第2話

『あつい』 木下流里


 厚い、厚い、熱い、

 おなじ『あつい』でも、どんな『あつい』なのかで使う漢字が違う。

 これってすっごく面倒だと思う。

 ワタシの先生に対する想いはどんな『あつい』だろうか。

 多分、厚いし、暑いし、熱い。

 どの漢字も当てはまるし、どの漢字でも表しきれない。

 これってちょっと名言っぽいかもしれない!


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 水泳の時間を喜ぶのは小学生までだと思う。

 中学生ともなれば、水泳の授業がある日は憂うつな気分になるものだ(特に女子は)

 まず、水着に着替えるのが嫌だ。男子が変な目で見てくることもある。

 単に水遊びをするだけなら良いけれど、授業ではひたすら真面目に泳がされる。それも辛い。

 それからジリジリと太陽に照らされて日焼けをするのが嫌だ。

 プールの後は髪の毛がバサバサのボサボサになってしまう。

 プールの後の授業は気を失うくらい眠たくて辛い。

 ともかく、水泳が嫌な理由はいっぱいあるのだ。

 そんな水泳の授業を喜ぶのは、水泳部で泳ぎが得意な子か、自分は人魚の生まれ変わりだと思い込んでいる子くらいだろう。

 それくらいみんなから嫌われている水泳の授業だけれど、ワタシは楽しみでしょうがなかった。

 ワタシは水泳部じゃないし人魚の生まれ変わりでもない。

 なぜ、ワタシが水泳を心待ちにしているのかと言えば、志藤先生の水着姿が見られるからだ。

 もちろん、同時にワタシの水着姿も見られてしまうから、それはちょっと恥ずかしい気がするけれど、そこはグッと我慢する。

 なんていうんだったっけ……虎穴に入らずんば虎児を得ず……とかなんとか言うややつだと思う。

 志藤先生の水着姿を見られるのならば、ワタシの水着姿を見られるくらいのことはたいしたことない。

 おっぱいはちょっと小さいけれど、まだ発育過程だからこれからどうなるかなんてわからないし、十四歳としてはこれくらいの方がかわいいと思う。

 そんなわけで、今のワタシの魅力を知ってもらうためにも、志藤先生とこの水泳の授業中にもっとお近づきになりたい。さて、そのためにはどうすればいいだろうか。

 例えば、漫画とかにありそうなシチュエーションで、泳いでいるときに足がつって溺れかけたところを志藤先生に助けられる、なんていうのがある。そして、気を失っているフリをしていると、マウストゥマウスという人工呼吸によってファーストキスを! なんてことは考えない。

 保健の授業だって真面目に受けているワタシは、人工呼吸のときには感染防止用のマスクを使うことを知っている。ビニール越しのファーストキスなんて全然ロマンチックじゃない。

 それにそんな事故が起きて一番困るのは志藤先生だ。愛する人を困らせるようなことはできない。

 アレやコレやと色々考えた結果、私はクラスメートが若干引くくらい全力で準備体操をすることにした。

 面倒くさがって適当な動きのクラスメートの中で全力の体操は目立つし、志藤先生の好感度もアップするはずだ。

 そんなワタシの目論見通り、志藤先生はワタシに気がついて「がんばってるね」とうれしそうな笑顔を浮かべて声を掛けてくれた。

 はい! ワンスマイル頂きました!

 志藤先生は、普段はポニーテールにしている長い髪をスイムキャップの中にキュッと収めている。そのために二割増しで凜々しいのだけれど、そこからの笑顔というのがまたいい!

 体は筋肉質の細身だけど、水着になると思っていたより胸が大きいのがわかる。だからくびれた腰が強調されて、ワタシとは違うしなやかな大人の女性の体だなと感じるけれど、『エロい』よりも『美しい』という形容詞が似合うと思う。

 そうして視線を下ろしていったとき、志藤先生の左足の膝の辺りに傷跡を見つけた。すると志藤先生はワタシの視線に気付いたのか「どうかした?」と声を掛けてくれた。

「え? あ、あの……それ、痛い?」

 ワタシは志藤先生の膝を指さして言う。ドキドキしすぎて頭の悪い子みたいな聞き方になってしまった。

 ワタシが指さした先をチラリと見た志藤先生はニッコリと笑った。

「昔の傷跡だから今は全然痛くないよ」

「そうなんだ。良かった」

 なんと、期せずしてツースマイル目ゲット!

