第8話

 走る、走る。



 少しでも早く。少しでも遠くに。



 から一刻も早く逃げ切るために。死に物狂いで足を動かす。



 心臓は早鐘を打ち、肺は焼けるように熱い。



 にしこたま痛めつけられたせいで、体中が痛い。



 忘れろ。無視しろ。今はとにかく奴から距離を取るのだ。



「何処へ行くんだ?」

「ッ!!!?」



 背後から、それも息がかかるほどの近くから声がした。



 チユキは反射的に振り向き、思わず目を剥いた。ほんの数歩後ろを、が全く距離を離すことなく付いて来ていた。チユキはそれを見て、自分の死に物狂いの逃走が何の意味も無い事を悟った。



 チユキは思わず足を止めた。先生も同様に、少し離れた位置で足を止める。



「急に逃げ出すなんて、君は悪い子だな」



 先生は悲しそうに頭を振り、ゆっくりとした足取りで彼に近づいてくる。チユキは後退ったが、背後が何かにぶつかりそれ以上進めなかった。



 後ろを見ると、高さが何十メートルもある崖が背を阻んでいた。



 逃げていたつもりが、いつの間にか追い込まれていたようだ。



 そんな!?



 チユキは絶望した面持ちで崖を見上げた。しかしそれも束の間。肩を掴まれ、強引に前に向けられた。



「悪い子にはお仕置きをしなければいけないよなぁ?」



 先生はサディスティックな笑みを浮かべながら、片手で彼の頭を鷲掴みにした。



 チユキは藻掻いたが、ほっそりした指からは想像もできないような信じられない力に、抵抗は全く意味をなさなかった。



 頭からミシミシと嫌な音が聞こえてきた。



 チユキは悲鳴を上げた。先生の口は三日月を描き、彼の頭を掴む手に一層力を注ぎ……。



「お~い」

「はっ…!」



 声を掛けられ、それまで見ていた光景は一瞬で消え去った。



 チユキは目をしばたき、辺りをきょろきょろと見まわした。



 森や断崖は影も形も見えず、目の前はいつもの見慣れたデスクに置き換わっていた。




 チユキ。年齢20。職業、ギルド職員(勤務4年目)。




「……もしかして僕、寝ちゃってました?」

「あぁ完全に肘付いたまま眠ってたな」

「あぁ…くそ」



 チユキは脱力して背もたれに寄りかかった。同僚はそんなチユキを見て苦笑しながら肩に手を置いた。



「お疲れかい?」

「えぇ、まぁ、最近忙しいですからね。寝る時間が削られがちなんです」



 チユキは伸びをしながら同様に苦笑を返した。



「はは…、だよな」

「人手が足りませんよねぇこの仕事」

「仕方ないさ、みんな書類仕事職員より現場仕事ハンターの方が好きに決まってるからな。誰もこんなつまらない仕事なんてやりたがらないのさ」



 同僚は肩を竦めた。



「ま、この部署はこれでもマシな方なんだぜ?」

「そうでしょうか?」



 チユキは同僚から目を離し、これでもそんなことが言えるのか、とデスクの上に置かれた書類の山を示すように目を向けた。



 チユキが再び視線を戻すと同僚は目を泳がせており、チユキの胡散臭げな視線に耐え兼ねた同僚はそそくさと自分の仕事に戻っていった。



 同僚が自分のデスクに座るのを見届けると、チユキは自分のデスクの上に積まれている書類の山の方へ向き直り、睨みつけながら心の中で毒づいた。



 マシだと?くそが、調子良い事ほざきやがって。ここがマシなのは俺がてめぇらの尻拭いをしてやってるからだ。それすら分からないのかあのカスは。



 チユキは心の中で吐き捨てると、取り落としていたペンを手に取り、うたた寝で中断していた書類のチェックを再開した。



 チユキがしているのは誤字脱字、及び、計算ミスの有無の確認だ。



 この世界の書類仕事は手書きが基本である。自動で文章を書く魔道具もあるが、製作が困難で、かつ量産できない事もあり、庶民どころか貴族ですらおいそれと手が出ない代物であった。



