第20話 ピース・上
ここはどこだろう。
櫻子は、
しかし母親の姿を探す櫻子の視線の先――彼女の母親は、倒れていた。傍らには、知らない男の人がいた。夢の中の櫻子から見れば、お兄ちゃんという年代だ。赤いシャツを着ていて、手には包丁を持っていて倒れた母を見下ろしていた。
お母さん、と呼ぼうとして櫻子は声が出なくなった。母のお腹は大きく切り裂かれていた。もしかすると、少年のシャツが赤いのは母の流した血なのかもしれない。母の血で、彼は赤く染まっている。
そうして何故か、記憶からその後の母の姿がすっぽりと消えていた。ただ、母は死んだ、という事実しか櫻子の記憶には残っていない。
「櫻子さん」
聞いたことのない声だ。
少年の色素の薄い瞳が、じっと櫻子を見つめた。ぽたり、とお兄ちゃんのシャツから赤い雫が落ちる。畳が、赤く染まる。
「――――よ。でも、僕は君とまた会えるよ」
がばっと起き上がって、櫻子は大きな荒い呼吸を繰り返す。小さな頃からよく見る悪夢だ。中学の頃、叔父に連れられて精神科の先生に催眠療法をして貰い見なくなったはずなのに、警視庁に入ってからまた見るようになった。
母は『交通事故で死んだ』筈なのに、何故こんな夢を見るのか。『殺されたのは父』だ。汗で薄いナイトウェアが肌にはり付いているような気がして、それがより不快さの原因だと眉を寄せた。
櫻子は起き上がるとそれを脱ぎ捨てて、男性なら手を伸ばさずにはいられない魅力的な下着姿で、バスルームに向かった。まだ起きる時間まで時間がある、それでもシャワーを浴びてさっぱりしたかった。
櫻子は片付けが苦手だ。梅田の駅近い高級なマンションに越して来てからも、段ボール箱が片付かない。片付かなくても、事件が片付けばいいと思っているところもある。料理も苦手だ――食べたいものがあれば、買えばそれで済む。幸い叔父が未だに送ってくれるお金と役職以上の給与で、贅沢に暮らせていた。使い道のないお金は、ブランド物のバックや靴に変わる。
お金には不自由しない――だが、人間が信じられない。ヤマアラシのジレンマの様に、櫻子は自分のエリアに人を入れる事はしない。誰も信じられない――しかしそれは、彼女が本当は自分を信じられない、からなのかもしれなかった。
「一条課長、顔色が悪いようですが?」
曽根崎警察署の特別心理犯罪課の扉をくぐり自分の席に着くと、篠原がすぐに珈琲を淹れる支度を始める。が、心配そうに大きな体を屈めて櫻子の様子を窺った。櫻子は犬が苦手だが、彼には大型犬のような可愛らしさがある。
こちらに異動になる時、刑事局長に頼んで管轄内で自分の部下になる人物を選んだ。経歴や家族構成、性格など若手の資料をほとんど読んで、櫻子は篠原を選んだ。それは、篠原が『善人』だからだ。自分が暴走するようなことになっても、きっと彼なら『正しい事』を櫻子に教えてくれるはずだと思ったからだ。それは、篠原の家庭環境から感じたのかもしれない。
「ボス、どうぞ」
笹部が、机の引き出しからプロテインバーを取り出して櫻子に投げる。微妙に上手く櫻子に投げられたそれを受け取ると、成分を眺めてみる。主にビタミンとカルシウムが摂れるタイプだ。
「朝から栄養素を入れる方が、脳が働きます」
笹部は、櫻子が選んだのではない。テクニカルに特化した部下が欲しいと刑事局長に言うと、サイバー課で優秀だと彼が推薦されたらしい。彼は、自分の感情や意見をあまり押し付けるタイプでない。だが、櫻子に従った行動をしてくれる。いい二人の部下を得た、と櫻子は満足していた。
「ありがとう、笹部君。だけど、食べ物投げちゃ駄目よ。それと篠原君、私は大丈夫。美味しい珈琲お願いね」
櫻子はプロテインバーの袋を開けて、一口かじった。朝は大体食べないが、笹部の言う事はもっともだ。
「ありがとうね、篠原君」
「いつもありがとう」
櫻子と笹部に珈琲を渡すと、二人は篠原に礼を言った。篠原はぺこりと頭を下げて、自分の分のカップを手に席に着いた。
「じゃあ、今日は今まで一課が集めたものと私たちが集めた情報を、じっくり見直しましょ。あと――鑑識の情報はまだ来てないのね」
櫻子と篠原は、パソコンを立ち上げる。その間に、櫻子は珈琲を一口飲む。
「五十九点ね」
今日も、櫻子の採点は手厳しい。
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