第11話 浪士組、分裂

 文久三年(1863年)二月八日、寅之助たち浪士組は江戸を出発した。

 京都までの道のりは中山道を通る。

 京都へ行く場合、普通なら東海道を使うのが一般的な道のりである。実際、浪士組出発の五日後に江戸を出発する将軍家茂の軍勢は東海道を利用する。ただしこれは、将軍の威光を世間に見せつけるため、という理由もあるので人が多い東海道を使うのである。

 浪士組が中山道を使うのは、東海道は多くの人が利用するため不測の事態、特に神奈川宿に近い横浜の外国人との不測の事態を避けるため、というのが主な理由だった。


 江戸を出て三日目。この日、浪士組一同は熊谷宿で昼食をとった。

 熊谷は寅之助の地元だ。寅之助は何人もの昔なじみに声をかけられた。「頑張ってこい」と激励する者もあれば、「命を粗末にするなよ」と心配する者もいた。なんにしても寅之助としては、まだ武士になった訳ではないけれど、故郷に錦を飾ったような気分だった。

 この日の日程は、次の深谷宿も過ぎて、さらにその次の本庄宿で浪士組一同は宿をとることになった。が、ここで思わぬ事件が起こった。

 先番宿割として宿の手配をしていた近藤勇と池田徳太郎が、うっかり芹沢鴨の宿を手配し忘れていたのだ。いくらうっかりとはいえ「よりによってこの男の分を忘れるか!」と言いたくなるような手落ちである。

 これを受けて芹沢は三番組の部下を呼び集めて「野宿をするからかがり火をたけ」と命令し、本庄宿の街路で天をがさんばかりの大かがり火をたかせた。

 当然のごとく、宿場役人が飛んできて「この大かがり火は何のつもりか!そうそうに取り消せ!」と芹沢に命令した。すると芹沢は例の大鉄扇をやおら振りあげてその宿場役人をぶん殴った。宿場役人は倒れて失神した。

 そこで近藤が平謝りに謝って、追加で手配した宿へ芹沢を案内した。その宿へ行ってみると宿の入り口に「三番組 組頭宿所」と書かれていた札があった。芹沢は筆をとってこさせ、“三番組”の部分にバツをして、“一番組”と書き直してから宿に入った。


 出発前の小石川大信寮でもそうだったように、なにしろこの浪士組には多くの無頼漢が集まっており、この本庄宿のことだけに限らず道中さまざまな騒動が起きた。それでもとにかく、江戸を出発してから十六日目の二月二十三日、浪士組一同は京都に到着した。




 この二月二十三日は西暦で言うと4月10日にあたる。浪士組が到着した頃の京都は、まさに桜が満開の季節であった。

 寅之助は初めて京都の町並みを目にして、興奮していた。

 これが夢にまで見たいにしえの都、京の町か。見るものすべてが珍しい。そしてこの桜がいっそう京の春を美しく彩っている。実にいい季節に京へ来たものだ。

 などと浮かれた気分で寅之助が歩いていると、浪士組一行は三条大橋のあたりまで来た。そしてそこで寅之助は異様な人だかりを見かけた。その人々が注視している先には、三体の木像の首が並べてあった。

 足利将軍の尊氏たかうじ義詮よしあきら義満よしみつの首である。立て札には「逆賊」と書かれている。

 徳川将軍家に対する嫌がらせとして、尊王攘夷派が、等持院とうじいんにある足利将軍の木像から首を切り取って、ここにさらしたのだった。もちろん、近々上洛予定の将軍家茂に対する挑発行為である。


 前回も書いた通り、このころ攘夷の気運は最高潮に達しようとしていた。

 浪士組が着く少し前、佐幕派と見られていた池内いけうち大学だいがく賀川かがわはじめなどが暗殺されていた。先ほどの事件でさらされたのは木像の首だったが、こちらはもっとひどい。生首をさらすとか、死体から切り取った腕を脅迫として送りつけたりした。そういった暴虐ぼうぎゃく行為が、このころ京都で頻発ひんぱつしていた。