 当然彼が生きていた世界の様なPCなど存在しない。計算機すらないこの世界では庶民貴族含め、誤字脱字や計算ミスが非常に多かった。



 チユキはそれらのミスを見つけ、修正する仕事を請け負っていた。



 この作業が割り当てられた当初はチユキは喜んだ。給料も他の者に比べ多く、それくらいなら大したことは無いと思っていたからだ。



 しかし蓋を開けてみると、膨大な量の書類の中にある決して少なくない誤字や、計算ミスの山が彼を待っていた。



 おまけに圧倒的な人手不足なため受付の仕事もやらされることもあり、皆が帰った後も仕事を続ける毎日が続いていた。



 チユキは誰とも会話せず黙々と書類の山を相手に格闘していた。そして気が付くと日は暮れており、いつの間にか職場には人が消えていた。



 しかしチユキは特に気にすることなかった。もうすっかり慣れてしまっているからだ。チユキはただコーヒーを一杯入れ(当然ブラックだ)それを一気に飲み干し、すぐに書類のチェックに戻った。



 かりかりかり。かりかりかり。最早彼以外にいなくなった部屋に、ペンと紙が擦れる音だけが響き渡る。



 ようやくデスクの上から書類が消え去ったのは、日が暮れてからだいぶ時間が経ってからだった。



「終わったぁー……」



 チユキは大きく伸びをした。しばらくその姿勢で脱力していたが、やがて立ち上がり、一通り戸締りを終えるとふらふらとした足取りで帰路に就いた。



 外は完全に真っ暗だった。この世界の夜を照らすのは基本は月明かりのみだ。街灯なんて物は無論ない。王都や主要な都市なら街灯にあたる魔道具が至る所に設置されているが、彼がいる町にそんな物は無い。



 チユキの家は職場から比較的近い所にあった。



 チユキは肩でドアを押し開け、そのまま自室へ直行し、着替えを素早く済ませると力尽きた様にベッドに倒れ込んだ。



 チユキはベッドに大の字で寝転がりながら、いったい自分は何をしているのだろうかと自問自答した。



 朝早くに職場に行って、同僚と特に話をするまでもなく淡々と仕事をこなし、夜遅くに一人寂しく家に帰り、くたくたになった体をベッドに押し込み、気絶するように寝る。



 浮ついた話の一つも無く、何の山も無い毎日を送るだけ。



 何だこれは。チユキは苦い顔を浮かべながら思った。



 これでは前世と何も変わりが無いではないか。



 じゃあハンターに転職するか?命かけて金を稼ぐか?



 脳裏に浮かんだ言葉を、彼はいつかと同じように切って捨てた。



 馬鹿な事を抜かすな。確かに俺は何か変わった事をしたいとは思っている。新しい人生なんだ。前の人生と同じレールを選ぶ様な事はしたくない。



 しかし、しかしだ。



 チユキは寝返りを打った。



 だからと言ってそれとこれとは話が別だろう。別の道を行きたいが、命を懸けてまで何かをしたいわけじゃないんだ。



 残念ながら生まれ変わっても結局俺は特別ではなかった。天才じゃなかった。



 俺は俺のままだった。どこにでもいる平々凡々な、口の悪さだけが取り柄の取るに足らない存在のままだった。



 短い間とはいえ圧倒的な強者から教えを受けた?それなりに強くなれた?



 だから何だ。それで中身まで変わるとでも?自分が特別な存在になれるとでも思ったか?物語の様にとんとん拍子で格が上がってくとでも?



