ボーイミーツガールにしては夢がない

「はぁー……」


 僕は、温存するつもりだったガスバーナーを使ってお湯を沸かし、それを別に洗面器に半分ほど貯めた水と混ぜてぬるま湯を作ると、洗面器を持って浴室に向かった。


「お湯持ってきたよ」


「そこ置いといて」


 浴室の曇りガラス越しに、彼女のぼやけた肌色の輪郭が色をついて動き出した。やっぱり全裸のまま受け取ったりしないよな。横の段ボール箱に彼女の衣服があり、湿った黄緑色の下着が見えた。


「この服やブラ、洗っといてあげようか?」


「逆に聞くけど、いいって言うと思う?」


「あっそう、まぁ水道が使えないから水は貴重だし節約するに越したことはないからいいけど。一応、男物だけど着替え持ってきたよ。タオルもそこにあるから。パンツは流石にトランクスだけど、サイズ間違えて買った新品だから安心して、それと水道水はもう水が濁ってて使えないから」


 すると、浴室の扉が数センチほど開いて、甲高い声で彼女はこう言ってきた。


「わかったわよ。何から何まですいませんね! 私も人様のお風呂場借りてる身だから長居はしたくないのよ! 分かったらさっさと行って!」


「わかったわよ」


 せっかくの人の親切心を突っつけどんに返すとは腹立たしい。まぁ、僕がそうであるように、このマンションから簡単には出られない以上、彼女もこれから長い付き合いになる同棲相手の僕への態度を改めなければと思う時がきっと来る。

 同時に、僕も彼女に蛇蝎の如く嫌われるような振舞いを無意識でもしないよう気を付けなければならない。

 例えば、今この場で息を潜めて扉の横に立ってたら、少なくとも洗面器を取りに来る彼女の裸体を一瞬でも見れるわけだが、やめておこう。

 僕は棚から雑巾を取り出すと、消毒用アルコールも持って鼻歌交じりに玄関の掃除に向かった。僕が脱衣所を出ると、すぐに風呂場の扉が開く音がした、アイツ意外と鋭いな……。


 ***


  軽く部屋全体に掃除機をかけると、僕自身もウェットティッシュで顔を拭ってカミソリで髭を剃り、香水をふりかけて最低限の身だしなみは整えた。

 1週間剃らないだけで、こんなに伸びるのかと鏡に映った自分を見て愕然とした。

 時計を見たら、時刻は12時を過ぎたばかりだった。そういえば朝から板チョコをかじっただけだったのを思い出した。その途端に胃袋は急に思い出したかのように空腹を訴えてきた。いい加減な仕事するなよ僕の胃袋。

 せっかくなので、たまには熱いものを食べようと台所の棚からチキンラーメンの袋を2つ出した。いくつかは直にボリボリかじってたが、あれは一口目が一番うまいね。二口目からは塩辛くてたまらない。

 サイダーのペットボトルに詰めた水道水をヤカンに入れてリビングに行き、ガスバーナーの上のコンロに乗せる。

 カセットコンロと違って持ち運びに特化した小さいタイプのものなので、落ちないようにヤカンを持っていなければ。

 ふと思ったが、飲み水は一応安全のためにこうやって煮沸しておくべきかもしれない。今の汚い水道水もろ過して沸かしたら飲めるかもしれないが、生憎ろ過装置の作り方を知らないし、知っててもその材料があるかは分からない。砂利と布が確か使われてたっけ。

 僕がそうやって物思いにふけっていると、脱衣所の引き戸が静かに開いて、身体を拭い終えた彼女が出てきた。

 僕の高校の時の、あずき色に緑色の線が入ったジャージを渡したが、やっぱりサイズはぶかかぶで裾と袖を何重にもまくっていた。

 そのせいで胸の膨らみが隠れてしまい、彼女の最たるアドバンテージを無駄にしてしまったことは無念で、己の至らなさを恨むのみだ。

 少ないお湯を使って何とかシャンプーも使ったのか、髪が濡れて輝き、首筋に貼りついいている。薄汚れていた時も初見でかわいいと思ったが、汚れを落として見直したら、ますます綺麗になっていて、思わず生唾を飲み込んでしまった。


