新しい日
江戸川台ルーペ
目覚め
五年?
十年?
分からない。
しばらく前に、ドアの外に用意された夕食と一緒に出されたショートケーキには、「19歳の誕生日おめでとう!」というプレートが載っていたような気がする。そうか、俺は19歳になったのかと思いながらそれを食べたのだ。だから俺は19歳なのだ、と小野寺拓は思う事にした。詳しい事は部屋から出て家族に聞けば良い。
拓はベッドから立ち上がった。
足の踏場もない部屋を横切り、まずは窓を開けて新鮮な空気を取り入れようと、分厚いダンボールを乱暴に引き剥がした。盛大な埃が舞い上がり、拓は寝巻きのトレーナーで鼻と口を抑えながら咳き込んだ。眩しい光が差し込み、拓はそのまま俯いて目を閉じ、強大な陽の光を凌がなければならなかった。それでも両目からは涙が止めどなく溢れた。
しばらくして落ち着いてから、もう一つの窓に貼り付けていたダンボールも引き剥がした。窓は思いのほか軽快な音を立てて開いた。外の空気は冷たく、新鮮だった。二階の部屋から眺める外の景色は白く、住宅街がやや黄色く見えた。朝なのか、夕方なのかも拓にはわからない。朝であればいいのだが、と拓は思った。自分が生まれ変わるには朝が相応しいように思えたからだ。
自室のドアをゆっくりと開くと、廊下のワックスの匂いがした。足元には拓が排泄する為の未使用の簡易トイレが置いてあり、左の突き当たりには姉の部屋のドアがあった。ちょうどそのドアがガチャリと開いて、姉が姿を現した。
姉の
しばらく小野寺優子は弟の拓の顔をお化けのように凝視していた。ほとんど十年ぶりに弟の顔を見た姉としての態度をどのようにとればいいのか測りかねているようにも見えたし、そのまま何が起こったのか分からない、という風にも見えた。口に咥えているゴムがポトリと足元に落ちて、ようやく優子は声をあげる事が出来た。
「おとうさん! おかあさあん!」
脱兎の如く駆け出した優子は拓の目の前を通り過ぎ、大声で両親を呼びながら階段を駆け下りて行った。拓は拓で、久しぶりに見た姉の変わりぶりに脳が追い付かず、しばらくボーっとしていたが、やがて階下から「何だって!?」「本当に?」と両親の大きな声が聞こえてきて、懐かしいなと思った。
ドタドタと階段を上がってきた父と母は、すっかりと年をとっていた。拓は両親の老いぶりに目を見張った。
「拓! 出てきてくれたのね!」
母が感極まって叫んだ。
「拓! 良かった、本当に良かった……!」
父も黒縁眼鏡を外し、目元を長袖のシャツで拭った。髪がだいぶ薄くなってしまっているが、何とか黒いまま存在を保っている。父も出勤の予定であったのか、白いシャツとスラックス姿であったが、拓の記憶よりも一回り小さい身体になっていた。
「あ……あ……」
拓は声を発しようとしたが、喉は情けない隙間風のような空気を肺から外に送りだすだけで、何一つとして形にならなかった。拓は「風呂に入りたい」と言おうとしただけだったが、それは見守っている家族からすると思いが込み上げ、声にならない感動で胸が詰まったようにしか見えなかった。
「いいんだ、何も言うな」
涙目の父が拓を抱きしめた。背丈は辛うじて拓よりも高かったが、抜かれるのも時間の問題であるようだった。
「しかしやや臭うな、風呂にはいるか」
背後では優子が家中の窓をパタパタと開けながら「はい、申し訳ないんですが、今日は有給を使わせてください。え? 理由ですか? 言わなきゃいけないんですか?」と電話をしていた。そうか、恐らく俺は臭いのだ、と拓は自覚した。それはそうだ。最後に風呂に入ったのがいつだったか、既に拓の記憶にはない。
「あ……あ……」
「飯が先か? ん? 風呂より飯か?」
父・
「バカねえお父さん」
母・
「拓はお水が飲みたいのよ。そうに決まってるわ。すごく喉が乾いてそうだもの。今持ってきてあげるからね」
「いいからお母さんはお風呂沸かしてあげて」
姉優子が着替えを用意しながらピシャリと言った。
「拓、まずは風呂よ。どうにかなっちゃいそうな匂いだわまったく。話はその後」
「あ……あっ……」
拓はフラフラと風呂場へ向かった。
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