海の上
月十字
毒
どこまでも広がる海の上に、海鳥の鳴き声が聞こえる。ゆらゆらと揺れる波の上に、木でできた小舟が浮いていた。
一見すると乗り主亡き後の成れの果てに見えるその小舟の中には、麦わら帽子を被った一人の少女が昼寝をしていた。
「ん、んむぅ……」
海鳥の鳴き声を聞いた少女は、目をこすりながらゆっくりと起き上がった。
少女は黒髪を三つ編みにし、白いワンピースを着ているため、やや幼く見える。少女は寝ぼけた目で空を見ると、呟いた。
「あれ、もう昼? ちょっと寝すぎたかな……」
少女はそういった後、船の中に一つしか無い革袋から地図とコンパスを取り出してそれを見た。
少女は別に漂流しているわけでは無く、色々とあってこの小舟で旅をしているのである。
では何の目的から旅をしているかというと、特に無いというのが正解である。定住する場所を探している訳でも無く、夢とロマンというフワッとした物のために財宝を探している訳でも無い。ただ船旅をしているのである。
「えっと、この調子で行けば明日には目的の場所に着くかな」
今の少女の目的は新しい地図を買うことである。今の地図は何分かなり昔に買った物のため、割と国の名前が変わってたり、領土が変わってたりする。
何なら目的の国に行ってみると、その国はすでに滅んでました、という事も何回かあったため、いい加減新しい地図を買う事にしたのだった。
地図とコンパスを再び袋に突っ込んだ後、少女はオールを持って漕ぎ始める。小舟はオールの動きと共にゆっくりと進み始めた。
小舟が動き始めて数時間後、少女はあることに気づき船を再び止めた。進行方向の海面で夥しい数の魚が腹を上にし、ぷかぷかと浮いていたのだ。それらの死骸は海鳥に食べられずに放置されているので、腐りかけ、強い腐臭を放っていた。
普通であればこれを見た者は何かの凶兆と思ってこの場を引き返し、遠く離れた海路を行くだろう。しかし、この少女は普通ではなかった。
再び少女はオールを握ると、魚の成れの果てが浮く場所へと船を動かし始めた。この海路で行く方が早く目的地に着くからというのもあるが、実はこの状況について一つ心当たりがあったのだ。その証拠を見つけるのが一番の理由だった。
「やっぱり、アレが原因かな?」
その海の異常な色彩を見た少女は心なしか少し楽しそうにそう呟いた。
もしかしたら、何か面白い事があるかもしれない。大した目的も無く船旅をしている彼女にとって、それは目的を追加するのに十分すぎる理由だった。
彼女は進路を変えると、色の発生地の方に小舟を進めた。
「……コータル」
彼女はオールを漕ぎながらこの異常な色彩の原因を呟いた。
コータルとは約30年前に発見された比較的新しい燃料である。大量に採取出来る上に簡単に精製できるため、「新時代のエネルギー」と呼ばれ車や炉の燃料に重宝されている。
しかし、利点しかない物などこの世には存在しない。
コータルの廃棄物には強力な毒性があり、その上分解されにくい。
それが人体に入れば違法薬物もビックリの幻覚作用と中毒性により脳をグチャグチャにする。
「そして一度海に放たれれば、海水を劇毒にして人間を含んだ生物を何十年も苦しめる」
少女はそう呟いた後、口を閉じた。小舟が浮かぶ死の海には、少女がオールを漕ぐ音だけが寂しく鳴って、消えた。
「嬢ちゃん、何でこんなボロッちい小舟で旅してるんだい?」
港の船着き場に小舟を着けるための簡単な手続きを済ませた少女が係員の男に書類を渡した後、そんな事を聞かれた。
その問いを掛けられた当人はどうでもよさげに「その質問は手続きに入るんですか?」と返した。
係員の男は「いや……おじさんが気になっただけだから、手続きはもう終わったけど……」とややたじろぎながら言った。
「そうですか。だったら聞かないでください。ところで地図ってどこに売ってますか?」
そして係員の男を見た少女と目が合った時、彼は背筋に冷たいモノが走るのを感じる。
ソレが何なのか、彼には具体的な説明は出来ないだろう。何故なら、ソレはこの世にあってはならない物だからだ。
「えっと……地図なら東の方に地図屋があるから、そこで買えば良いよ……」
男はそう早口に言うと、そそくさと遠くに行った。
少女はそんな男をぼんやりと見た後、地図屋があると言われた方に歩き出した。
係員の男に言われた地図屋の中で、少女は目当ての地図を探していた。これが彼女にとっては何気に大変な事だった。というのも、地図屋には成人の男よりも背の高い棚が数多くあるため、通路の奥に置いてある脚立を持ってくる必要があるのだ。
