第16話 ミストの向こう側に
それから一夜明けてみると、俺は布団からなかなか起き上がることができずにいた。昨日のことが思い出されて、顔から火が出そうだ。
「......仕事に行きたくないな」
恥ずかしいやら嬉しいやら、正義さんに嫉妬するやら、悶々とした頭を何度も枕に埋める。あれは勢いのなせる業だった。
それでも、刻一刻と出勤時間が迫っている。観念して洗面所に行き、冷たい水で顔を洗うと、鏡に向かって呟いた。
「俺はどんな顔をすればいいんだ?」
そこに映る情けない顔の俺は、何も答えない。その代わり、足元にいたピーティーが鳴いた。
白猫を見下ろすと、まるで「別にいつも通りでいいんじゃないの?」と言っているような呑気な顔だ。
「猫はいいなぁ、気楽で」
苦笑した俺は、のろのろと身支度をして、部屋を出る。琥珀亭の扉が、いつもより大きく感じて、躊躇してしまった。
思い切って琥珀亭の扉を開けると、そこには真輝さんが立っていた。
「おはようございます」
「......お、おはようございます」
真輝さんは拍子抜けするほど清々しかった。
「今日は天気がいいですね。これで残りの雪も溶けてくれるといいんですけど」
......完全にいつも通りだ。女ってわかんねぇ。
だけど、俺もそれで救われた。ピーティーの言うとおりだ。いつも通りでいけばいいや。そう思うと、一気に肩の力が抜けて、笑顔を作れた。もっとも、ピーティーは「にゃあ」としか言っていないんだけど。
「そうですね。......あ、俺、丸氷作ります。残り少なくなってましたよね」
「お願いしますね」
「はい」
冷凍庫のほうへ歩み寄る俺を、真輝さんが呼び止める。
「あの、尊さん。今度の日曜日、お凛さんの演奏会があるんだそうです。一緒に行きませんか?」
「あ、はい......」
「じゃあ、日曜日の二時に出かけましょう」
「はい!」
俺は彼女に背を向けて冷凍庫にしまってある板氷を取り出した。安堵の気持ちと、一緒に出かけられる嬉しさでどうしようもなく頬を緩ませながら。
どうやら、お凛さんの演奏会は市内の文化センターで行われるようだった。
彼女の主宰する教室『アンバータイム』の生徒たちと地元オーケストラの演奏家たちとの共演らしい。
日曜日は生憎、晴天とはいかず朝から霧が出ていたが、会場はほぼ満員だった。もっとも、その大半が生徒たちの父兄なのだろうが。
俺と真輝さんはプログラムを手に座席に座って開演を待っていた。
俺はすぐ隣にある真輝さんの気配を意識しながら、パンフレットを持つ手に汗をかいているのを感じていた。
「始まりますね」
彼女がそう言うやいなや、ブザーが鳴り響き、すうっと辺りが暗くなる。落ち着いた声のアナウンスが開演を告げると、拍手が沸き起こった。
やがて、舞台の裾から黒いシックなワンピースを着たお凛さんがマイクを持って現れた。ハイヒールで颯爽と歩く姿が名前の通り、凛としていた。いつもの煙草を片手にウイスキーを傾ける姿とはまるで別人だ。
拍手がおさまるのを待って、彼女がいつもより堂々とした声で挨拶する。
「皆様、本日はようこそおいでくださいました」
彼女の説明によると、どうやらお凛さんが解説を挟みながら演奏するという、初心者でもわかりやすい構成のようだ。クラシックなんてほとんど知らない俺にはありがたい。
もう一度プログラムに目を通すと、バッハやモーツァルトといったクラシックだけでなく、映画音楽もあるし、民謡まである。プログラムの終盤には演奏者の欄に、大地の名前もあった。
プログラムはつつがなく進行し、やがて大地の出番がきた。なんだか、こちらまで緊張してくる。
大地が登場したとき、俺と真輝さんは思わず顔を見合わせて大きな拍手で迎えた。
この日の大地は黒い細身のスーツで、ネクタイをしていた。板前の姿とも、私服とも違う姿は、堂々としていて、さすがはお凛さんの孫だという印象だった。あんなに似ていないと思ったはずなのに、ステージでの面構えがやっぱり似ていたんだ。
ベートーベンの弦楽四重奏曲を奏でる大地は、輝いていた。
真剣で真っ直ぐな目、そして物思いに耽るような口元に、思わずどぎまぎする。力強く、かつ繊細なボウイングと滑らかな指の動きが圧巻だ。素早くかかるビブラートが音色に奥深さをもたせている。曲を知らない俺までうっとりと聞き惚れてしまった。
あいつ、かっこいいな。大地の姿に、素直にそう思えた。
好きなものに真っ直ぐ立ち向かう大地に、俺はいつしか拳を握りしめていた。
心に決めたんだ。
大地みたいに真っ直ぐに、真輝さんに向き合おうって。
地の底から沸き起こるような、ベートーベンの情熱の渦が俺を呑み込んでいる。激しく熱を帯びた旋律は、まるで俺への祝福と激励のようだった。
演奏会から帰る途中、真輝さんがにこやかに言った。