「お湯、ありがとう。久しぶりにリラックスできた。インスタントラーメン食べるの?」


「うん、君の分もあるけど、どう?」


「じゃあ……遠慮なく」


 彼女が少しバツが悪そうにして椅子に座った時、ちょうどお湯が沸いた。どんぶりに容れたチキンラーメンにお湯を注いで、僕は鍋蓋を、彼女には平皿をそれぞれ被せた。

 僕は入れる前に、せめてものトッピングにスライスチーズをちぎって入れたが、彼女はチーズは苦手だと言って断った。発酵食品が嫌いなんだろうか? 僕もヨーグルトは好きだが、納豆はあんまり好きになれない。

 ただ3分間、じっと黙ってるのもどうかと思ったので、僕は彼女に自己紹介してみた。


「えーと、まずは僕の名前は森川誠一郎。せいは誠実の誠だよ。年は19で大学生」


 19という言葉に、彼女は反応を示した。


「同い年だったの? てっきり25歳くらいだと思ってた。あーでも髭を剃ったら若返って見えるわ」


「僕そんな老け顔なのかな……」


 これからは毎日髭を剃ろうと決意した19歳の冬だった。


「私は……来栖かなめ、漢字じゃなくて平仮名でかなめ。まぁ……無職ね。短大通ってたけど行けてないし」


「それなら、僕も大学行けてないし同類みたいなもんだね。よろしく。ところで来栖さんはどこに向かうつもりだったの? 実家?」


「かなめでいいわよ。いや、私は実家は札幌だから。アイドルのオーディションを受けに上京したら、その前日に東京がこんな感じになっちゃったから、ダメ元で一応事務所を訪ねてみたんだけど」


「勇気あるなぁ」


 何の意味も無さそうな、死んだら死に損の蛮勇だけど。


「まぁ察しの通り行くだけ無駄だったわ、あとは全く土地勘のない東京を逃げ惑うだけ。着替えや通帳を入れてたボストンバッグは途中でゾンビに掴まれたから捨てた。おかげで、唯一のブラジャーを石鹸で手洗いするハメになったわ」


 村上春樹の小説にも、節約して調理器具を買うために、下着を買い惜しんで毎晩1枚の下着を洗っては翌日また使うことを繰り返す女の子がいたっけ。


「あ、君の上着はハンガーにかけて、ベランダに天日干ししてあるよ」


「ありがと、それも寒いから、たまたま入ったCUでパクったヤツ。店内にも気配がしたから、適当に入り口近くのを慌てて拝借してきた」


「たくましいね」


 あんな化け物だらけの屋外で噛まれずに数週間も生きてきたとは。意外と生存者にも会ったのかもしれない。


「誰か生きてる人はいたの?」


「いや、気味が悪いくらいいなかったわ。夜中にアパートの屋上とかで寝たこともあったけど、その時にも人の気配はしなかったし。ただ、あなたみたいに立て籠もってる人はそれなりにいそうね」


「だろうね、ただベランダから見える家々にはスマホのライトで交信を試みたことはあるけど、返事は0だった。つまり、ここら一帯に正気の人間はもう僕達だけかも」


「こわっ」


「まぁ食べようか。柚子胡椒あるけど使う?」


 ***


「ふー久しぶりにあったかいもの食べたな」


「いつもは何食べてるのよ」


「別に、1日1食も普通だな。とりあえずスナックばっかだ」


 野菜をここのところ全く食べていない。カリカリ梅とかでもいいから、とりあえずビタミンを補給したい。生野菜なんてすぐに食べてしまった。

 僕がそう思っていると、かなめが居心地悪そうに肩身を狭めて上目遣いに僕を見ていることに気づいた。何だろう。


「ところで、私は何日くらいここにいていい?」


 ああ、そういうことか。


「別にそんなん気にしなくていいよ、いたいだけいたらいいさ。僕も話し相手が欲しかったし、それにかなめちゃんはおっぱい大きくてかわいいし……あ」


「……え」


 しまった。また思ったことを考え無しに口に出してしまった。かなめの口からすすりかけの麺がこぼれ落ちた。そして、キッと元々吊り目の目をさらに上へ吊り上げて、僕を睨みつけた。


