[短編]No.4 聖夜の前に流した、あの涙の行方
窓を開けると、冬の冷気が容赦なく室内へと入り込んできた。
「寒いよ~っ! 早く締めて!」
後ろで娘の春香が恨めし気な声をあげているが、笑って受け流す。たまには換気しないと乾いてしまうから。
「ほら、空気が入れ替わるまでの十分ほどだから、ね?」
「ううぅ~……寒さに強い名前のお母さんと違って、私は春なの! 暖かいのが好きなのっ!」
まだ不満そうだ。仕方ない。
「じゃあ、そうね。この寒さにピッタリな昔話でもしようかな」
「昔話?」
「うん。あれはね、クリスマスの一週間ほど前……こんな、雪のちらつく寒い日だったな――」
***
その日、私は十七年の人生で最大の勝負に出ようとしていた。
元々内気で何の取り柄もない私には高すぎる壁であり、試練。それは……――
「小坂君、クリスマス空いてるかなぁ……」
クリスマスに、好きな人をデートに誘うこと。
……以上。
なんだそんなことか、なんて言わないでほしい。十七年生きてきて、初恋の人には一度も話しかけられずに終わり、憧れだった中学校の理科の先生に質問に行った時は引かれるほど噛みまくり、恋愛は関係ないけど友達を作るのでさえ一週間のイメトレは欠かせなかった私にとって、これは一世一代の挑戦であり、人生を賭けた社会的デスマッチ……は言い過ぎかもしれないけれど、大勝負なのです。
ともかく、そんなわけで私は放課後、彼の部活が終わるのを校門前で空を見つめながら待っていた。
「はぁぁー……寒いな」
吐き出した息は白く漂い、瞬く間に冬の大気に溶けていく。その後に吸い込む空気は冷たく、私の胸にこもる熱をちょっとだけ吸い取ってくれた。
ちなみに、私と小坂君は同じ美化委員。この学校の美化委員はかなり忙しく、毎月の最後にある美化週間に、四ヶ月に一回の美化月間、遠足という名目のゴミ拾い長距離清掃活動に、夏休み前後にある清掃活動夏休みサンドイッチと、委員の中では完全なハズレくじ。(どうしてこんなに清掃活動をするのかは学校の七不思議になっている。)
そして、私と小坂君は委員決めのくじで見事美化委員を引き当ててしまい、今に至る。クラスメイトからは同情の視線を送られたが、私としては前々から気になっていた彼と一緒の委員になれて正直嬉しかった。
さっきも年末の校内大掃除に向けての打ち合わせで少しだけ話してきたところ。緊張のあまり何を話したか全く覚えていないが、彼は笑っていたので変なことは言っていないと思う……多分。
打ち合わせが終わると、彼は少しでも部活に参加しておきたいと走っていってしまった。さすがは男子陸上部の長距離エースで、私が手を三回振り終える前に見えなくなった。
「あっ……きたっ……!」
そんなこんなで直近数時間を振り返っていると、目的の彼が生徒玄関から友達と一緒に出てきた。体育系の部活らしい短く切り揃えた黒い髪に、少し釣り目の鋭い眼。ウインドブレーカー越しにも分かる鍛えられた身体つきは彼の努力の証といった感じで惚れ惚れする。
大丈夫……大丈夫……。先月から作戦を立てて、一ヵ月もイメトレをしてきたんだから……大丈夫。
深呼吸、深呼吸……スーハー、スーハー……スー、ハー、ハー、ハー……。
なぜか逆にクラっとしてきた我が身を𠮟咤激励してから、私は用意していた言葉を伝えるため彼の方へと足先を向けた。
「いや~今日も疲れたな~。マジでサーキットとインターバルの組み合わせは地獄だわ」
「だな。ほんと、どっちかにしてほしい」
「いや、お前は今日途中からだったんだし楽だっただろ」
「本気で言ってる? セット数少ない分、ひとりだけ集中トレになって負荷三倍だぞ?」
「……いや~、今日も疲れたな~」
私には「とにかく疲れた」ことしかわからない会話をしながら、小坂君たちはどんどん近づいてきた。縮まる距離に比例し、私の心音もどんどん速くなる。
「そういやさ。今年の陸部クリスマス会、いつも通りイブの夜にやるけど、どうするよ?」
「あー、わり、今年のイブはちょっと用事があって……」
――え?