 夢見てんじゃねぇよガキじゃあるまいし。



 チユキは再び寝返りを打ち、仰向けになると目を瞑り、腕で目を覆った。



 環境が変われば自ずと変われるなんて嘘っぱちだ。現に俺は何も変わらなかったのだから。



 チユキは目を瞑って自分についてあれこれ考えていたが、次第にうとうとと微睡み始め、次第に寝息を立てて眠っていた。



 夢を見た。



 夢の中の彼は、普段の彼では考えられない程元気はつらつであり、とても楽しそうに働いていた。



 同僚に笑顔で話しかけ、上司との関係も良好。絡んでくるハンターと取り留めも無い事を話してはがははと笑う。



 しかし目が覚めると、夢の中の好青年は消え去り、後に残されたのはむすっとした可愛げの欠片も無い、冴えない青年がそこにいた。



「くそ……」



 チユキは目を擦りながら毒づいた。夢と現実の落差のせいで、すっかり眠気は無くなっていた。



 窓の外を見ると、丁度日の出のようで、薄っすらと空が白み始めていた。長く、退屈でつまらない今日が始まろうとしていた。



 チユキは長い溜息を吐いた。それから掛け布団をはぎ、ベッドから降りた。




 *




「次の方どうぞ~」



 チユキは依頼を終えたハンターに報酬を支払い、その後ろに並んでいるハンターを呼び掛けた。



 ギルドが開店してからチユキは受付の仕事をやらされていた。朝は特に人手が足りないから、チユキはほぼ毎朝受付の業務に駆り出されていた(それも長時間だ)。



 そのせいで自分の仕事に手が付けられなくなるため、チユキ何度殺意を覚えたか分からなかった。



 ギルドの主な業務内容は魔物関連の仕事の受理、及びそれらをハンターへ斡旋、完遂時の報酬の支払い等が挙げられる。



 魔物やそれに関する情報にも精通しており、魔物を研究する機関と共同で日夜魔物の生態について研究しているという。



「いらっしゃいませ、本日はどのようなご用件でしょうか?」



 チユキは愛想笑いを顔に張り付けて、やって来たハンターに要件を問うた。



「へっへっへ、素材の買取をお願いするぜ、職員さんよ」



 ハンターは得意満面の顔で背負っていた袋の中身をぶちまけた。チユキは早速ぶちまかれた物をざっと眺めやった。



 あ~……。



 チユキはそれを見て思わず天を仰いだ。



 それはグリーンディア―という緑色の体毛が特徴の鹿の魔物の角だった。この魔物の角は薬として珍重され、バウンティとして通常よりも高くギルドが買い取っていた。



「残念ながらそのバウンティ、もう終わってるんですよね」



 チユキはさも残念そうに首を振り、ハンターに残酷な真実を告げた。



「へ、終わってる?」



 ハンターは愕然と呟いた。



「はい、皆さんこぞって売却してくるもんですから、もうどこでも出回っているんです。今持って来られても精々どこか必要としている工房などへの売却用ですかね?」

「いつから……?」

「今から1週間前ですかね」

「お、俺が森に籠った時と同じ時期じゃないか……」



 男は茫然とした面持ちでデスク上にばら撒かれた角を見つめた。



「心中察するに有り余ります。ですが、これはもうどうしようもありませんのでご容赦を」



 チユキの話をハンターは半分も聞いてなかった。男の顔はみるみる赤くなっていった。チユキにはそれが噴火寸前の火山に思えた。



 そして火山は噴火した。



 逆上したハンターは腰に差した剣を引き抜き、チユキに向かって躊躇なく切りかかった。



 ギルド内で喧嘩はしょっちゅう起きるが、これほど明確な殺意を持って誰かに切りかかるような事態が起きる事は滅多になかった。



 あっと周囲で驚きの声が上がった。誰もがチユキは逃げられないだろうと予想した。ギルド職員が戦闘できるなど、思ってもいないようだった。



 チユキは周囲の予想に反して少しも慌てた様子を見せず、淡々とモーニングスターを作り出し、迫りくる刃を弾き返した。



 剣を弾かれ、ハンターは大きく体勢を崩した。チユキはすかさずカウンターを飛び越え、その勢いを利用して蹴りを繰り出した。



 チユキの蹴りは過たずハンターの顔面を打ち、ハンターは顔面を抑えながらたまらず後退った。



 チユキはつかつかと歩み寄って距離を詰めると、躊躇なくモーニングスターを振り下ろし、肩を砕いた。



 ギルド内に血も凍る絶叫が響き渡った。しかしそれも、チユキがハンターの脳天にモーニングスターを振り下ろすことによってすぐに途切れた。



 バキッ、という明らかに人体から聞こえてはいけない音が聞こえた。ハンターの口から掠れるような呻き声が漏れ、それからばったりと倒れて動かなくなった。



 はっと息を呑む音がそこかしこで聞こえる。チユキはそれらに全く頓着することなくカウンターに置いてある警備員と書かれてあるベルを2度鳴らした。



 すぐさま筋骨隆々の警備員が駆け付けてきて、チユキに要件を問うた。



「この人を医務室に連れてって回復魔法をかけてやってください。あぁいつも通り。それで目が覚めたらへ連れて行ってください。そこでギルドでしてはいけない事を改めてお勉強してもらいましょう」