地図屋の店員に許可を貰った後、少女が脚立を持ちながら目当ての棚によろよろと歩いていると、窓の向こうにある路地裏に何人かの人間がいるのが見えた。
その人間たちは、皆口をだらんと開け、訳の分からない事を呟いていた。コータルの中毒症状だ。
少女は脚立を置いた後、店員に尋ねた。
「ねぇ、アレはいつから居るの?」
少女は外の人間たちを指さしながら、店員に聞いた。店員は彼女の指さした先を見ると一瞬苦々しい顔をした後、親しみやすい笑顔を浮かべて答えた。
「ああ、アレですか? すみません、気持ち悪いですよね。まったく、あんなゴミは早く消えればいいのに……」
店員は最後にそうぼやいた後、「あっ、すみません! 聞かなかった事にしてくれませんか?」と慌てて言った。
「アレが出るようになったのは四、五か月前からですね。うちの前に出たのは一週間くらい前からです。おかげで公用コータル車に乗ってる時も見てて気持ち悪くて……」
少女は後半の愚痴は聞かずに目当ての地図を取り出すと、店員に代金を払った。
「ところで、もしアレの原因がコータルだって言ったら、貴方はどうするの?」
実際は「もし」なんて都合の良いモノではなく事実なのだが、店員は「もしそうだったとしても、私たちには何の影響も無いでしょうし、大丈夫ですよ」という返答をした。
少女は新しい地図を抱え、路地裏を歩いていた。路地の隅には人間の成れの果てがうずくまっていたり、訳の分からない事をブツブツと呟いたりしていた。
「…………」
少女はそれらを一瞥すると、船着き場の方へと歩こうとしたが、彼女の前に黒い液体が入っている酒瓶を持った一人のボロボロの服をきた女が立ちふさがった。この女もコータルの中毒者らしく目の焦点が合っておらず、訳の分からない事を口走っていた。
「あぁ、頭ン中に虫が湧いてる・・・、くそっ」
そういうと酒瓶の中の液体を飲む。その液体はコータルの廃棄物で、よく見ると、周りの中毒者もそれらしきものを持っていた。
「あの、すみません。そこをどいてもらえないでしょうか」
少女は極めて穏便にそう言った。しかし女は少女を睨むと、「黙れ! お前がこの頭の虫を沸かせてるんだろ!」と的外れな事を怒鳴った。
そして、酒瓶を振り上げると血走った眼を少女に向けながら言った。
「お前が消えれば、この虫は消えるんだ。消えろ、消えろ、消えろ!」
酒瓶が少女の頭に叩き落される。ガラスが割れる音と共に、少女の小さな体は後ろに倒れる。
彼女の帽子や、ワンピースに赤が飛び散る。
女はそれを見てにやにやと笑っていたが、突如その笑みを凍らせる事になった。
「あぁ、痛いなぁ。酒瓶は洒落にならないでしょ」
頭を叩き割られたはずの少女がむくりと立ち上がったのだ。しかも、目立った傷は消えている状態で。
「な、何で……」
あまりの出来事に女が唖然としていると、少女が帽子に付いたごみを払いながら言った。
「すみません。私、昔に色々あったせいで死ねない体質になってるんです」
少女は帽子を被りなおすと続けた。
「毒薬を飲んだり、崖から落ちたりしても死ねなかったんです。だから、頭が叩き割られた程度じゃ今更どうにもなりません」
通りますよ、と少女は女に言った。女はそれに何も返せず、黙って道を開けた。その眼には、濃い恐怖の色が浮かんでいた。
少女は再び見つけた係員の男に会釈をした後小舟に乗り、オールを漕ぎ始めた。目的を果たした以上、ここに留まる理由も無い。
「たぶん、この国は十年もしたら滅びるんでしょうね……」
少女は一人呟いた。何十年も死ねないまま生かされていると、自然とそういう事が分かるようになってしまうのだ。
「…………」
少女は革袋から銀色のナイフを取り出すと、自分の手首に突き刺した。傷口からは1,2秒の間血が流れたが、すぐに止まり、傷も塞がった。
少女はため息をつくと、先ほど自分で刺した手首を見た。
「化け物、ね」
死ねないことにも、自分に対しての恐怖の視線にも、もう慣れてしまった。理由は簡単、自分が化け物である、と理解したからである。
化け物に安住の地はない。安らぐ場所もない。それは知っている。
それでも、少女は旅を続ける。
それしか、道は残されていないのだから。
少女の乗った小舟は、次の目的地に向かい始めた。
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