 そうして先生は授業を進めるためにワタシの側から歩き去った。授業中に先生と交わせる言葉なんてたかが知れている。

 他の教科だったらわからないところを教えて欲しいとか理由を付けて、授業の後にでも話しかけるチャンスはあると思う。だけど体育ではそれもなかなか難しい。

 ネタが無いというのもあるけれど、授業の間の短い休み時間で着替えをしなければ行けないから、体育の前後は忙しいのだ。

 だからこそ、ワタシは授業中に先生と近づくチャンスを狙っている。

 目立つためには、平均値ではダメだ。すごくできるか、すごくできないか。もしくは、反抗的な態度で気を引くか……。

 水泳ならば、ワタシの泳力は中の下といったレベルだと思う。体育全般で考えれば中の中といった辺りだ。もう、絶対に一番目立たない位置に付けている。

 だからと言って簡単にトップクラスの運動能力を身に付けることはできない。できないフリをするのは簡単そうだけど、それで先生に失望されたくはないという乙女心もある。

 反抗的な態度で目立つ方法なんて絶対にやりたくない。だってそれで嫌われたら最悪だ。

 こうして考えると打つ手が何も無い……となってしまいそうだが、ワタシは名案を思い付いた。

 それがさっきの準備体操だ。

 みんなが嫌がってダラダラやるようなことを、めちゃくちゃ張り切ってやれば先生の目に留まる。やる気と愛を先生に伝えられてかつ好感度もアップする天才的なヒラメキなのだ。

 若干クラスメートには引かれるけれど、それはワタシの恋心の前では些細なことだ。

 そうして目立つチャンスを狙っていたけれど、準備体操以降は無難に水泳の時間は終了してしまった。

 この一時間で得られたスマイルポイントは二ポイントだけだったけれど、志藤先生の水着姿をじっくり見られるというボーナスポイントが付いたから良かったことにしよう。

 それに二日後にはまた体育の時間がやってくる。次はもっと大量のスマイルポイントをゲットするのだ。

 と、意気込んで臨んだ二日後の体育だったけれど、水泳の授業は中止になってしまった。

 どうやら気温が高すぎるらしい。確かにプールサイドは熱したフライパンのような状態になるし、肌だって痛いくらいに焼けてしまう。だから、中止の判断は仕方ないと思う。

 クラスメートの女子たちは中止の連絡を受けて大喜びしていたけれど、ワタシはがっかりだ。

 志藤先生の水着姿を見られないのだから。

 この調子だと、これから先の体育でも水泳は中止になりそうだ。するとすぐに夏休みに入ってしまう。もしかしたら、この間の体育が志藤先生の水着姿の見納めになってしまうのかもしれない。

 だったらもっとしっかりと目に焼き付けておけばよかった。

 そんな後悔に肩を落としながら、ワタシは体操服に着替えた。

 今日の体育は体育館でゆるいバスケットボールをすることになった。

 直射日光は当たらないが、ドアを全開にしていても体育館は蒸し暑い。だったらプールで水に浸かっている方が涼しいような気がした。

 今日の先生は、短パンにTシャツ。Tシャツの袖は肩までまくり上げている。髪の毛はいつもの通りポニーテールにしていた。

 志藤先生は今日もカッコよくてかわいくてきれいだ。だけどTシャツ姿の志藤先生は一年中見られる。やはり、夏しか見られない水着姿のレア志藤先生を見られなかったのが悔やまれる。どうやら今年はレアどころか超レアになりそうだ。

 そうして志藤先生を横目に見ながら、先日の水着姿を思い出そうとしていたら、突然「流里っ!」と叫ぶ声が聞こえ、声の方を向いたときには目の前にバスケットボールが迫っていた。考えるより早く手が出たので顔面直撃はなんとか免れることができたい。