「やっぱり私の身体が目当てで助けたのね! 薄々そんな気がしてたわよ! 初めて会った時に私を顔胸股顔の順で見たし、私が漏らした時にわざわざ抱きしめてきて離れなかったし、さっきもドアの横に張り付いて私の裸見ようとしてたでしょ! この変態!!」


 あらやだ恥ずかしい。バレてたか。もういい開き直ってやる。


「そうだ、僕を怒らせない方がいいぞ。当分二人っきりでここで暮らすのだからな」


「はぁーーっ!? そういうこと言うんだ! じゃぁいいわよ!」


 僕が某大佐のセリフを吐くと、かなめは顔を赤くして叫び席を立った。僕はまさか自棄になって家を飛び出す気なのかと疑い、押さえつけるために僕自身も立ち上がった。

 が、僕の心配とは裏腹に彼女は右に数歩歩くと、テレビの前で仰向けに寝っ転がった。な、何なんだ? 急に?


「いいわよ襲いなさいよ! 私だって命を救ってくれた相手に何の返礼も返さないような愚か者には育てられてないから! ほら、獣欲の限りを私にぶつけなさいよ!」


「じゃあ遠慮なく」


 色々言いたいことはあるが、据え膳食わぬは男の恥。日ノ本に生まれた大和男児として女子に恥をかかせるのは己が恥と思い、相手が求めるなら、もう僕の意思など関係なくやらざるをえない。うん。


「え? ちょっと待ってやっぱりタンマ……あーえーと、これで我慢して!」


 僕がかなめの脚の間に両膝を落としただけで、彼女は怖気づいてゴキブリのように四肢をバタつかせて後退ると、ジャージの上をたくしあげて腹筋が微かに浮かび上がった腹を見せてきた。降伏の証か何かか?


「あーうん、細長い綺麗なへそだね」


「……どうも」


 かなめは僕が褒めてもそれほど嬉しそうじゃなかったが、僕は実はへそフェチなので割と嬉しかった。けど、正直言って肩透かしは否めない。僕が膝立ちで距離を詰めると、彼女はビクッと震えて、すぐにジャージを元に戻してしまった。

 少しくらい触らしてくれてもいいのに。かなめ本人も言ってたけど、僕は彼女の命を救ったんだから、ちょっとくらいいやらしいことをしても許されるくらいの権利はあるはずだ。だが、口には出せない。


「いや、すまない。少し錯乱していた。悪かったよ。僕も君に嫌われたくないから、こういうことはする気はないよ。だって、お互い嫌でも一緒に暮らしていかなきゃならないんだから」


「いや、そんな血が出るくらい唇噛みしめながら言われても……気づいてないの?」


「え?」


 僕は思わず唇に触れるが、血はついていなかった。どうも騙されたらしい。


「かかったわね。あーヤダヤダ、私こんな性欲にまみれた童貞の家に転がり込んじゃったんだ。あー怖い怖い、それじゃせいぜい理性を失わないようよろしくね? 森川誠一郎くん?」


 この女、僕では襲うような大それたことはビビってできないと高を括っているようだ。確かに経験ないけども。僕は19だし、むしろ10代で卒業している方がおかしいのではないか? まったく、この僕がこんなに侮辱されたのは初めてだぜ……。


「ふん、部屋に入った途端に洪水みたいに失禁した女が、そんな魔性の女ぶったところで痛々しいだけだぜ? お? あれはマーキングだったとでも言う気か?」


「いや何言ってんのキモい。あれは……そう、ジョジョ7部のジョニィの気持ちを知るためにわざとやったんですけど?」


「ジョニィは大便の方だし、それに彼は下半身不随で看護師にも無視されて漏らしたから絶望感が桁違いだと思うぞ」


 しかも、天才ジョッキーから一転、馬にも乗れない障害者になったわけだし。


「うるさいわね! だいたい何あの武器? 自撮り棒? アンタ絶対自撮りするような友人一人もいないでしょ! その根暗で貧相な見た目で彼女とかいたことあんの?」


「いましたー! 小2の時にクラスメイトのめぐみちゃんと付き合ってましたー!」


「草」


 結局、お互い悪口を一通り言い合って疲れた後、キリがないから、僕は今後彼女に漏らした件について蒸し返さない、かなめは僕を童貞呼ばわりしないという条約を締結し、一応和解した。