 寅之助が桜景色の京都を見て浮かれていたのとは裏腹に、この時期、京都の人々にとっては「いい季節」でも何でもなかったのだった。



 これに加えて、横浜ではさらに大変なことが起きていた。

 イギリスが幕府に対して、前年の生麦事件と第二次東禅寺とうぜんじ事件(東禅寺のイギリス公使館で護衛のイギリス兵二名が日本人に殺害された事件)の責任として賠償金11万ポンド、すなわち約35万両の支払いを請求した。そしてその支払いを強制するためにイギリスはこの時、横浜に軍艦十数隻を集結させたのである。幕府の回答次第では、横浜はおろか江戸も火の海にすると、イギリスはそこまで強硬な態度に出ていた。まさに横浜はこの時「開戦前夜」の様相を呈していたのであった。


 その横浜の緊迫した状況は既に京都の幕閣にも伝わってきていた。

 けれども京都の幕閣は、ただうろたえるばかりだった。

 イギリスに賠償金を支払うのは不可能である。金額の多寡たかの問題ではない。この攘夷の気運が激しいなか、夷狄いてき(外国)に謝罪して賠償金を支払うなど、朝廷や攘夷派が絶対に許さない。

 さりとて、イギリスを相手に戦う戦力もない。


 幕府はこの時、内政、外交ともに、まったくお手上げの状態だったのである。




 浪士組の一団はこの日、壬生みぶ村に入った。以後、彼らは“壬生浪人”または“壬生浪みぶろ”などと呼ばれるようになる。

 浪士組本部は新徳寺しんとくじに置かれ、そこに清河たちの一派が入った。鵜殿うどの、山岡たち幕府役人は前川荘司邸に、芹沢、近藤たちは八木源之丞邸に入った。そして寅之助のいる根岸隊は四条大宮の更雀寺きょうじゃくじに入ったのだが、ここは壬生から離れていて不便だったので翌日、中村小藤太邸へ移った。


 この日の晩、清河は組頭など主だった者を新徳寺の本堂へ集合させた。ただし鵜殿などの幕府役人は、清河の親友である山岡以外、呼ばなかった。

 清河は一同の前で演説をはじめた。

「諸君に申し上げておきたいことがござる。いずれ数日後には将軍家がご上洛され、朝廷に奉勅ほうちょく攘夷じょういをお約束されるであろう。我々浪士組が上洛したのは、将軍家による奉勅攘夷を補佐するためである。されど、残念ながら、かしこくも天子様は我々の志をご存知あられない。よって、我々の志がご叡聞えいぶんに達するよう、私は明日、朝廷に建白書を奉呈ほうていつかまつる所存である。諸君。この点、ご異存はござるまいな」

 異存のある者はいなかった。

「建白書はすでに私が用意してある。諸君にはその建白書に署名をしていただきたい」

 これもやはり、誰一人異議を唱える者はいなかった。そして組頭が組に持ち帰って全隊士に署名させた。志士、すなわち尽忠報国の士で、天皇に奉呈する建白書に署名を断る者などいるはずがない。


「この清河の演説に対して、幕府を重んじる近藤や芹沢が反対して、それがきっかけとなって新選組が誕生することになるのでしょう?」

 と思っている人がいるかも知れないが、さにあらず。

 この段階ではまだ、近藤や芹沢も清河に反対していない。

 この時代、ほとんどすべての志士が「攘夷が正しい」と信じていた。そして朝廷と幕府のどちらに重きを置くか、その程度の差こそあれ、すべての志士が朝廷に尊崇の念を抱いていた。確かに清河の建白書には多少幕府を軽んじる響きがないとは言えない。とはいえ、それも幕府に対して「必ず攘夷を実行せよ」という叱咤しった激励げきれいの意味を含んでのものであり、「攘夷が正しい」と信じている近藤や芹沢が、この建白書に反対するわけがなかったのである。




 翌日、清河は浪士組の中から六人の精鋭を選び出し、朝廷へ建白書を提出する役目を彼らに任せた。

 通常、朝廷へ建白書を提出するにあたっては、幕府の正式な手続きを経て提出しなければならない。いきなりこのようにじかに朝廷へ奉呈してもお受け取りにはなるまい、と考えるのが普通である。

