値を低く見ていた、という訳では多分ないだろう。なぜなら柴田は三年前、竹内使節で訪欧した際にロンドン万博の様子を自分の目で見ているのだから。

 このすきにモンブランが動いた。

 モンブランは五代と新納に「薩摩藩独自の万博参加」を持ちかけた。好都合なことに、薩摩藩にはその支配下に「琉球王国」がある。それで「薩摩・琉球政府」として万博に参加することをフランス政府に申し込んだのである(ちなみに、のちに佐賀藩も独自で参加することになる)。

 この薩摩藩の動きによって、のちに幕府はあわててフランス政府に参加を表明することになるのである。


 こうしてモンブランは、パリ万博における薩摩藩の仕事を一手に引き受けることになったのだった。




 モンブランから宣戦布告を突きつけられた柴田は、モンブラン側の内情を探ろうとして健次郎のところへ幕臣の肥田ひだ浜五郎という人物を寄こしてきた。

 肥田は柴田とは別途、ヨーロッパへ送られてきた人物で、こちらで蒸気船の製造に関する仕事をしていた。健次郎とは少し前に知り合っており、リヨンで健次郎が柴田を出迎えた時も、肥田が一緒に付き添っていた。


 健次郎は割合ペラペラと、モンブランと薩摩藩の関係について肥田にしゃべってしまった。

 健次郎自身が五代や新納のフランス語の通訳をして一日二円の日当をもらっているとか、モンブランと五代、新納がどのようにして会っていたということも、割合ペラペラとしゃべってしまった。むろん、肥田から情報提供料も受け取った。


 健次郎は別に、これをそれほど悪いことだとは思わなかった。

 確かに薩摩藩に対して多少後ろめたい思いはあるものの、この程度の情報を漏らしたところで、別にそれほど害があるとは思わなかった。

 第一、健次郎はモンブランと同じく、金に対する執着心が強い。そして武士でもないので忠誠心というものがまるで無い。

「世の中を上手く渡り歩いて利益を得ることの、何がいけないのか?」

 という感覚である。ある意味、主人のモンブランと似てないこともない。

 

 しかも五代自身が密航留学のことを幕府に隠していなかった。

 というか、タイムズ紙の記事を見てモンブランが健次郎とロニーを薩摩人のところへ派遣して来たように、ヨーロッパにいれば新聞などによってどのみち情報は筒抜けなのである。

 五代はパリで柴田一行とニアミスを起こしたことがある。その際、五代は知り合いの幕臣に対して強く主張した。

「幕府が諸藩に対して海外渡航を禁じていること自体が異常なのだ。我々がこうして自腹を切って密航してきたのも日本のためを思ってやっている事だ。日本のため、ということは、すなわち幕府のため、ということにもなるではないか。何が悪いというのだ」

 五代ですら密航を隠そうとしないのだ。それを見ていた健次郎が、薩摩の密航をいちいち隠そうとしなかったのもある意味、仕方がなかっただろう。


 だがしかし、薩摩藩は日本で一番「情報管理」に神経を使っていた藩なのである。

 江戸時代、幕府が薩摩領内へ忍びを送ると、ほぼ帰ってくることはなく「薩摩飛脚ひきゃく」と呼ばれていた。それほど薩摩藩は自国の情報流出には敏感だったのだ。

 なにしろ薩摩藩は琉球を利用した清国との密貿易で富を得ていたのだから、そこまで神経質になるのも当然と言えば当然だった。それで薩摩藩は藩全体がそういう体質となり、厳しい情報統制を敷くようになったのだった。


 健次郎は、まさか薩摩藩がそのような恐ろしい藩であるとは、知る由もなかった。




 この頃、薩摩留学生のうち田中静洲せいしゅうと中村宗見そうけんの二人はパリのモンブランのところへ来てフランス語を学んでいた。もちろん健次郎とも一緒に暮らしていた。

 しかし田中も中村も、やはり森同様、健次郎のことが好きになれなかった。理由は森と同じで、薩摩武士として、健次郎の商人的感覚が受け入れられなかったのだ。


 ある日、田中が健次郎に聞いてみた。

「君の立場は実にあいまいだが、モンブラン殿の小姓こしょう(秘書)として仕えている、ということになるのかね?」

「日本では町民だった私が大名に仕えるなどあり得ない話でしょうが、確かにここではモンブランさんという大名に仕えている立場です。けれど、今後は薩摩様にお仕えしたいと思っております」

「だが、このままモンブラン殿に仕え続けるのが、人としての筋というものではないのか?」

「ヨーロッパではそういった考え方はあまりありません。ですから私は今後、薩摩様のお力になりたいと思っているのです」

(なんという忠義心の無い奴じゃ……。五代さんは本当に、こんな男を我が藩で雇うつもりなのか……)


 田中は再び健次郎に質問した。

「ところでフランス語の本を読んでいると時々“révolution de février”という言葉を見かけるのだが、これは一体どういう意味だろうか?」

「えーと、二月の……?うーん、あまり重要な言葉じゃないんじゃないですか?多分二月のお祭りか何かのことでしょう」

「いや、前後の文脈からすると、そんな軽い意味の言葉ではないと思うが……」

「多分、日本には無い風習のことだと思います。あまり気にする必要はないでしょう」

(いや、そんな事はあるまい!これは絶対に重要な言葉のはずだ!こいつのフランス語の知識は本当に大丈夫か?)


 ここで出ている“révolution de février”とは1848年にフランスで起こった「二月革命」のことである。国王のルイ・フィリップを倒し、王制を廃して共和制を実現したものの、結果的には皇帝ナポレオン三世の誕生を生む結果となった革命のことである。

 健次郎は自分の生活と商売に関すること以外、関心がない。だから、こういった複雑なフランスの政治や歴史について、田中に説明できるはずもなかった。




 この年の年末、五代と新納、それに通訳の堀は、留学生を残して先に日本へ帰国することになった。

 そしてその帰国の際、健次郎も同行することになった。

 モンブランの代理として日本でパリ万博の準備をすることと、薩摩でフランス語の教授をするためである。


 健次郎としてはおよそ三年ぶりの帰国ということになる。

 健次郎は違法出国者だが、日本への入国手続きについては気にする必要はない。なにしろ五代たちも違法に再入国をするのだから、一緒に入国すれば済む話である。もちろん入国地は薩摩である。

 健次郎にはすでに親兄弟もおらず、日本に対する郷愁きょうしゅうの念はそれほど無かったが、やはり日本に帰れるというのは嬉しいものだった。もっとも、パリ万博に携わるため、すぐまたフランスへ戻ってくることになるのだが。


 航海の途中、船の上で五代が健次郎に話しかけてきた。

「そういえば、君は熊谷の出身だと言っていたな。俺もついこの前まで熊谷にいたんだよ。吉田さんという人に世話になって、しばらく熊谷に潜伏していたんだ」

「吉田さん!ですか。ひょっとして名主さんの?」

「ああ。やはり知っていたか。吉田家はあの辺りでは有名な名主だからな」

「何という吉田さんですか?」

下奈良しもなら村の吉田市右衛門いちうえもんという人だ」

「ああ……、なるほど、市右衛門さんですか……」

(それじゃあ、五代さんが茂兵衛もへえさんのところの寅之助を知っているはずがないな……。それにしても寅之助は今頃、どうしているだろうか……?)


 健次郎はインド洋を見つめながら、寅之助のことを思い出していた。

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