第30話 霧の中


「ひどいな」


 四方を幾万の軍が囲む中央の丘の上に彼は居た。

 新王カナリの眼窩には深い霧が広がっている。


 かつて、そこには人を寄せ付けぬ鬱蒼とした巨木に覆われた深い森があった。遠くに見える峰は雲を貫く程高く、その山頂には一年中雪が積もっていた。もくもくと黒煙を上げている火山もあった。一たび噴火すれば国家の危機となる程の大きな火山だった。


 その広大な領域は、王の権威の境界線を表していた。

 そこから先は人の力が届かぬことを意味していた。

 

 深き森と獣の領域にして、王族が焦がれ愛した神秘。

 それが王の禁猟区。


「これが先の王たちが守り愛した地か……」


 太古からあり続けた秘境は、影も形も消えてしまった。


 太く伸びた木々が全て倒れ、泥のようにぬかるんだ地面が延々と続いている。大地から零れるように水が湧き出て、土と混ざって小さな沼のようなものが点々と見えた。ところどころ僅かに隆起している部分は降り積もった土砂だろうか。

 

 深い霧に阻まれてこの有様なのだから、霧の向こうはどうなっているのだろうか。

 

 壊されたのが、この見えている範囲だけであればいいが、きっとそうではないのだろう。霧の向こうにも延々と悲惨な光景が続いていることは想像に難くない。


 酷い死臭もした。

 その山々に住んでいたありとあらゆる生命が死に絶えた、腐敗の臭いだった。


「……かつて美しき魔境とうたわれた聖域でしたが、こうも変わってしまうとは」


 嘆くように答えたのは左後方に控えていた辺境伯領だった。

 少し前まで寝込んでいたというのに、行軍についてくるといったときは心配したものだが、どうやらカナリが思っているよりも身体の状態はいいらしい。


「この王の禁猟区に、辺境伯も来たことがあるのか?」

「えぇ、二度ほど。いずれも前王のお供をさせていただきました」


 ここはかつて王の禁猟区として、本来は王族が許可した者しか立ち入ることが許されない聖域であった。

 そこはただ王に守られた場所というわけではなく、多くの魔獣が潜み危険だからこそ、保護された区域でもあった。


「聖域の魔獣のことごとくも、奴の前には相手にならないというわけか」


 そこでカナリは、ふと気が付いた。

 死肉に集まる類の生物さえもそこにはいなかった。


 それはカルダへの畏怖なのだろう。

 一切の生命がその異常の存在を恐れていた。


 カナリが率いる万の兵たちもそれは変わらない。

 見せつけられたこの悲惨な光景に、万の兵士たちはざわめき。息を呑み、恐怖に体を震わせた。それは軍団の中を水の波紋のように伝播して広がり、膨れ上がる。


 カルダと戦うどころか、その姿を見る前から、皆が恐怖に怯えている。


 ――本当に勝てるのか?


 多くの将兵たちの胸に去来した思いが、カナリの胸の内にもある。

 だが、だからといって逃げることなど出来るはずもない。


 分不相応な王という立場になってしまったカナリにとって、自分には能力がない彼にとって、将兵らの力と策を、その全力を信じることだけを、王としての自分に課した。だから、不安でも、無根拠でも、カナリは信じる他ないのだ。

 

 勝てると。

 

「カルダはまだこの霧の向こうにいるのか?」

「――どうでしょう。仮に移動していても専門の部隊に追わせておりますが何分相手が相手です。それにこの霧に地理もここまで変わってしまうと、把握も難しい。連絡の齟齬が発生するのはしょうがないことかと」


 もちろん、カルダが発見された場所とはまだ距離がある。

 だがそもそもカルダが禁猟区の中でじっとしていた理由もわからないのだ。当然逃げられても、足止めなんて出来るはずもない。


 すでにどこかに去ってしまったのだろうか。

 

 カルダを見つけたとの報告を受け、可能な限り早く動いたと言っても、数万の兵。カナリらが目的の場所にたどり着くのには当然相応の時間が要する。


「とはいえ、どこかに消えられても何も文句はいえないな」


 いっそ国の外に出て行ってくれた方が助かるのが実情だが、相手は前王の仇である以上大きな声ではとても言えない。少なくとも、やれる限りのことは尽くさなければ、誰もカナリを正統な王だとは認めないだろう。


「それで、俺はこれからどうすればいい?」

「……どっしりと構えましょう」

「構える?」

「勝利するためにはカルダの現在地を知らねば何も始まりません。場所を掴み、それから【囲い】を作り、必殺の一撃を見舞う【場】を設けます。ですが、禁猟区から離れている可能性も考えると、準備しすぎるのも追う際の邪魔になりますから」

 

 経験なき王の質問に、好々爺のような辺境伯がはっきりと答えた。

 死の淵までみた経験豊富さは、現在の王の側近や宰相、他の将軍の中でも図抜けていた。実際、辺境伯の言葉に割って入る者はいない。

 おそらく王であるカナリより、畏敬の念を抱かれているのは辺境伯だろう。


「後続に置いてきた軍も、各地方からの軍もまだまだ集まります。ゆるりとまいりましょう」


 辺境伯は頼りになる。それは事実だが、それでもこの国の王はカナリだった。不適格でも、分不相応でも役目はまっとうしなければならない。


「宰相」


 脇に控えていた熊のような大男へ振り返る。


「辺境伯のいう事はもっともだ。それに少し霧が深すぎる。軍を広げるのはもう少し待つ。三日たっても連絡がなければカルダを見失ったと判断して、新たに捜索隊を出して、我ら本陣の動きは諸侯が集まり軍議にて決めよう」

「はっ、直ちに」


 恭しく宰相が頭を下げた。それからすぐに踵を返して、慌ただしく去っていく。

 他の諸将たちもぞろぞろと動き出す。


 いよいよ狩りが始まるのだ――。


「え」


 ――それは誰の声だったか。


 どこからともなく零れ落ちた声。

 その声の主を探して、不思議そうにカナリは視線を迷わせる。


 ――背後からぬるい風が吹いた。


「あ」


 風に吹かれて白い霧もまた視界の隅で揺れている。

 それに導かれるように振り返り、知る。


 ――狩りが始まる。


 霧の中から、現れたのは噂にたがわぬ白い仮面に深緑の体躯。

 緑色に輝く三つの瞳。異様極まり、蠢く多数の腕。

 

 万の軍勢が一斉に息を呑んだ。


 ――狩られるのは、人だ。


 大きな咆哮がして、まばゆい閃光が四方を走った。

 襲い掛かる混乱と衝撃。

 あれほど冷静沈着だった辺境伯でさえ、叫ぶように逃げろと単調な命令を出していた。 


 つまりは用意した策など使うことなく。


 集った軍に価値もなく。



 ――この時、この国の敗北が決まった。

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