 そこで清河はこの六人に

「もし朝廷がお受け取りにならなければ、皆その場で切腹せよ!」

 と言って送り出した。

 一方、六人の側も「この役目にはそれだけの意義がある」と思っていたので、清河に言われた通り、失敗すれば切腹する覚悟だった。


 六人はこの日、当時朝廷で攘夷などの政策を審議していた学習院におもむいて、建白書を奉呈した。

 やはり朝廷は当初受け取りを渋った。が、結局この六人の熱意が通じて、朝廷は清河の建白書を受理した。

 のみならず、この清河の態度に朝廷は大いに感心して、浪士組の隊士に御所の拝観を許可した。そしてそれからすぐに、各組ごとに時間を割りふって、すべての隊士が順番に御所を拝観することになった。


 寅之助も、友山や五一たちと一緒に、威儀を正した装いで御所を拝観した。武士でもない寅之助たちにとっては、こんなことは一生に一度あるかないかの幸運であり、特に友山は目に涙を浮かべつつ御所の中を拝観して回った。


 そしてこの建白書提出の五日後、正式な形で勅諚ちょくじょうが浪士組に下賜かしされた。清河の建白書に対して孝明天皇から直接勅語ちょくごたまわったのである。しかもそこには御製ぎょせい(天皇がんだ和歌)も添えられていた。

 清河の感激たるや、まさに天にも昇る気持ちであった。


 さらに三月三日、この桃の節句のめでたい日に関白鷹司たかつかさ輔煕すけひろから浪士組に対して通達が下された。それは大体、次のような内容のものであった。

「今般、横浜にイギリスの軍艦が来航し、賠償金の支払いを迫っているがそのような事は受け入れ難い。応接の次第によっては戦端を開くことになると思われ、浪士組はすみやかに江戸へ戻り粉骨砕身、防衛に励むように」

 まさに清河の望み通りの内容であった。


 横浜で夷狄いてきと戦い、攘夷のさきがけとなる。これこそが清河の念願だった。

 夷狄と戦う気概がない幕府では日本は立ち行かない。自分が先頭に立って夷狄と戦い、あとに続くものが幕府を倒し、朝廷の世に変える。

 これが清河の考えた「回天」である。


 ともかくも、天皇から勅諚ちょくじょうが下り、関白から江戸帰還の命が下った時点で、もはや誰がなんと言おうと、浪士組は実質的に幕府の支配を離れて「朝廷直属の先兵」となったも同然だった。




 そしてこの日の夜、新徳寺の本堂にすべての浪士が集合し、激論が戦わされた。


 まず清河が「関白鷹司輔煕様から江戸帰還の命が下された」ということを全員に報告した。そして「我ら浪士組はその命を奉じて江戸へ帰り、横浜で攘夷を実行することになった」と宣言した。