 ゆるいバスケだったけれど、プレーに集中せずに志藤先生の水着姿を思い出していたワタシが悪い。

「ごめーん!」

 私はチームメートに謝りながら、コートの外に飛び出したボールを追った。途中、チラリと志藤先生の様子を伺うと、心配そうな顔でワタシを見ている。

 なんだかすごく恥ずかしいような情けないような気持ちになった。

 こういう目立ち方をしたかったわけじゃない。ゆるいバスケだからこそ、ワタシは張り切ってがんばっているところを見せなくてはいけなかったのに……。

 ボールに追いつき手を伸ばそうとしたときに右手の人差し指が痛いことに今更ながら気付いた。どうやら突き指をしたみたいだ。

 痛みに気付いた途端にどんどん痛みが激しく主張してくる。だけど志藤先生が見ているから、ワタシは平気なフリをして左手でボールを拾ってコートの中に戻した。

 志藤先生がワタシを気に掛けてくれるのはうれしいけれど、それは今じゃない。かっこ悪いところなんて見られたくないのだ。

 体育が終わったら保健室に直行しよう、そう思いながら笑顔でコートに戻ろうとしたとき、志藤先生がツカツカとワタシに歩み寄ってきた。

 なんだか色んな意味でドキドキするからこのタイミングで近付いてくるのはやめてほしい。

「木下さん」

 志藤先生の声が少し固いように感じた。

「あ、はい」

 ワタシは何事も無かったような顔で先生を見る。

「怪我をしたんじゃないの?」

「え? ん? なんのことですか?」

 ワタシは渾身の演技で対応する。その間も右手の指がズキンズキンと痛み、なんだか肘の辺りまで痛いような気がしてきた。

「さっきも少しぼーっとしてたみたいだし……。熱中症じゃない?」

「いえ、全然そんなんじゃないです」

 元気よく答えたのだけど、先生はさらに心配そうな顔をする。あまりに真っ直ぐにワタシを見つめるものだから、つい目をそらしてしまった。

 だって、さっきぼーっとしていたのは、熱中症ではなく目の前にいるあなたの水着姿を妄想していたからです、なんて言えるはずがない。なんとなくやましい気持ちで志藤先生の顔を見ることができない。

「んーーー」

 でも志藤先生は納得できないようで唸りながらワタシを見つめ続けていた。

「わ、ワタシ、ゲームに戻りますね」

「その前に、ちょっと手を見せて」

 逃げようとしたワタシに志藤先生が食らいついた。ワタシは仕方なく言われたとおり左手を出す。先生はすかさずワタシの手を握る。そして「反対の手も」と言った。

 逃げられない状態だし、右手は見せたくないなんて不自然過ぎる。ワタシは少しだけ考えたけれど、観念して右手も差し出した。

 志藤先生の手がワタシの右手に触れる。瞬間、脳に響くような衝撃が走った。堪えていたけどきっと顔に出てしまったと思う。

 先生の顔が険しくなっていった。そんな表情を見て、ついキリッとした顔もかっこいいなんて思って見とれてしまう。

 考えて見たら、志藤先生と両手をつないで見つめ合っているチャンスタイムだった。だけど右手の痛みがひどすぎて、チャンスタイムを楽しむ心の余裕がない。

 志藤先生はため息をつく。

「ほら、やっぱり突き指してるじゃない」

「そんなに痛くないから大丈夫です」

「痛くないって顔じゃないよ?」

 志藤先生はワタシの両手を確保したままチラリと体育館の壁にある時計を見上げた。

 そして、ワタシの右手だけを解放して笛を吹くと大きな声でクラス全員に号令を掛ける。

「少し早いけど、今日の授業はこれで終わりにします。片づけをはじめてください。先生は木下さんを保健室に連れて行くから。体育係の人、あとはお願いね」

 体育係の入江さんが返事をするのを見届けて、志藤先生がワタシの手を引いた。

 先生と手をつないで歩くなんてラッキーイベントが降って湧いてワタシはちょっぴりパニック状態だった。

 こういうのはなんて言うんだっけ? 怪我の……なんとか。

 体育館かから保健室までのわずかな距離だけど、手をつないでデート気分出歩けるなんて最高だ。

 先ほどまでワタシの中に渦巻いていた罪悪感なんて一気に吹き飛んでします。

 でも、ちょっと待って。

 ゆる体育だったけれど、激アツの体育館の中で体を動かしたのだから汗をかいている。こんな状態で近くにいたら汗臭いと思われないだろうか?

