第8話 彼の名は

 例えばこういう可能性もあった。スミレの花言葉である『謙虚』『誠実』は、本人が得られないという意味ではなく他人から得られないという意味であり、絵画卿がなんらかの力で俯瞰したゼム・ベレンの人生はそういう悲しい壁にばかりぶつかるものなのだという示唆の可能性。

 ――そうだったらいいな、と考えた自分が残酷であることは否定しない。

 だがそうではないらしい。

 ニヤニヤと質の悪い笑みに黄ばんだ歯が覗く。ゼム・ベレンと名乗った男はこうも続けた。

「いいぜいくらでも聞いてくれ。あの絵だろ? もらったもらった。人生の運を使い果たした大事な絵だ。売っちまったがな」

 取り巻きであろう二人の男がげらげらと笑う。アンティシャは口許を指先で押さえて黙っている。人生において遭遇したことのない手合を前にして戸惑っているようだった。

「ということは、絵画卿に会ったと?」

 と、キルティカが問う。

「見てねえな」

 短く言って、ゼムは節くれだった掌をずいと二人の方へと差し出した。

「そっから先は取材費だ。俺の大事な大事な時間を取るんだからな。ああ、人数分だぞ」

「話を聞きたいのはあなたからだけだ。他の二人からは別に」

「俺の大事な仕事仲間も引き留めてることを自覚しろよ。聞きたくねえんならそりゃそれでいいさ。行こうぜ」

「キル」

 アンティシャがキルティカの袖を引く。差し出された銀貨を受け取るなり断りなくゼムが近づいてきたため、キルティカは速やかに彼の目を軽く睨んで牽制し、その手へ数枚の貨幣を放った。男たちは笑っている。その位置から改めて距離を取ろうともしないゼムに対し、キルティカは無意識に半歩だけ後ろへと下がった。

「毎度どうも。で、何が聞きたい?」

 ――知りたいのは人となり、可能なら犯罪歴。

 フェリオの言葉を思い出し、キルティカは思わず言葉に詰まる。本人に直接訊けるものではない質疑の二大巨頭に相当するのではないだろうか。

「絵画卿にお会いしていないのならどうやってあなたの手に?」

「どうやって? なんだったかな、あー、そうだ。届け屋が来たんだ。そのカイガキョーとかに雇われてるやつらしいけど、人んちの前にボンと置いて終わりだったぜ」

「どんな伝手でオークションに買い取ってもらったんだ? それと似顔絵を描かせてほし――」

 アンティシャに続いてキルティカが口を開くと、言葉を遮ってゼムは再び掌を差し出す。

「追加料金。こういうのは一問につき一回分の料金だろ?」

「は?」

 キルティカは思わず拳を握る。そのかたわらで『釘うち木靴亭』の扉が開いて客が出てくると、ゼムは異様に明るい笑顔で声を放った。

「おい、ここにいろよ! 取材費もうひとり分追加だ」

「ちょっと!? どういうことなの!」

 さすがにアンティシャが声を上げた。しかし四人になった男達はなにやらひそひそと笑い混じりで言葉を交わすばかりだ。キルティカはあらかじめ低めに手を挙げて牽制したが、予想外にもアンティシャの口は止まることがなかった。

「おかしいわ、卑怯者のやる手段よ! せせこましくてフェアじゃないわ」

「アン、ちょっと」

「卑怯者だとよ」「せせこましい」「傑作だ」「その通りだ!」

 口々に笑う男たちの中で、目を細めたゼムが手を伸ばす。

 自分を通り越してアンティシャの襟元へと伸ばされた男の手を反射的に叩き落としてから、キルティカは顔をしかめた。ゼムを再び睨みつける。

「何をするんだ」

「しつけがなってないお嬢様が真っ向からそう言うんだ、腕が立つんだろうなあ? 騎士様。ずいぶん細っこい腕だったが」

 対して、キルティカがその細腕で叩き落とした腕は分厚く鉄のように強靭に思えた。腕が立つなどとは皮肉以外の何にもならない。

「本当のことよ」

 短い沈黙を割ったアンティシャの強い声は語尾だけかすかに揺れていた。

「後出しはなしだわ。条件は最初からきちんと提示しなさい。わたくしは卑怯者のやる手段とは言ったけれどあなた自身を卑怯者だと謗ったつもりはないわ、まだ」

「じゃあ有り金全部置いてきな。そのポケット引っくり返すんなら手伝ってやるよ、脱ぐのをな」

 次の瞬間ゼム・ベレンは呻き声を上げてその場に崩れ落ちた。

 キルティカは振り上げた脚をひるがえし、アンティシャの手を掴んで一目散に駆け出す。

「ごめん我慢できなかった」

「強いのねキル! 何をしたの!?」

 無言で首を振る。言えない。令嬢相手には。

 人体には急所があり、特に男性には特有にしててきめんの――という説明まで脳裏をよぎったところで、後ろから三人の男たちが追いかけてくる足音を聞いて中断した。壁を蹴る勢いで踏み抜いたものの予想以上に柔らかかったとだけ記憶しておく。