そこで、私は踏み出そうとしていた足を止めた。
「へ? マジ?」
「あぁ、ちょっと買い物に……」
「買い物? え、デート? ついに彼女ができた感じ?」
「いやいや、そうじゃなくて……まっ、まぁいいじゃねーか」
「あーなるほど、はいはい。そういうことですか」
私は、校門の近くに立っていたレンギョウの木の裏に急いで隠れた。幸いにも、彼は私がいたことには気づいていなかったらしく、そのまま楽しそうに話しながら校門の外へと歩いて行った。
「最悪の誕生日、だな……」
冬の息吹を含んだ冷気が、やけに胸に馴染んでいった。
***
「え? なにそれ、悲しすぎるって……」
「だから、この寒さにピッタリなお話、でしょ?」
少し風も強くなってきたので、開け放っていた窓を閉める。
「温まる話かと思ったじゃん!」
春香は不満げに吠えた。我が娘ながら、よくぞここまで天真爛漫な性格に育ってくれたものだと思う。
「まぁまぁ。今はこうしてあなたもいるし、幸せだからいいの」
「え……ふ、ふーん? そうなんだ。で、その小坂君とはどうなったの?」
叫んだかと思えば、嬉しそうに照れていて。そしてそれを頑張って隠そうとしているのも愛おしい。やっぱり、似ているからだろうか。
「それはね……――」
――ガチャ。
その時、玄関の方からドアの開く音が、「ただいま~」という聞き慣れた声とともに小さく響いた。
「あっ! お父さんだ!」
「帰ってきたみたいね」
「ねぇ、お父さんにはこの話……」
「うん、内緒ね」
と私が笑いながら言ったかと思えば、春香は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねぇ~お父さん~! お母さんがね、この寒い日に寒くなるような話をするの~」
脱いだコートを手に抱え、スーツ姿でリビングへと入ってきた父にしがみつきながら春香は言った。
「へぇ? どんな話なんだ?」
「ねぇ、お母さん!」
「ふふっ、秘密よ」
この辺りは想定通り。もう私は、昔ほど子どもじゃないから。
「え~!」
春香がまたもや不満げな顔を浮かべたのを見て、私は続けた。
「そうね~。じゃあ、お父さんからひとつ、温かくなるような話をしてくれたら話してあげる」
「え? 俺から?」
「そう。ほら、あるでしょ? こんな日にピッタリの話が」
「あっ、あぁ~なるほど、あるね」
私の考えが通じたのか、彼はやけに嬉しそうに笑った。
***
あれは、十七歳の冬。クリスマスまで残り数日となった、ある日の放課後だった。
「ごめん……私、用事があるから……」
ずっと気になっていた同じクラスの女子をクリスマスデートに誘い、そう断られたのは。
「はぁー……マジかぁ……」
二言三言と粘ってみるも、どんどんちらつくのは別の誰かとの約束。それなりに話して親しくなったと思っていただけに、結構心にきていた。陸部のクリスマス会を断り、しっかり準備するための時間まで用意したのに。結局俺はどうすることもできず、重い足取りで下校し、家のベッドの上で四肢を投げ出していた。
彼女のことが気になり始めたのは今年の五月だった。
俺はその頃、春先の陸上の記録会で股関節を故障してしまい、かなり落ち込んでいた。さらには、うちの高校にある委員の中でも随一忙しいと噂の美化委員にくじ引きで当たってしまい、絶望の中で淡々と仕事をこなしていた。
そんな身も心も淀みきっていた、ある日。俺は美化委員の仕事を終え、軽くアップをしてから故障者用メニューをこなそうとダラダラ歩いていた時。
「あれ? あれは……」
さっきまで清掃点検をしていた教室の一室に、彼女がいた。もう美化委員の仕事は終わっているし、何よりこの教室は俺たちのクラスの担当ではない。誰もいない、夕焼けで染まったオレンジ色の教室で、彼女は窓際に飾ってある小さな観葉植物を眺めていた。
何をしているんだろうと思いながら見ていると、彼女は傍にかけてあった霧吹きで水をあげ始めた。ゆっくり、丁寧に水やりをする彼女は、とても楽しそうだった。
それから俺は、なんとなく誰もいない放課後の教室を見ながら部活に向かうようになった。毎日彼女を見かけるわけじゃなかったけど、かなりの頻度で彼女はどこかの教室にいた。
ある日は黒板の淵を掃除し、ある日は同じように水やりをし、ある日は花瓶の水を替えていた。どれもが、とっても些細で、誰もが率先してやろうとはしないこと。それらをこなしていく彼女はどこかキラキラとしていて、気がつくとクラスでも目で追うようになっていた。教室でも彼女は、本当に些細なことをみんなに気づかれることなくこなしていて……。