 ここにいる志士たちは全員「攘夷が正しい」と信じており、またその実行を望んでもいる。寅之助としても、その考えは同じである。

 それゆえ皆が「清河の言う通りだ」と思った。


 ところがここで芹沢が反対した。

「我々は京へ花見に来たわけじゃない。京についた途端に、また江戸へ引き返すなど俺はごめんだ」

 そこで清河が芹沢に問いかけた。

「朝廷のご命令に反対されるおつもりか?」

 これに芹沢が反論した。

「お主は横浜で攘夷を実行すると言うが、夷狄の船は横浜から大坂へやって来るかもしれん。要するに攘夷はこの地でもできるということだ。だから俺は京に残る」


 続いて近藤も清河に反対した。

「私は将軍家のご命令とあらば江戸へ帰るが、まだ将軍家のご上洛もないうちから江戸へ帰るわけには参らぬ。よって、我々一門も京に残ることにする」


 芹沢、近藤の反対をうけて、本堂では激論がくり広げられた。

「朝廷の江戸帰還命令に反対するような奴は朝敵だから、切腹させてしまえ!」

「いや、確かに京や大坂を夷狄から守るのも大切なことだ。江戸湾には台場を作って防備を固めてあるが、大坂湾にはそれがない」

「といっても、現にイギリスが焼き払うと言ってきているのは江戸だ。まずは江戸を守るべきだろう」

「しかし京の守りも大切だ。特に御所はなんとしてでも死守せねばならん」

「それもそうだ。横浜で夷狄を撃退した後は、我々も京に戻って御所を守るべきだ」

 こういった議論が戦わされた。


 寅之助は、この議論の様子を脇から眺めながら

(やれやれ。とにかくあの乱暴者の芹沢が浪士組から離れるのなら、そりゃあ結構なことだ……。これであの憎たらしいつらを見ないで済む……」

 などと考えていた。


 が、甘かった。

 ここで寅之助にとって、思いもよらぬ事態が発生した。

「ワシも京に残る!」

 と言って、根岸友山も京都残留を宣言したのである。

 そして寅之助と清水五一を呼び寄せて告げた。

「五一、寅之助。お前たちもワシと一緒に京に残れ。他の我が隊の者は、清河と一緒に江戸へ帰す」

 驚いた寅之助は友山に問いかけた。

「ええっ!どうしたのですか?芹沢さんや近藤さんに触発されたのですか?」

「いや、そうではない。ワシにはワシの考えがあってのことだ。とにかくワシらも京に残って御所をお守りするのだ」

 これで結局、寅之助も京都残留組に参加することになったのである。

 ようやく芹沢と別れられる、と思って喜んでいた寅之助としては、呆然とするしかなかった。



 そして、この本堂での議論は最終的な落ち着き所として、京都残留組が

「清河、お前たちは横浜へ行って攘夷をやれ。我々はこの地で攘夷をやり、御所を守る」

 と告げ、一方、清河たちは

「分かった。我々は横浜で攘夷をおこない、そのあと京に戻って来る。その時は一緒に御所を守ろう」

 と応えて、お互いそれぞれの地で攘夷に励む、ということで円満に別れることになった。




 が、しかし、それは表向きのことであった。

 この数日後、幕府から芹沢と近藤に対して「清河暗殺指令」が下るのである。


 ただしその話へ移る前に、この翌日、すなわち三月四日に将軍家茂の一行が入京した。

 三代将軍家光いえみつ以来230年ぶりの将軍上洛となったわけだが、将軍家の威光を朝廷に見せつけた家光の頃と違い、今回は朝廷から無理やり呼びつけられ、しかも奉勅攘夷の約束までさせられるという、まことに不本意極まりない形での上洛だった。


 さて、このあと芹沢や近藤たちが会津藩のお抱えとなったのは周知のことであろう。新選組といえば会津藩、というのは誰でも知っていることである。

 彼らを会津藩に取り次いだのは浪士組頭取として彼らを引き連れてきた鵜殿うどの鳩翁きゅうおうであり、さらにその配下で取締出役についていた幕臣、佐々木只三郎たださぶろうだった。佐々木の兄が会津藩士の手代木てしろぎ直右衛門すぐえもんだったのでそのツテを頼って鵜殿が、この当時京都守護職の任についていた会津藩主・松平容保かたもりの配下に、京都残留組を加えさせたのだった。


 そして容保はさっそく芹沢と近藤に「清河暗殺指令」を下した。

 といっても、その指令は、さらにその上にいた、老中の板倉勝静かつきよから下されたものだった。


「京都で上様を警護するために集めた浪士組を、上様のご上洛そうそうに江戸へ帰すとは何たることか!幕府を愚弄ぐろうするにも程がある!」

 このように幕府が立腹したのは当然である。

 浪士組頭取の鵜殿としては、入京後の清河の朝廷工作が素早すぎて、あれよあれよという内にまんまと清河にしてやられてしまった。

 いったん朝廷から浪士組に対し「横浜防衛」の命令が下ってしまえば、現在の朝幕の力関係からいって、これを拒むことはできない。幕府としても浪士組の江戸帰還を認めるしかなかった。


「こうなったら清河を消すしかない」

 幕府が、というよりも老中の板倉がこのように考えたのは、幕府の面子が潰されたことに対する復讐、ということだけが理由なのではない。実はもっと大きな理由があった。


 板倉にとって一番まずいのは「清河による横浜での攘夷実行」なのである。


 板倉には元よりイギリスに抵抗する気など無い。賠償金11万ポンドも支払うつもりでいる。ただ、表立って賠償金を支払うと体面上、というか朝廷や世間から激しく反発されるので、支払うことができない。それゆえ今は、何とかそれらの目をごまかして支払う方法を模索中である。