 秩序なく寄り集まった雑多な市場を縫い針のように駆け抜けていく。露店の屋根たる白い布は傾いた陽の橙色に染まりつつあった。橋までたどり着けば逃げ切れるように思う、荷物を乗せた馬車はどこに待たせてあるんだったか。

 不意に右手が引っ張られて重みがかかる。振り返るとアンティシャが転んでいた。そういえば今日の彼女は杖を持っていない。立ち止まって謝ろうとした矢先、反対側の左手首を掴まれてぞっと血の気が引いた。ゼムの取り巻きの男だった。

 市場の人々はこちらを見ているが見ていないようなものだ。迷い込んできた野良犬に対するような目をしている。

「離してくれ」

「悪いがそりゃ無理だ。安心しろよ、ちゃんと謝ったらおうちに帰してやるから。おいこっちだ!」

 振り上げた脚の足首も掴まれてキルティカは黙り込む。

 むき出しの地面に手をついて身を起こしたアンティシャのフードから手入れの行き届いた赤髪がこぼれている。別の男がそのフードへと乱雑に手を伸ばすと、キルティカは反射的に叫んだ。

「やめろ取るな!」

「やめてやれよー」

 気の抜けた声が差し挟まり、その場にいる人々の目が動いた。

 手の空いていたもうひとりの取り巻きが声の主へと睨みをきかせる。

「なんだおまえ。関係ねえだろ」

「うーん。そうかなぁ?」

 身体から力が抜けたのはキルティカだけではあるまい。思わずちらと盗み見た金髪に見覚えがあり、とっさに顔を背ける。

「俺は思うんだよ。ロマンは生まれそうなときに生んどくのが最高にいいよなって。だってそれってインスピレーションじゃん? そうしたいときにそうする、ってなんかこう、運命とか宿命とかが背中を押すのに従うっていうか、まさに物語の主人公ってそういう直感を大事にしてきたから主人公たりうるのかなあって」

 ゼムの取り巻きである男たちが引いているのがなんとなく分かる。金髪の青年のとうとうたる口調に迷いはなく、演説じみた自信に満ちあふれている。キルティカはかたくなに見まいとはしているが、おそらく彼の視線はまんべんなくその場にいる全員を見ているのではないかと思う。

「誰が主人公だって? いいから行けよ。ぶん殴っ」

 言い終わらぬうちにひとりが倒れた。キルティカが視線を向けると、男が地面の上で泡を吹いている。

 殴ったのであろう右手をほどいて振り、青年は難しげに言う。

「やっぱ痛いや。運命に『そうしろ』って言われたから殴ったけど、残念だけど俺の身体がついていかない。骨折れたらペンも握れないし、あと二回やるのはやだなぁ。どうする?」

 残った男二人が沈黙する。

 公爵令嬢はそれを迷いと正確に捉えたらしい。中途半端に払われていたフードを取り、顔に落ちかかる紗のような赤髪をそのままにして口を開いた。

「……言っておくけれど、ポケットの中はもうすっからかんだわ。わたくしを逆さに振っても治療費と釣り合わないと思うのよ。だって今、前歯がここに飛んできたもの」

 それで話は収まった。

 市場の往来はあっという間に元通りになる。ぼうっと突っ立っていたら邪魔がられるのも時間の問題だろうと、キルティカは膝をついてアンティシャへと手を差し伸べる。

「ごめん、アン」

「ううん。わたくしこそごめんなさい」

 アンティシャは注意深い動作でフードを被り直す。うつむいた顔は見えない。

 そんな二人に歩み寄ってきた人物はあっけらかんとした声で言った。

「助かったね。俺がいてよかった。本当に良かった。そう思わないかいお嬢さんがた。これを運命の出会いと感じてくれるなら俺もまた運命に従おうと思うけどさすがに一度に二人は選べない」

「怪我はない?」

「わたくしは大丈夫、キルは」

「そうだ、俺としたことが自己紹介がまだだった。そしてこういうのは男の方から先に名乗るべきだ。俺はバートラム・ハウラ=ヴィレ。お嬢さんがたのお名前は?」

 めげないのだろうか。それとも別次元にいるのだろうか。頭痛を覚えてキルティカは目を閉じたが、ひとまずアンティシャとともに立ち上がる。その公爵令嬢はというとしみついた礼儀作法は筋金入りのようで、スカートの裾を持ち上げて軽い会釈をした。

「アンティシャと。助けてくださってありがとう、ヴィレ様。詳しいことは橋を越えた向こうで。ちゃんとしたお礼もそのあとに、よろしいかしら、キル?」

 キルティカはバートラムへと振り返る。頷く。

「もちろん。……ありがとう。私はキルティカ・オーレルと」

 今朝記憶に刻んだばかりの顔を見つめもして、答え合わせをしたつもりだった。

 だが青年はその整った容貌を遺憾なく発揮して曇りなく笑む。

「どうもはじめましてご令嬢がた! お近づきになれて光栄です」

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