 チユキは無感情に言った。あまりのチユキの無慈悲な判断に、周囲の職員ハンター問わず戦慄した。



 警備担当のハンターはにやりと笑みを浮かべてチユキに頷きかけ、まるで大好きなおもちゃを抱え上げる子供の様に瀕死のハンターを担ぎ上げると、うきうきした足取りで去って行った。



 それを見届けると、チユキはデスクを飛び越えて元の位置に着き、何事も無く受付業務を再開した。



「らっしゃぁせ~」

「お、おいチユキ、今のはちょっとやりすぎじゃ」

「それ本気で言ってます?」



 隣の3番窓口で受付をしていた同僚はチユキの今の行動を咎める様に言ったが、チユキは全く取り合わず、やってくるハンターの対応をしながら見もせずに言った。



 ギルドで職員をやっているとしばしばこういった事態に襲われる。この世界はハンターがあこがれの職業ランキングトップなのに対し、ギルド職員はワースト争いができるほど順位が低かった。



 その理由は昨日同僚職員が言った通りで、誰も面倒な書類仕事などしたくないのだ。



 それに伴い職員は舐められがちで、酷い時には先ほどの様なあまり行儀のよろしくないハンターに暴力を振るわれることもあるのだ。



 先週にも依頼の支払いについて揉める様な事があり、逆上したハンターに襲われた職員が腕の骨を折るという事件があった。



「連中は獣と一緒です、舐められたら終わりですよ」



 チユキは同僚に目を向け、冷たく言い捨てた。同僚はあまりの冷たい視線に恐れ戦き、まるで逃げるようにさっと目を離して仕事に戻った。



 チユキも同様に視線を前に戻し、客への対応に戻りながら、心の中で一人ごちた。



 ……俺だって好きで暴力を振るってる訳じゃない。でも、やらなきゃ連中はもっとつけあがる。それにこの世界は暴力を振るわれたって誰も顧みちゃくれない。



 暴力振るわれましたと警察を呼んで、裁判所で殴りあうようなことも無い。



 この世界は前の世界と違うんだ。殺らなきゃこっちが殺られてしまう。



 あぁ何て野蛮な世界なのだろうか。



 ぎりっとチユキは歯軋りした。それを見たハンターはびくりと身を震わせた。



 チユキは眉を寄せ、一瞬だけ無表情になると、再び愛想笑いを顔に浮かべ淡々と業務に励んだ。



 それからは特に何事も無く業務は続き、受付から解放されたのは昼過ぎになってからだった。



 チユキは大変に憤慨した様子で裏へと戻り、途中で横を通り過ぎる同僚の視線を浴びながらそのまま休憩室へ行き、遅めの昼食をとった。



 休憩室には誰もいない。それはそうだろう。この時間は本来なら昼食を終えて業務に戻るような時間帯なのだから。



 チユキは椅子にどっかりと腰を下ろし、弁当箱からサンドイッチを取り出し、口の中に押し込め急いで咀嚼すると、水筒に酌んであるコーヒーで胃袋に流し込んだ。



 昼食はこれで終わりだ。チユキは周囲に誰もいない事を確かめると煙草を取り出し、マッチを擦って火をつけた。



 全く、この俺が煙草をやり始めるなんてな。前の人生じゃ考えられない事だ。



 チユキは深々と息を吸い込んで煙を肺の中に送り込みながらしみじみ思った。



 だが、吸わねばやってられん。



 チユキは紫煙と一緒に深いため息を吐いた。肺の中に残っていた煙を完全に吐き出すと、チユキは顔を覆った。



 しばらくそのままじっとしていたが、やおらチユキは立ち上がり、速足に休憩室を出た。



 早く仕事に戻らなければ、また夜遅くまで居残りをさせられてしまう。



 しかしチユキが職場に戻ると上司に呼び止められ、支部長室へ来るように言われた。何か話があるらしい。



 チユキは反射的に逃げ出そうとする体をどうにか抑え込み、上司に返事を返すと、とぼとぼと支部長室へ向かった。



 向かう道中で様々な推測がチユキの脳裏を駆け巡った。