 そうして少しクンクンと匂いを嗅いでみたら、なんだかすごく汗臭いような気がしてきた。人差し指の痛みよりも汗臭さの方が気になる。

 ワタシよりも少し背の高い先生の横顔を見上げた。ワタシの方を見ようとしない。これはやっぱり汗臭いと思っているからかもしれない。

 一刻も早く志藤先生から離れて歩いた方がいいと思ったのだけど、つないだ手を離すのは惜しい。惜しいけれど汗臭い女としてインプットされてしまうのは辛い。

 激しい葛藤の末、ワタシは決断した。

「せ、先生。一人で歩けるので手を離してください」

 先生は立ち止まってワタシを見た。

「逃げない?」

「逃げませんよ。子どもじゃないんだから」

 そう答えると、先生は「そっか」と笑って手を離してくれた。

 先生の手のぬくもりが離れるのが名残惜しい。

 手が離れた瞬間から「離してなんて言わなければよかった」という後悔が押し寄せる。

 志藤先生がゆっくりと歩き出すのに合わせて、ワタシも半歩後ろをついていく。

「木下さんは、いつも準備体操しっかりやってくれるよね」

「え?あ、はい」

 志藤先生が気付いていてくれたことがうれしい。

「みんなは面倒臭がるけど、準備体操は大事なんだよ。急に運動すると怪我をするリスクが高くなるからね」

「はい」

「どうしたの? 元気がないみたいだけど。授業中もぼーっとしてたし、本当は熱中症の症状があるんじゃ……」

「いえ、大丈夫です。熱中症じゃありません」

 うまく話せないのは、志藤先生と二人きりで話すのに緊張しているだけだし、ぼーっとしていたのは、志藤先生の水着姿を妄想していただけだ。

 それを正直に言うこともできない。

「それじゃあ、やっぱり指がすごく痛い?」

「いえ、そんなに大したことないです。放っておいても大丈夫だと思います」

 これは単なる強がりだ。

「突き指を甘く見ちゃだめだよ。癖になっちゃうこともあるからね」

 そんなことを話しているうちに、保健室に着いてしまった。

 夢の時間ももう終わりか、なんてがっかりした気持ちで志藤先生の後に続いて保健室に入った。

「どうしました?」

 保健室の先生が声を掛けてくれた。名前は何といっただろうか。保健室にはほとんど来ないから覚えていない。

「工藤先生、いらっしゃってよかった。生徒が授業中に突き指をしたので連れてきました」

 志藤先生のおかげで保健の先生の名前が分かった。

 志藤先生はワタシの背中を押して工藤先生の前に座らせる。そして、自分は保健室の端から丸椅子を持ってきて私の側に座った。

 志藤先生に視線で合図されて、ワタシは右手を工藤先生の前に突き出した。

「手をグー、パーできる?」

 ワタシは言われた通りにこぶしを握ったり開いたりを繰り返した。人差し指に痛みはあるものの動かすことはできる。志藤先生に癒やされたからか、痛みは少し引いているような気がした。

