喋らない住人

三木詩絵

1日目

時計の針は12時を回っている。男は弁当とアルコールが入ったをコンビニ袋を手に深夜に帰宅した。こんな遅い時間に帰宅するのは今日に限ったことではない。いつものことだ。

へたった座布団に座り込み、買ってきた弁当を食べる。

アルコールの缶を開ける。

コンビニ袋が空になり、お腹は空いていないのに、まだ何か満たされない。立ち上がって冷蔵庫を開けると、酒のつまみの干からびたものが入っていた。他にあるものと言えば、わずかな調味料ばかり。

干からびた食べかけの肴の始末もせずに、そのまま冷蔵庫を閉める。そのまま、しばらく冷蔵庫の前でつっ立ったままボーッとする。

何か考え事をしているのではない。

気力がなくてもう何もするのも考えられない。

食事は済んだ。あとはもう眠りたい。眠らなきゃいけないのに眠れない。男はアルコールの缶を飲み干してた。冷蔵庫をもう一度開ける。昨日残しておいたつもりだった酒は、残っていなかった。いつの間に飲んでしまったのだろう。

手に持った缶を煽って中身が空だった事を思い出す。

これで何度目だろう。飲む動作だけが、癖になっている。


古びた座布団に座り込む。ふと、自分はもう若くないと思う。若い頃と同じ量しか食べていないのに鏡を見ると腹が少しばかり出てきた。中ぶらりんな年齢だ。青年ではないがまだ中年には差し掛かっていない、と自分では思っている。俺は本気を出せばまだまだやれるはずだ、と。毎日の生活は降り積もって歳だけとっていく。そうは言っても、この生活の先にゴールは見えてこない。こんな日々を積み重ねたところでなんの自慢にもならないのだが、1日をやり過ごすだけでいっぱいいっぱい。望んでこうなったつもりはないのだが、今の生活の他に何ができると言うのか。昨日も、その前もこんなことを考えていた気がする。でも、もう一口飲む頃にはそんなこともきっと忘れてしまう。これを毎日を繰り返してもうどれくらいになるのだろうか。

住んでいる二階建てのこのアパートは賃貸だ。はっきり言えば、誰が見たってオンボロだ。かまやしない、寝に帰るだけの空間なのだから。ここにはとりあえず職場が近くて家賃が安いと言う理由で住み込んだ。実家から出て初めて一人暮らしだった。最初の頃はこんな生活でもけっこう楽しかった。どんなあばら家だろうが俺は一国一城の主人なんだと。もちろん一生ここに住むつもりはない。近いうちにもっと良いところを借りようと思っている。あるいは、いつかお金が貯まって持ち家を構える前のいっときの住処だ。出ていく予定は今のところ決まってはいないが、このアパートが終の住処でないことだけは確かだ。引っ越すきっかけは、そうだな。いつか生活に大きな変化ができたら。例えば家に呼びたい彼女ができたら。あるいは給料が今よりもっとずっと上がったら、その時はきっと引っ越す。そう思いながらもう長いこと住み続けてしまった。いや、きっかけがなんかいらないかもしれない。ここはもう出たほうがいいだろう。いい加減潮時だろう。こんなアパートじゃ恋人を呼べないじゃないか。何せこのアパートはオンボロすぎるのだから。鍵だってセキュリティーがしっかりしたものとは言い難いし、隣の部屋だって前の住人が出ていったきりもう一年も空き部屋のままだ。

「部屋を替えよう」たまにそんなことを考える。考えるといっても、それはほんの数分。いや、数秒に満たないくらいの浮かんでは消えるアイディアだ。引っ越して環境を変えようとする思いはすぐに他の思考にとって代わる。次の休みこそは不動産屋に行こうと思う。なのに、気づけば勤務日の朝になっていて、空になったアルコールの缶がゴミ箱に溜まっている。今の生活は自分自身に向ける以外の何かに絡みとられていると心のどこかで思っている。でも、例えばノルマの達成とか、上司の叱責時間をいかにやり過ごすかとか、あるいは不意に訪れるクレームに時間を取られてといった具合に毎日は過ぎる。そうしてわずかに残った自由な時間は素面でいることの方が少ない。


その日も男はいつものように弁当片手に夜に帰宅した。ふらつきながら、無表情に玄関で靴を脱ぐ。その時ふと、部屋の奥に何やら気配を感じて動きを止めた。男は息を潜めて部屋の中を見回す。部屋は静かだ。灯りはつけていなかったが、窓越しに入り込む月明かりは家具のエッジを白いラインで浮き上がらせている。半分畳まれただけの布団、折り畳みの机の上には読みかけの雑誌。

朝出て行ったままの風景。

(気のせいかな?)。

そう思いかけたが目は暗闇に慣れてきた。よく見ると机の横の床に親指大ほどの小さな毛の塊が見えた。

(ネズミだ!)

男は近くにあった雑誌を丸めて素早くその小動物を叩き潰した。いや、実際には叩いていない。そうしようと頭の中で思っただけだ。代わりに、手の指でそっとその塊を撫でてやった。いや、触ってもない。触ろうかと思っただけだ。けれど得体の知れないものに素手で触れるのは気が引ける。小動物とおぼしき毛の塊は動かずじっとそこにいた。男は部屋の電気をつけて塊に近づいて見つめる。気のせいか毛の塊は光に少し反応したように見えた。しっぽはない。目も見つけられないし、逃げもしない。

(生きているのかな?本当にネズミだろうか?)

男はいつものように、取り敢えずアルコールの缶を開けた。持ち帰りの書類に目を通す。気づけば塊をそのまま放置して忘れてしまい、そのまま飲んだくれの世界へと落ちてゆく。疲れがどっと体の芯から登ってくるのを感じた。もう深夜だ。明日のためにシャワーを浴びると、あとはもうただ眠りたかった。

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