第97話 朝凪家再び 4


 ……そのまま、朝を迎えてしまった。


 先週から昨日にかけてずっと寝つきの悪い日々を過ごしていたから、こうしてぐっすりと眠れたのは久しぶりだ。


 途中で一切起きることなく、気づいたときには朝。


 とても理想的な睡眠だったものの、しかし、それと引き換えに俺はやらかしてしまったわけで。


「……よっ」


「よ……」


 目を覚ました至近距離には、穏やかに微笑む海の顔があった。


 大丈夫、ちゃんと覚えている。ここは海の部屋で、海のベッドで、そして俺は海の胸に顔を埋めてそのまま寝てしまったのだ。


 そして、目を覚ました今も、俺たちは同じ体勢でいる。


「海、今って何時?」


「ん? ん~……8時過ぎぐらい。今日が休みでよかったね。もし学校でも起こすつもりはなかったけど」


「先に起きてたんなら、ベッドから出てもよかったのに」


「そうだけど、動いたら真樹が起きちゃうし。まあ、私が起きたのも一時間ぐらい前だし、真樹の寝顔見てたらあっという間だったから大丈夫」


 それは大丈夫といっていいのだろうか。俺の寝顔でそこまで時間泥棒される人なんて初めてかもしれない。


「で、改めてどうですかね?」


「どうって、なにが」


「私の胸」


「……ド直球だな」


「へへ、今なら訊いちゃってもいいかなって。……で?」


「……言わなきゃダメか?」


「どうしても嫌なら言わなくてもいいけど、言ってくれたら私は嬉しいかな」


「そっか」


「うん」


 もう半日も同じ状態なくせに今さら恥ずかしいが、海が嬉しいというのなら。


「……真樹、顔真っ赤だよ? 今さら?」


「う、うるさいな。昨日はちょっと冷静さを欠いてて正常な判断が出来なかっただから」


「はいはい。じゃあ、感想どうぞ」


「……笑ったら、機嫌悪くなるからな」


 海の顔から視線をそらして、俺はぼそりと言った。


「や、柔らかくて、あたたかくて、い、いい匂いがした……というか、いや、」


 顔が羞恥でかーっと熱くなる。


 素直な感想で、海がそれを希望しているとはいえ、俺は好きな子の前でいったい何を口走っているのだろう。


 バカだ俺は。きっとまだ昨日の動揺を引きずっている。


「じゃ、安眠にはばっちりだったわけだ。なら、貸してあげた甲斐があったよ」


「……からかわないんだな」


「からかってほしいなら、むこう一週間ぐらいずっと擦ってあげるけど?」


「や、やめて」


 エッチだのなんだの言われるかと思ったが、昨日の夜から海はずっと優しい。というか、優しすぎる。


 場合によっては、軽蔑されたり愛想をつかされても仕方がないような姿を晒しているのに、そうするたびに、海は俺を抱きしめて、頭を撫でてくれる。


「……海、それはやり過ぎだよ。俺なんか、海にそこまでやってもらうほど何もしてやれてないのに」


「そんなことないよ。真樹は気づいてないかもしれないけど、友達になってから今まで、私は何度も何度も真樹の優しさに救われたんだから。私がきつかったときに真樹がずっと傍にいてくれたから、私は夕と仲直りする勇気を持てたし、独りぼっちにならずに済んだ。真樹がそうしてくれたから、私も同じようにした。それだけだよ」


「……お互い、力加減が苦手なんだな」


「ふふ、だね。私も真樹も、お互いに対しては常に全力で甘えさせていくスタイルだから」


 俺が海に1優しくしたら、海はそれを2にして返し、そしてまた俺がそれを3で返して――そして、一生貸し借りがイーブンになることはないのだろう。


 だが、俺たちはそれでいいのかもしれない。


 だって、俺たちはとっくに、ただの友達ではなくなっているのだから。


「……海、まだ追加で甘えてもいいかな? 時間ある?」


「んふふ、もう、真樹ったらしょうがないんだから。……まあ、ちゃんと胸の感想も言ってくれたわけだし、お礼にあと一つだけ聞いてしんぜよう。で、なに?」


「……キス、のことなんだけど」


 雰囲気の後押しもあって、俺は意を決して切り出した。


 今度は、海の頬が赤く染まる番だった。


「なあ海、先月、初めて俺のこと迎えに来てくれた朝のこと、覚えてるか?」


「……うん。ってか、あれは忘れられないぐらいハズかったし」


 こっちのほうはちゃんと恋人になってから……あの時、海はそう言った。


 本来の予定だと、この話はクリスマスの日に実行するつもりだった。今度は俺のほうからちゃんと告白して、海と、仲の良い『友達』ではなく、本当の恋人同士になる。


 だが、その予定が崩れてしまった今、タイミングはここだろうと思った。


 俺のためにここまでしてくれた海に感謝を返したい。もっともっと仲良くなりたい。


 そのためにも、ここからもう一歩、中途半端にならず踏み出さなければ。


「海……朝起きて、いきなりでごめん。だけど、俺、今したいんだ」


「……だよね。なんか、そういう顔してるもん。昨日は小動物みたいだったのに、今はギラギラしてる」


「そ、そうかな? だとしたら、ごめん」


「ん~ん。私こそ、今までのらりくらりしててごめんなさい。……昨日、今日で私も決心ついたから。私のほうは、もういつでも大丈夫」


「……ありがとう、海」


「へへ……じゃ、じゃあ、その前にまずは起きよっか」


「だな」


 密着状態からいったん離れて、俺と海はベッドの上に正座で向かい合った。


「海」


「ん……」


 俺の呼びかけ応じた海が、そのまま静かに目を閉じて、俺の方へちょんと唇を突き出してきた。

 

 後は、俺が近づいて、そこに唇を合わせるだけだ。


「じゃ、じゃあ、いくから」


「う、うん」


 両手を海の肩に添えて、俺は、頬を真っ赤に染めた海の顔へ、自分の顔をゆっくりと近づけていく。


 起きた時は落ち着いていた心臓の鼓動が、今はもううるさいぐらいに耳の奥で暴れている。


 変なところにしないよう、しっかりと海の小さな唇を見て。


「海、俺、お前のこと――」


「ん――」


 互いの息遣いを唇で感じつつ、俺と海はそのまま――。



「――海、真樹クン? 二人とも朝から何してるのかしら?」



「「っっっ…………!???」」


 と、唇に触れたか触れないかの寸前で、空さんの声が俺たち二人の耳に届いた。


 そのままギギギギ、と首を朝凪家の真なる主のほうへと向けると、そこには、エプロン姿の空さんが笑顔で仁王立ちしていた。


「そ、空さん……!」


「か、母さん……!? ちょ、ドア……ノ、の、ノック……」


「え? ノックしたかって? もちろんしたわよ? 朝ご飯出来たし、もういい時間だから起こさなきゃって。何度も」


 どうやら海も俺も目の前のことに意識を取られ過ぎて、ノックの音をまったく聞き取れなかったらしい。


 で、不審に思って中の様子を覗いてみれば、自分の娘と、その友達(男子)が、朝っぱらから事に及ぼうとしていたと。


「……海、真樹君?」


「「……は、はい」」


「朝ご飯食べたら、お話、しましょうね?」


「「……はい」」


 どうやらもうちょっとだけ、俺たちのキスはおあずけのようである。

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