第84話 罪2・中

「事件の情報と、――お酒、ご馳走様でした」

 櫻子の近くのマンションに池田が運転する車が着くと、櫻子はすらりとした足を伸ばして降りた。すかさず池田は、後部座席の香田側の窓を開ける。座ったままの香田は小さく頷くと、ホストクラブで池田が手にしていた紙袋を手にした。そうして開けられた窓から、それを櫻子に差し出した。

「さっき店では渡すタイミングなかったからな…今日、櫻子さんの誕生日やろ」

 櫻子は、香田の言葉に驚いて彼を見つめた――そう言えば、6月10日は櫻子の26歳の誕生日だ。自分でもすっかり忘れていた。それで、シャンパンだったのか。と、櫻子は小さく笑った。そうして、今までは彼からのプレゼントは躊躇っていたが、今回は笑顔でその紙袋を受け取った。

「有難う、香田さん。それに、真田先生に池田君。自分でも忘れてたわ」

 昨日は曽根崎警察署での爆発騒ぎがあり、それに祝ってくれるような存在が近くに居ないので、今日が何の日か思い出すこともなかった。別段誕生日を喜ぶ歳ではないが、意外な人に祝われるのは新鮮で嬉しかった。

「今日は、よ寝とき。明日から本格的に捜査始めるんなら、忙しくなるやろ」

「そうね。じゃあ、おやすみなさい。気を付けて」

 頭を下げる櫻子に小さく頷くと、「姐さんおやすみー!」と池田が笑う。パーキングからドライブへシフトチェンジして、彼はアクセルを踏んだ。シルバーの高級車は、小さく笑う香田と僅かに頭を下げる真田を乗せたまま、ゆっくりと櫻子の前から走りだしてすぐに見えなくなった。

 紙袋を手にした櫻子は、僅かに機嫌がよさそうな笑みを浮かべて、セキュリティーが強いマンションに入った。玄関ホールには、このマンションのコンシェルジュが控えていて、いつもの様に彼に見送られてエレベーターに向かおうとする。だが、今日はその見慣れたコンセルジュの須藤に止められた。彼は、主に夜に勤務しているので、櫻子はよく見知っていた。

「一条様に、お荷物が届いているのでお預かりしています。後でお部屋にお届けします」

 荷物、と聞いて櫻子は僅かに胸騒ぎを覚えた。今日見舞いで見た、怪我をした竜崎の顔が浮かぶ。その為複雑な表情で頷くと、櫻子は30階にある自分の部屋に向かった。

 部屋に着いてカバンと香田から貰った紙袋をソファに置き、スーツのジャケットを手早く脱ぐ。櫻子の部屋は、未だ最小限の家具と開けられていない段ボール箱が置かれたままだ。

丁度その時、マンション内部からのインターフォンが鳴った。

 須藤だと確認してドアを開ける。彼が手にしているのは、要冷蔵らしい箱が2つ。それに、深紅の薔薇の花束だった。櫻子はそれらを受け取り、礼を言う。彼は深々と頭を下げると、また1階のコンシェルジュの控室へと帰って行った。

 部屋に戻った櫻子はソファに座り、先ず花束のメッセージカードを確認した。


『|De votre compréhension《君の理解者より》』


 やはり、自宅まで熟知している。

 櫻子はあの薄い茶色の瞳の奥底に眠る、狂気に似た人を不安にさせる不気味な光を思い出した。思わず、身震いがする。あの水槽から、またもや櫻子に贈り物を送ってきた。彼は囚人なのか、最早理解出来なくなってきた。

 しかし頭を振り気分を切り替えると、櫻子はそっと花束を横に置く。1つめの箱は、叔母からだった。それでも用心しながら、ゆっくり箱を開ける。

 箱から出てきたのは、櫻子が子供の頃から叔母が誕生日に焼いてくれていた、苺が沢山飾られたチーズケーキタルトだった。叔母はチーズケーキを作るのが得意なのだが、誕生日用にアレンジして作ってくれていたので、見間違うはずがない。櫻子は、ほっとする。

 そうして、もう一つの箱に視線を落として、櫻子は言葉を失った。


佐久間さくまかおる


 記憶の遠い所で、初老の小柄な男性が泣きそうな顔で駆け寄ってくる。その老人と自分の間に、血だらけの母が横たわっている。そうして、倒れる母の前には血まみれの包丁を手にした少年が立っている。

 その少年は櫻子に近寄り、笑顔で彼女に囁いた。


『菫さんは、こっちに来れなかったよ。でも、僕は君とまた会えるよ。『君ならこっちへ来れる』筈だから』



 響き渡るスマホの音に、櫻子は遠くなっていた意識が呼び戻されて、はっと我に返った。慌ててスマホを取り出すと、画面には『佐久間馨』の名前が表示されていた。

 桐生を思い出したせいで、彼と繋がる過去を思い出してしまったのだろうか。だが、『母は車に轢かれた』のだ。これは、記憶が何かと混乱しているはずだ。

「――もしもし」

 通話ボタンを押すと、櫻子はスマホの向こうの人物に語りかけた。

『ごめんなぁ、櫻子。爺ちゃんや。まだ仕事か?』

「ううん、今帰って来たところよ。おじいちゃん、こんな時間まで起きてたの?」

 櫻子は、自分の腕時計で時間を確認した。今は、22時を過ぎていた。年配の祖父は、20時を回ると眠りにつく事が多い。

『櫻子の誕生日やし、爺ちゃんは櫻子が好きな『満寿美堂ますみどう』の豆大福買ってきて送ったんやけど、届いたか?』

 慌てて差出人が祖父の名前の荷物を開けると、そこには確かに小さい頃よく見た和菓子屋の、豆大福が入っていた。

「うん、今箱開けてみたよ。おじいちゃん、有難う」

『スマホも、施設の若い子に教えて貰って前より使えるようになったんやで。スタンプも送れるようになったんやけど、おめでとうはちゃんと言いたくてなぁ――なぁ櫻子、仕事頑張るのはええけど、無理せんといてな?じいちゃんは、櫻子の花嫁姿見るまでは、死なれへんわ』

「大丈夫よ、おじいちゃん。いい人が見つかったら、仕事辞めて結婚するから。でも、まだ死なないでね?ひ孫のお世話は、おじいちゃんの仕事よ?」

 祖父は、櫻子が警察官になる事を最後まで反対していた。櫻子には、結婚して家庭に入って静かな生活を送って欲しいと、ずっと口にしていた。

 それは無理だと櫻子には分かっていたが、祖父の満足する嘘を答えるしかなかった。何も知らない祖父を、桐生という危険なものに巻き込みたくなかった。

「また、近い内に会いに行くわ。大阪に帰って来たんだから、前より会いやすいから」

『それは、嬉しいなぁ。櫻子は菫に似て美人やから、爺ちゃん施設で自慢してるんや――せや。櫻子、お誕生日おめでとう』

 何故か、櫻子は泣きそうになって言葉に詰まった。しかし、祖父に心配かけてはいけないと、深呼吸をして耐えた。

「――ありがとう、おじいちゃん。それから、おやすみなさい」


 電話を切った櫻子は、ゆっくりとお風呂に入って体を温めた。そうしてお風呂から上がった彼女は、髪を乾かすとすぐにベッドに入った。色々な感情に疲れたのか、その日は直ぐに眠りに落ちた。

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