「うん、そんなにひどくはないみたいですね。とりあえず冷やしましょうか」

 そう言うと工藤先生は洗面器に水を張り、そこに氷を入れて持ってきた。

 机の上に置かれた洗面器にワタシは右手を浸す。

 冷たさが手にしみるのに、人差し指だけは余計に熱を帯びていくような感じがした。

「あとは私が看ておきますから、志藤先生は授業に戻ってください」

 工藤先生が言う。

 名残惜しいが、次の授業もあるから仕方がない。そう思っていると、予想外の返事が返ってきた。

「次の時間は空きなのでもう少し付き添います」

 これを聞いてワタシのテンションは爆上がりをしたのだけれど、志藤先生の表情は暗かった。そしてこう続けたのだ。

「怪我をさせてしまったのは、私の責任ですから」

 胸が苦しくなった。志藤先生にそんな顔をさせたかったわけじゃない。

 それから保健室に沈黙が積もった。それに耐えきれず、ワタシは明るい声で工藤先生に話しかける。

「あ、そうだ。山中小学校の鍋島先生っていう保健室の先生を知ってますか?」

 咄嗟に思い付いた話題がそれだったのだけれど、口に出してから後悔した。なぜライバルの話題を挙げてしまったのだろう。

「ああ、何度かお会いしたことあるわね」

 工藤先生は笑顔で答えた。同じ地区の保健室の先生だから何らかの交流があるのだろう。

「山中小学校の保健室の先生なら私もお会いしたことがあると思うんだけど……」

 志藤先生も続けて答えてくれた。その回答に私は思わずニンマリしてしまう。

 ライバルだと思ったけれど、鍋島先生は志藤先生に覚えられていなかった。これは完全にワタシの方がリードしていると言っていいだろう。

「鍋島先生のことで何か聞きたいことでもあるの?」

 工藤先生が言う。

「いえ、あー、小学校の頃の担任の先生に逢いに行ったときに少しお話したので、保健室に来たら思い出しちゃって」

 ワタシが適当に返した言葉に、志藤先生も工藤先生も納得したように頷いてくれた。

「痛みは引いてきた?」

 話が途切れたタイミングで工藤先生が言う。

「手が冷たくて逆に痛いです」

 素直に言うと、工藤先生がクスリと笑う。

「そろそろ出しましょうか」

 工藤先生の言葉に頷いてワタシは洗面器の中から手をだした。なんだか手のひら全体がジンジンして、指の痛みなんてわからなくなっている。

 用意してもらっていたタオルで手を拭いていると「あとは、できるだけ人差し指を使わないようにしてね」と工藤先生が言った。包帯を巻くとか湿布を貼るとかすると思ったのだけど、そういう処置はないようだ。

 なんとなく拍子抜けだったけれど、大げさにしたい訳でもないからそれでいいか、と思っていると志藤先生が遠慮がちに話しはじめる。

「あの……。利き手ですからどうしても使ってしまうとおもうので、私がテーピングをしてもいいですか?」

「あら、志藤先生はテーピングができるんですか?」

「はい。運動部でマネージャーをしていたので一通りは覚えました」

 志藤先生は少しだけ照れたような表情で言う。その言葉を聞いて工藤先生はニッコリと笑った。

「それではお願いします」

 そして、棚からテーピングテープを持ってきて志藤先生に渡した。

 志藤先生に促されてワタシは志藤先生の方を向いて右手を差し出した。ワタシの手を優しくとった志藤先生は王子様のようだ。

 そしてゆっくりと丁寧にテーピングをはじめる。

 ワタシのすぐ目の前に志藤先生の顔があった。テーピングをするために俯いているから、その表情はほとんど見えないけれど、息がかかるほどの距離に志藤先生がいる。

 見上げるばかりだった志藤先生の顔を別の角度から見るのはなかなか新鮮だ。

「志藤先生はマネージャーだったんですか?」

 ワタシが聞くと、志藤先生は「うん」と言った。

「選手じゃなかったなんて意外かも……」

「元々は選手をしていたんだけど、ちょっと怪我をしてね」

 そう言い終わると同時にテーピングも完了したようだ。

「ありがとうございます」

 お礼は言ったものの、もう少しおしゃべりをつづけていたかった。

「さぁ、もう次の授業はじまってるよ」

「あ、はい……」

 名残惜しいけれど駄々をこねて先生を困らせたくはない。だから渋々ではあったけれど、ワタシはおとなしく立ち上がった。

 そして志藤先生と工藤先生に改めてお礼を言ってから保健室を出る。

 廊下は静かだった。

 今は授業中だから当然だ。

 だから、ワタシがスキップで教室に戻っている姿は誰にも見とがめられることはなかった。

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