 何だ、まさかさっきのやり取りで叱られるのか?それともまた俺は何か気が付かないでほったらかしにしてたか?何にせよ勘弁してくれよまったく。



 そんなことを考えて歩いていると、いつの間にか支部長室の前に着いていた。



 チユキは扉を叩くまでにしばし葛藤したものの、結局諦めてドアをノックした。



 中から返事があるとチユキはゆっくりとドアを開け、中へ入った。中では支部長がデスクに座って彼を待っていた。



「え~と、部長から何か話があるという事でお伺いしましたが……?」

「チユキ君、君は確かこの職に就く前にハンターをやっていたそうだね」

「は?」



 チユキがおずおずと言った口調で要件を問うと、支部長はいきなりそんなことを聞いてきた。



 その時点で何か嫌な予感を察したチユキは、体をこわばらせながら肯定した。



 ……チユキはこの20年の人生で、なるだけよく生きていたつもりだった。



「え、えぇまあ、その、はい、1年だけですが」

「そうか……」



 そのおかげか、これまでの人生でそこまで大きな山も無く生きてこれた。



 堕天教団なる秘密結社が神機という神話の武器を作り出し大陸中で暗躍している、各国がそれに対抗するようにこぞって同じような物を作っている、という噂を聞いても決して関わらない様にして生きてきた。



 支部長は少しの間黙り、それから満足したように頷くと、前置き無しでいきなり本題を話し始めた。



「この町のにある廃教会に堕天教団の秘密の工房があることが分かった。近々そこを秘密裏に集めた冒険者たちの突入部隊で強襲することになっている。君はそれについて行って欲しい」



 しかしどれだけ関わらないようにして生きていても、向こうから関わってくればそんな努力は何の意味もなさない。



 チユキはしばしぽかんと口を開け、それからようやく話を理解すると思わず後退った。



「そんな!いくら僕が元ハンターだからって」

「悪いがこれは決定事項だ」



 チユキの言葉を支部長はバッサリと切り捨てた。チユキは縋るように支部長を見つめた。そんなチユキを見かねた支部長は弁解するように首を振った。



「悪いが上からの命令でね。私からはご愁傷さまとしか言えんのだ」



 チユキは思わず体の力が抜け、危うく倒れそうになった。支部長はため息をつくとチユキに同情の視線を向け、突入作戦が終わるまで仕事はしなくていいと言った。



 チユキはその申し出がありがたかった。こんな状態では仕事どころでは無いだろうからだ。支部長に向かって力なく頷くと、チユキはふらふらとした足取りで部屋から出て行った。



 それからの記憶は曖昧で、気が付いたらいつの間にかチユキは家に帰っていた。



 いつもなら家に帰れば職務から解放されたと、多少とも気が楽になったものだが、今はただ気が滅入っていた。



 チユキはキッチンへ行き、ミルクを鍋にそそいで温めた。



 十分温まるとコップに移し、デンジンジャー(育った物の内必ず一個が死ぬほど辛くなり、それ以外はとても甘みの強い、フルーツのような生姜)はちみつを少量入れ、かき回してから一啜りした。



 ほんのりした甘さが凝り固まった心をほぐし、ミルクと生姜が疲れた体を優しく温めてくれた。



 チユキは疲れた時や元気が無い時はデンジンジャーはちみつ入りのホットミルクを飲んでいた。優しい甘みとミルクの熱が、いつでも彼を慰めてくれた。



 ミルクを飲み干すと多少なりとも気が晴れた。チユキはコップを置き、そのまま自室へ行き、普段使ってるクローゼットの隣にある滅多に開けない方のクローゼットを開いた。



 そこには多少古いが、しかしよく手入れされてある革製の鎧がかけてあった。



「やっぱりこの世界はくそだ」



 チユキは革鎧を手に取り、思わず吐き捨てた。



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