俺はどうしても気になって、美化委員の打ち合わせの後、それとなく彼女に聞いてみた。そして返ってきたのが……
「やっぱり、綺麗な方が気持ちいいし……花や植物たちも元気な方が嬉しいから」
どこまでも純粋で、真っ直ぐな答えだった。そのために、小さなことを積み重ねられている彼女が眩しかった。大事な夏の大会の前に故障し、適当に故障者用メニューをこなしていた自分が情けなかったし、恥ずかしかった。
その後俺は真面目に故障者用メニューを続け、なんとか夏の大会には間に合ってベストを出すことができた。彼女のおかげだった。あの日以来、話す機会が増えてきた彼女にお礼を言ったが、「君の努力の賜物だよ」と小さく笑っていた。
それから美化委員の打ち合わせや仕事のある日は、さらに他愛のない話をするようになった。好きな食べ物、趣味、好きな科目、この前のテストの結果、美化委員をくじで当てた時のこと、休みの日のことなどなど……。
彼女はかなり内気なようで、あまり進んで話はしてくれなかった。それでも、たまに楽しそうに話してくれると嬉しくて。その内容もどこか天然っぽさがあって面白く、もっと話していたいと思えてきて。
後ろで束ねたポニーテールの髪や、子猫のような大きな眼。興味のある話をする時に小さな体をダイナミックに使って話そうとしているところとかも、すごく可愛くて……。
「はぁ~……くっそ、やっぱ諦められねーっ!」
薄暗くなった部屋で、行き場のない気持ちを叫び、飛び起きた。
ポケットからスマホを取り出すと、メッセージアプリを起動し、彼女のアカウントの下にある通話ボタンをタップした。
*
夕日がほとんど沈みかけた頃、私は自室でうずくまっていた。
「まさか、小坂君から誘ってくれるなんてな……」
思ってもみなかった彼からの申し出。だけど、小坂君にはクリスマスイブにお買い物デートをする彼女がいるはず。彼に限って、その次の日に別の女子と遊びに行こうなんて考えるはずないだろうし……。まさか、私の勘違い……?
そんなことを考え始めると、みるみる後悔の念が心の中を支配していった。
彼からの誘いを断らなければよかった。
他の誰かと遊びに行くなんて嘘を仄めかさなければよかった。
もっと素直に、なればよかった。
そんな感情が、どんどん心の中に湧き上がって、私を責めて、苦しめていく。
胸が痛い。頭の中がズキズキする。目の奥が、熱い。
肌寒い部屋の中で、気がつけば制服のカーディガンの袖に、いくつも染みを作っていた。
私は、どんな苦境にも負けずに努力し続けている彼が好きだった。ケガで思うように練習ができないときも、スランプでベストな走りができないときも、彼は笑って淡々と練習をこなしていた。そんな彼を遠くから見つめていると、自然と私も頑張ろうと思えた。
今まであまり話したことがないクラスメイトとも、頑張って話してみた。意外にも話が合って、友達が何人かできた。
苦手だった数学を頑張ってみた。とにかく数字が嫌いだったけど、簡単な方程式から地道に解いていった。それはすごく地味で、苦しかったけど、彼も部活で頑張っているんだと自分を鼓舞した。学期末テストは、前よりも点数が伸びて嬉しかった。
そんな彼と、もっと一緒にいたくなった。だから、私は生まれたての小鹿みたいに震える足を叱咤し、あれやこれと言い訳を作り出してくる心を抑えて、クリスマスデートに誘おうとした。誘う日に誕生日を選んだのも、自分が生まれた日に自分を変えたいと思ったからだ。
だけど……私は今、こうしてうずくまっている。
「もう、諦めちゃおうかな……」
そんなことを、口にしてみる。
「………………ううん。やっぱり、このまま終わりたくない」
もしかしたら、もう彼は切り替えて陸上部のクリスマス会に参加しようと思っているかもしれない。
既に、本当に買い物へ行く予定を立てているかもしれない。
けれど、私はこのまま諦めたくない。
私は、カバンからスマホを取り出した。ボタンを押して画面を点けると、視界に飛び込んできたのは美化委員の集合写真。二学期の最初、校内一斉清掃活動の後にしたお疲れさま会で撮ったものだ。写真の中の彼と私は、今の私には眩しすぎる笑顔を浮かべている。
「……よしっ!」
過去の自分に勇気をもらい、メッセージアプリを起動しようとした時。
――ブーッ、ブーッ……!