「とにかく生麦賠償金を支払う前に、清河に横浜で攘夷を実行されては万事休すだ。その前に、何とか清河を消さねばならない」

 これが板倉の考えだった。


 芹沢や近藤は、そんなことはまったく知らない。

 容保から指令を受けたので清河を殺す。ただそれだけである。

 そもそも芹沢にはそんな細かな事情を考えるほどの思考力はない。しかも人を殺すことにさして抵抗も感じない。いや、むしろ身分も低いくせにこれまで浪士組の監督者として自分に命令していた清河を殺すのは痛快だ、とさえ思っている。


 かたや近藤が考えていたことは、何より

「武士として働くために、自分が頭となって動かせる組織が欲しい」

 ということだった。

 そして試衛館しえいかんの仲間である、土方、沖田、山南、永倉、原田、藤堂たちがいれば、いつかはそれが叶うはずだと思っていた。

 その目的のためなら何でもやる。一時は清河や芹沢に頭を下げていても、いつか必ずやる。邪魔するものは容赦しない。そして近藤も芹沢同様、人を殺すことにさして抵抗を感じない男である。

 清河の目的が「横浜での攘夷実行」で、その攘夷の思想は自分と同じであるとしても、そんなことは関係ない。「いずれ必ず自分の組織を作る」という目的のために、松平容保公の命令を忠実にこなす。近藤にとっては、ただそれだけのことである。




 その近藤の野望を、清河は見抜いていた。

「近藤の試衛館一派は異常なまでに結束していて危険だ。奴らはいつか、浪士組を割って自分たちの党を作るに違いない」

 清河としては、新徳寺本堂での激論の際、近藤たちが反旗をひるがえすことを最初から予想していた。


 そこで清河はあらかじめ、根岸友山と相談していたのである。

「近藤の試衛館一派は、きっと我々の江戸帰還に従わないでしょう。その時は根岸先生、あなたが京に残って彼らを監視してください。あわよくば、彼らを長州などの尊攘派のほうへ引き込んでください」

 この清河の提案を友山は受けいれた。

 友山は清河と同じく倒幕意識が強い。それは(第一話で書いたように)友山が若い頃に幕府からひどい仕打ちを受けたことにも起因している。友山が長州の尊王攘夷派と提携しているのも、幕府に対する不信感が原因である。そして友山と清河は千葉道場の同門である。友山は喜んで清河に協力することにした。

 このようなわけで、根岸友山、吉田寅之助、清水五一、さらに他の根岸隊の若干名が芹沢、近藤たちと一緒に会津藩の配下に加えられたのだった。




 およそ二百名の浪士組と清河の京都出発は、浪士組の頭取役に高橋精一せいいち(山岡鉄太郎の義兄。後の泥舟でいしゅう。この役目によって伊勢守いせのかみとなる)を迎えるなどの諸事情もあって三月十三日ということになった。

 それまでの間、芹沢と近藤は執拗に清河の命を狙った。

 ある日、清河が山岡と二人で土佐藩士と会うために方広寺ほうこうじへ向かった。そこで芹沢は山南、藤堂、新見など六名を率いて四条通り堀川に、近藤は土方、沖田、永倉など五名を率いて仏光寺ぶっこうじ通り堀川で清河たちを待ち伏せた。

 しかしその待ち伏せ情報を同じ会津藩配下の友山も入手した。そして友山は密かに寅之助を走らせて、その情報を清河と山岡に伝えた。そのおかげで二人は無事、待ち伏せ場所を避けることができた。

 そういった待ち伏せはこの時だけに限らず何度かあったのだが、そのつど、友山がその待ち伏せ情報を清河たちへ知らせて、彼らを無事、回避させた。待ち伏せ情報を知らせに走ったのはいつも寅之助だった。

 寅之助としても、清河と山岡は同じ千葉道場の先輩なので、この二人を助けるために必死だった(ただし芹沢と近藤は、幕臣である山岡の命までは狙っていなかったのだが)。


 結局、芹沢と近藤の清河暗殺計画は失敗に終わり、清河は無事、三月十三日に浪士組一同と江戸へ向かった。

 とはいえもちろん、板倉が清河暗殺をあきらめるはずもなく、上京時に取締出役として浪士組に同行してきた佐々木只三郎をそのまま浪士組の江戸帰還に同行させ、その佐々木に道中および江戸で清河を暗殺するよう命じたのであった。

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