8. なんだ、女か

 考えてみたらイノブタはイノシシの仲間で、群れで行動することが多い。──つまり、一頭いればその周りに仲間がいる可能性が高いわけで、それを想定に入れずに代償の大きい魔法を使ってしまったのは私のミスだった。


「……う、うぁ……っ!」


 うめき声のような声を上げながら、遅々とした動きでフライパンを身体の前で構え直す。足がまともに動かないから逃げることもできないし、せめてフライパンを盾にして衝撃を軽減することくらいしか対処法が思い浮かばなかった。


 フライパンを構えた私に、容赦なくイノブタは突っ込んでくる。先程のものよりも幾分か小さな相手だったが、直撃すれば無事では済まないだろう。


(せっかく冒険者になれたのに……すぐに死んじゃうなんて……)


 私は覚悟を決めて目をつぶった。

 永遠とも思える数秒後、フライパンを持つ手が丸ごと吹き飛ばされるような凄まじい衝撃を受けた。ほぼ同時にお腹の辺りを思いっきり殴られたような感覚があって、私は数メートル跳ね飛ばされた。


「うぅ……げほっ……げほっ……」


 なんとか生きてはいるものの、武器のフライパンはどこかへ飛んでいってしまったし、目の前にチカチカと星が散って逃げることも戦うこともできない。そしてなおも私に向かってくるイノブタ。


(終わった……ごめんなさいお父さん、お母さん!)



 完全に死んだかと思ったその時、私の視界の隅から剣のようなものを握った一人の人影がこちらに向かって走り込んできた。


「はぁぁぁっ!」


 人影が側面からイノブタを斬りつけると、イノブタはギャァァァッ! という耳障りな悲鳴を上げながらその人影に向き直った。その動きに合わせて後方に飛び退る人影。イノブタはそちらに向かって威嚇を始める。

 間一髪、私は助かったのだ。だが今度は私を助けてくれた人がイノブタのターゲットになってしまった。私はゆっくりと視線を動かして恩人の姿を拝もうとした。


 首を動かすと、視界にその姿が映りこんだ。それは、黒い服を身につけた冒険者のような出で立ちの青年だった。川辺に両足を前後に開いて半身になり、右手の片手剣を真っ直ぐにモンスターへと向けるその姿は、太陽に照らされて眩しい。


「……来いよ。相手してやる」


 イノブタを睨みつけながら言い放ったその声は、低くもハリがあって、心地よい旋律だった。だがその声には同時に溢れんばかりの怒りの感情が込められているのも分かった。


 フンッと鼻息を吐き、イノブタも一歩も引かずに青年を威嚇する。そして、次の瞬間には青年目がけて突進を始めた。恐ろしくてまともに見ていられないような光景だったが、青年は少しも怯えるような様子を見せず、ただ一言冷静に言葉を放った。


「──アホが」


 イノブタの突進が青年を捉える寸前で、青年は滑るような動きでモンスターから向かって右側に1メーテルほど移動した。──それだけのことだったが、イノブタは青年を捉えられずにその場を通り過ぎる。猛スピードで突進するイノブタは急に方向を転換することが難しいのだ。


 そしてそれは、青年にとって最高の隙だった。


 青年の身体がクルっと回転する。握った剣先が弧を描き、イノブタの分厚い毛皮に覆われた首筋を正確に捉えた。

 赤い鮮血が勢いよく飛び散り、モンスターはその場に鈍い音を立てて倒れ込む。青年は嫌そうな顔で剣をビュンッと振ってついた血を払うと、そのまま左腰につけていた鞘に収めた。そして一言。


「イノブタは畑や田んぼを荒らすから困っているんだ……」


 イノブタの死骸に吐き捨てた青年は思い出したかのように、倒れた私に駆け寄ってくる。そして私の顔をその端正な瞳で眺め回し──私の命の恩人が私にかけてくれた第一声はこうだった。


「──なんだ、女か」

「は?」


 青年は興味を失ったように私に背中を向けると、なんとその場から歩き去ろうとした。


(えっ、なにこの人……でも今行かれたら私は……)