画面に表示された名前に、私は慌てて通話ボタンを押した。
***
「――そんなこんなで今があると、そういうわけだ」
お父さんは、そう簡単にまとめあげた。
「いやいやいや! そんな軽い感じにしちゃダメでしょ⁉︎ え、小坂君って、お父さんだったの⁉︎」
「うん、そうよ。あれ? お父さんの旧姓、知らなかった?」
「今初めて知った……。てか、お母さんたち青春し過ぎでしょ!」
「いや〜、お父さんたちも若かったな〜あの頃は」
興奮気味にあれこれ疑問をぶつけてくる娘に、快活に笑いながら答える夫。
目の前に広がる幸せな光景に、あの時、勇気を出して本当に良かったと思う。彼から来た電話はなぜか無言で、後から聞いたら勢いでかけてしまったとのこと。その無言の間に私は自分の想いの丈をぶつけ……――結果、私たちは聖夜を一緒に過ごすことができた。
「そういえば、なんでこの話私にしたの?」
お父さんを質問攻めにしていた春香が、今度は私にそう聞いてきた。
「ふふっ、それはね。春香には素直になって欲しいな〜って思ったから」
「素直に?」
「そう。私たちはたまたま想いを伝え合うことができたけど、もしかしたらそのまますれ違っていたかもしれない。だからね、あなたには自分の気持ちに素直に行動してほしい。……好きな人、いるんでしょ?」
「うえぇっ!?」
あらー。カマをかけただけなのに、わかりやすい。
「だったら、素直にね」
素直になって欲しいのは本当のこと。
あとは、ちょっとだけ、冬の冷気に当てられて思い出してしまったみたい。
「まさか……そんな……春香に、好きな人が……?」
顔を真っ赤にしてあわあわしている春香の横では、お父さんが固まっていた。全く、この二人は……ふふっ。
「さっ、そろそろご飯にしよっか。お父さんも、そのコート掛けてきて」
二人が正気に戻るのを待ってからそう言い、立ち上がった時だった。
いきなり、フッと明かりが消えた。
「あれ? 停電?」
冬は暖房やら何やらと電気を使うことが多い。そういえば、乾燥機もかけてたっけ。
そんなことを考えながら、ブレーカーのある廊下の方へ行こうとして――私は目を見張った。
「「お母さん、誕生日おめでとう〜!」」
消えた時と同じように、突然パッと点いた電気。その下には、満面の笑みを浮かべた娘と夫と、小さなホールケーキ。「Happy Birthday!」と書かれたプレートまで載っているのに、その意味をすぐには理解できなかった。
「え? え、えぇ?」
「もう、お母さん。自分の誕生日忘れないでよ。確かにこの時期はみんな慌ただしくて、いつもクリスマスと一緒にお祝いしちゃってるけどさ」
照れくさそうに、春香が笑う。
「お母さん……ううん、美雪。前も言ったかもしれないけど、何度でも言いたい。君がこの日に行動してくれたこと、本当に嬉しかった。勘違いさせて、ごめん。そして、今日まで一緒にいてくれてありがとう。これからも、よろしくなっ!」
彼は優しくそう言い、ケーキを春香に手渡すと、そっと私を抱き締めてきた。
――俺も、好きだ!
そう言われた、高校二年生のクリスマス。あの時も同じように抱き締められ、同じように彼の温もりを感じ、同じように私は目頭が熱くなった。
唯一違うのは、幸せの大きさ。
「ほんと、お父さんたちはいくつになってもラブラブなんだから。娘の前ってこと、忘れないでよ」
そんなことを言いながらも、嬉しそうな春香もそばにいてくれて、
「二人とも……もうっ、ズルいな……グスッ……ありがとう……っ!」
私は、世界一の幸せ者だ。
この溢れ出る幸せを、私だけが独り占めするのはもったいない。
だから――
彼の肩越しに見えるぼやけたクリスマスツリーに、そっと願いを込める。
――ひとりでも多くの人が、幸せな聖夜を過ごせますように。
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