二十九冊目
「あら、一ノ瀬、いるんじゃない」
後ろに誰か居るのだろうか。
居ないな。
じゃあ横か。
居ないな。
まさか屋根裏に居るのか。
気配は無い。
「何キョロキョロしてるのよ、貴方よ貴方。
「久しぶりじゃない、一ノ瀬」
僕と彼女の視線が合っている。
「え、僕ですか」
驚いて手の力が抜け、お盆ごとお茶を落とす。
九尾苑さんの術が無ければ破れていた。
「そうよ、何度も言わせないでくれないかしら。
「貴方よ、一ノ瀬宗介くん」
宗介って事は僕だ。
「貴方、まさか自分の彼女を忘れたの?」
自分に彼女が居ると言う新情報と、自分の苗字が分かると言う思わぬ幸運が同時に押し寄せ困っていると、九尾苑さんが救済の手を僕に差し伸べる。
「君の事は僕が説明しておくよ。
「とりあえず君はお茶を入れ直してくれるかい」
僕はお茶が落ちた事を思い出す。
お茶は溢れていなかった。
床には湯呑みとお盆だけが落ちており、濡れた痕跡は一切ない。
不思議に思ったが、九尾苑さんが手振りで早くお茶を入れに行くよう示すので、一先ず思考を放棄する。
お茶を入れて戻ると、説明は終わっていた。
「一ノ瀬、貴方本当に私の事覚えてないの?」
さっきまでと打って変わり、弱々しくなった彼女が尋ねる。
「ええ、今の僕の記憶には、言い難いのですが」
言うと、彼女は一度深呼吸をする。
「そう、じゃあ仕方ないわね。
「私は
キッパリと言う。
弱々しかった様子が嘘のようだ。
本当に幻覚だったのではと疑う程だ。
「さあ、話が一つ済んだ所で聞きたいんだけどさ、樋口って言うのは僕が思い浮かべる、名門樋口家で合ってるのかい?」
九尾苑さんは言った。
「ええ、そうよ。
「でも家の名前で呼ばれるのは嫌なの、沙耶って呼んでもらっても?」
「分かったよ、宗介くんもちゃんと沙耶ちゃんって呼んであげなよ」
「大丈夫ですよ、ちゃんと話聞いてます」
そんなたわいもない会話をしていると、沙耶さんが微笑んだ気がした。
「どうさました沙耶さん?」
「ごめんなさい、つい二人の雰囲気が懐かしくって」
言うと、沙耶さんは僕に向かい指を向ける。
「そんな事より、私の事は呼び捨てにしてちょうだいね。
「口調も敬語はやめて欲しいの。
「昔はタメ口だったし、恋人からの態度が急によそよそしくなると、流石にツラいのよ?」
「分かったよ、沙耶」
「名前を呼ぶだけでそんなに照れるなんてね。
「知ってた? 貴方って照れてる時小指で首を掻くのよ」
慌てて手を首から離す。
どうやら僕の彼女は、今の僕以上に僕に詳しいらしい。
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