 前にも言ったが、絶対パンデミックに巻き込まれてなかったら関わることもなかった部類の女だ。綺麗な女優が裏ではスタッフをいじめてるとか週刊誌によく書いてあるけど、美人ってこんなのばっかか。

 だが、初対面では険悪でも、時が少し経ったら大なり小なり打ち解けるものだ。言うまでもなく僕の方が精神年齢は上なんだから、家主の僕がしっかりしなければ。


 ***


  僕はかなめに、この家の構造や各部屋の役割を簡潔に教えていた。今いる部屋はリビングと浴室を繋ぐ廊下の真ん中のドアを開けた先にある、5畳くらいの小部屋だ。


「この部屋は食糧庫兼、万一部屋にゾンビが押し入って制圧された時の最後の逃げ場所ね。水も寝袋もあるし、武器になるかは微妙だけど、割れたワイン瓶も置いてある。まぁここは8階だし、死を先延ばしにするだけかもだが」


 親父が家に来た時に一緒に飲んだ「シャトー・ディケム」の瓶を、ベランダの手すりに口の周りを握って叩きつけたら、うまいことギザギザに鋭利に割れたので、槍が折れたり失くした場合の非常武器にした。


「なるほどね、そうなったらこのクローゼットを倒してドアを塞ぐってことね。しかし、水は大丈夫そうだけど、食糧あんまりないのね」


「まぁ買い出しにも行けないからね、一応、調達する手は他に考えてあるよ」


「このリュックは?」


「ああ、僕が登山部で使ってたヤツ、中に現金と水を1リットル分と何個か缶詰が入ってる。まぁ本当に食糧を切らしたら、嫌でも外行かなくちゃならないから、その時用だね」


 それまでに救助が来ればいいけどな。外に出て生きて帰れる自信が全くないから、こうして引きこもってるんだし。

「ふーん、まぁそうなったら私も食糧たくさん持ち帰りたいから、仕方ないし同行するわよ」

 私は留守番するとか言い出すと思ったら、意外と勇気あることを言ってきた。この子はヘタレなのか勇気あるのか分からないな。


「ところで、私はどこで寝たらいいの?」


 かなめは、クローゼットの中を開けながら僕に尋ねた。


「テーブルどかしてリビングで一緒に寝ようよ。君に布団は使わせてあげるよ」


「いや、嫌なんだけど」


「何故? あ、全裸じゃないと眠れないの?」


「アンタがそういう発想の持ち主だからよ」


「……」


 何か痛烈に批判された。何だろう、僕が嫌いだけど、同時に僕の庇護なしには生きられないかなめが脆弱で愛らしく思えてきた。

 懐かずにやたら噛みつくチワワを待ち受けにするくらい溺愛していた、高校の友達の川島の気持ちが分かったぞ。


「別にいいけどさぁ。多分絶対後悔すると思うよ。リビングで一人で寝るのは」


「何? 脅迫してるの? 一体どんなのがあるってのよ、気になるじゃない」


「夜中になったら分かるよ。いやー楽しみだなー明日になったらかなめちゃんが、『昨日はあんなこと言ってゴメン、やっぱり誠一郎くんと一緒に寝たい』って言って懇願してくるのが楽しみでワクワクしてきたよ」


「はいはい、夜這いに来たら鼻へし折るからね」


 それが何なのかは今に分かる。男の僕でもあれには身震いしたから、かなめが耐えられるとは思えない。せいぜい今は憎まれ口を叩くがいいさ。ただ、僕の布団でもまた漏らすのだけは絶対やめてほしい。

 

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