 正直魔法の副作用とイノブタの突進で私の体力は尽きかけていた。ここで放置されても十中八九死んでしまうだろう。まだ死にたくない私は必死の思いで青年に声をかけた。


「あ、あの! 助けてください!」

「もう助けただろうが。じゃあな。悪いが女に興味はないんだ」

「ちょっと! どういう意味ですか! ──じゃなくて、私怪我してるんです。助けてください!」

「知らん」

「知らんじゃなくて!」


 青年はシッシッと面倒くさそうに手を振りながら私の抗議を遮る。


「女はそうやって俺につきまとおうとするから困るんだ……ただでさえ今は領地の大事な時期なのに、お前に構っている暇はない。それにそろそろ依頼していた冒険者も到着することだし、ゲーレや隣のアルベルツ侯爵との交渉、原住民の討伐、イノブタの駆除、侯爵領へ送る兵の選定なんかも──」

「ちょっと待ってください?」


 青年の言い草に、私は咄嗟にその言葉を遮った。──私の予想が正しいとしたらこの人は……。


「あの──もしかしてヘルマー伯爵……ですか?」


 自信はない。あくまでも予想にすぎない。だが、男色家、冒険者を依頼していた、そしてその後に続けた問題の数々もこの青年が領主だとしたら頷ける内容だった。案の定、青年は露骨に動揺し始めた。


「ち、ちがっ……人違いだ! だいたい領主がこんな森の中で遊んでいるわけないだろ!」

「えっ、違うんですか?」

「違う! なんだこの娘はアホなのか?」

「アホとはなんですか! アホって言った方がアホなんです!」


 大声で言い争っていると頭が痛くなってくる。いよいよ栄養不足だ。早めに何かを口に入れないといけない。


「男になってから出直してこい!」


 そう言い捨てて再び立ち去ろうとした青年。しかし、そんな青年に森の奥から声がかけられた。


「ユリウス様ー! ユリウス・ヘルマー様!」

「ユリウス様、よかった! ご無事で!」


 現れたのは筋骨隆々とした五人の男たち。皆皮の鎧を身につけて、青年を取り囲み再会を喜んでいる。そしてその輪の中心にいる青年も、さっきまでのクールな態度はどこへやら、笑顔を浮かべて「俺が無事じゃなかったことなんてあるか?」などと口にしながら男たちと笑いあっている。


(……なにこの態度の差は。相手が男だから? そうなのねきっと!)


「やっぱりヘルマー伯爵だったんですねーっ!」


 私がこれ見よがしに言うと、青年──ユリウス・ヘルマーは苦虫を三匹ほど噛み潰したような顔をしながら頷いた。


「ああ、そうだが? どうした愚民? 取り入ろうとしても無駄だぞ?」


 ユリウスを取り囲んでいた五人の男たちも、今更私に気づいてこちらに怪訝な視線を向けている。「なんでこんなところに女の子が?」みたいに思ってるに違いない。


「別に取り入ろうなんて思ってませんよ。ただ、雇い主に挨拶しようと思って……」


 すると、五人の男のうち一際大柄なスキンヘッドの男が首を傾げながら言った。


「ユリウス様。もしかしてこの方が……」

「知らん」


 即座に否定するユリウス。しかし私はここぞとばかりに自分の胸に手を当てながら名乗ることにした。


「私はティナ。ティナ・フィルチュです。ヘルマー伯爵に雇われて王都からはるばるこのヘルマー領にやって来ました!」

「なんだと!?」


 なんと、一番驚いていたのはユリウスだった。


「ティナ……王都の『黒猫亭』に勤めていた料理人のティナっていうのはこんなにちっこいガキだったのか?」

「は?」


 私が言い返すよりも前に、ユリウスは傍らにひかえていた五人のうち一番大柄なスキンヘッド男に指示を出した。


「──ウーリ! このメスガキを城に連れて行け。本当に料理人なのか試してやる」

「はいっ!」


 ウーリと呼ばれた男は、私に近づいてくると巨大な体躯に似合わない人懐っこい表情を浮かべ「ごめんね?」と小声で私に声をかけた。そして、そのまま私をひょいと肩に担ぎ上げる。


「ふわぁっ!」


 驚いた私。しかしユリウスと男たちはそのまま私を連れてどこかへ向かおうとしている。私は慌てて声を上げた。


「ちょっと待ってください!」

「なんだメスガキ?」

「あの、私の麻袋とフライパンを……あれは命の次に大事な財産なんです!」


 私がそう訴えると、ユリウスはため息をついてから男たちと手分けしてどこかへ飛んでいった私のフライパンと麻袋を探し出してくれたのだった。

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