「大地、かっこよかったですね」
「はい」と、俺は素直に頷く。
「料理人のときもかっこいいけど、今日は見違えたなぁ。自分の道を選んだ人ってなんていうか輝いて見えますよね。いいなぁ」
「ベートーベンって良いですね。私、今までピアノソナタくらいしか聴いたことなかったんですけど、カルテットも聴いてみようかな」
嬉しそうに真輝さんが言う。
「俺はピアノソナタって『月光』くらいしか知りませんね」
「あら、私は『テンペスト』が好きですよ」
「テンペスト?」
「嵐という意味です。シェイクスピアにも同じ名前の作品があるんで、聴いたんですけど、かっこいい曲でしたよ」
「真輝さんってシェイクスピアが好きなんですね」
「はい。実は高校生のときにシェイクスピアの『ソネット』に憧れて」
即座に『ソネット、ソネット、ソネット……』と脳内で繰り返す。そんな俺を見透かしたように、真輝さんがふっと目を細くする。
「興味があればお貸ししますよ」
「え? いいんですか?」
パッと顔を輝かせた俺に、彼女はたまらず声を上げて笑った。
「覚えておいて千里ちゃんにあとで詳しく訊こうと思ったでしょう?」
「どうしてわかるんですか? 俺ってわかりやすいかな?」
「顔に出ますよね、尊さんは」
「バーテンダーという職業柄、そのへんをいい加減なんとかしなきゃとは思うんですけれど」
「あら、そこが尊さんのいいところですよ」
「そうでしょうか。なんでもさらけ出すのはちょっと無防備なような……」
俺は苦笑したが、ふと眉尻を下げた。
「まぁ、今はいいか。相手は真輝さんですからね」
途端に、真輝さんが耳まで赤くなった。それを見ていると、胸がじんわり温もるのを感じた。
無性に今、彼女の手を取って歩きたい。
俺は数秒後の自分たちを想像した。手を握りながら歩く俺たちを。
ためらったが、耳に残るベートーベンの旋律が背中を押してくれた。
俺は思い切って、真輝さんの右手を取った。冷たい風でかじかむ指先で、彼女の手を握る。
真輝さんは驚いたようだったが、振りほどくこともしなかった。俺たちはそのまま歩き続けた。何も言わず、二人で肩を寄せながら琥珀亭への道を行く。
「少しずつでいいですから」
琥珀亭が見えてきた頃、俺は緊張で擦れた声で言った。
「俺に慣れてください」
真輝さんは何も言わず、頷いた。ただひらすら、愛おしかった。
真輝さんが貸してくれたシェイクスピアのソネットは、思ったより読みやすかった。ソネットとは十四行でできた詩のことを言うらしい。
自分の中に渦巻く想いを言葉にできる才能に感嘆し、同時にこれだけの熱情を抱いたことを羨ましくも思う。百三十番の詩から伝わるものはすっかり俺をシェイクスピアの虜にしてしまった。
でも一番心にひっかかったのは七十四番だ。自分が死んでも決して取り乱すなと愛する人へ言う詩人に、心を打たれた。
肉体なんて死んでしまえばウジ虫の餌にすぎない。形見となった詩を見ればきみへ捧げた至上のものがいつでもわかる。そしてそれはきみのもの。
そして、最後にこう言うんだ。
「肉体に価値があるのは、魂が入っているからだが、魂とはこの詩のこと。そして、これはきみのもとに留まる」
彼女は正義さんを亡くしてから、このソネットを読み返しただろうか?
俺は目を閉じて想う。
真輝さんはきっと、この琥珀亭に正義さんの魂を感じたんだ。だからこそ、この店を畳まなかった。
だったら正義さん、俺はあんたと一緒に彼女を笑顔にしていこうと思う。
この琥珀亭で。
嫉妬しないって言ったら嘘になる。じれったいときだってある。暁さんみたいに「俺を見てよ」って言いたくもなる。
けれど、いつか彼女は俺の中にある、正義さんに似ていない、俺だけの部分も好いてくれると信じている。
だってさ、俺は、頭の中でリアルに想像できることは大抵叶うって信じているんだ。
翌日は深い夜霧だった。ちょっと先も見えない有様で、車通りも少なかった。
「今日のおすすめカクテルはウイスキー・ミストにしましょうか」
そう言って、真輝さんは黒板に本日のおすすめを書いて外に出した。
「でも俺、ウイスキー・ミストって作ったことないんですけど」
「簡単ですよ。オールドファッションド・グラスにクラッシュド・アイスを詰めて、ウイスキーを注いで、レモンを搾っていれるだけです。あとはストローを二本さしてくださいね」
「わかりました」
それから客足はなく、店内のBGMだけが響いていた。琥珀亭のBGMは曜日でジャンルが違う。ジャズだったり、クラシックだったり、洋楽だったり。今はハービー・ハンコックの『カンタロープ・アイランド』が流れていた。
「そういえば、ソネットを読みました」
真輝さんがグラスを磨く手を止めた。
「どうでした?」
俺はその質問には答えず、逆にこう尋ねた。
「真輝さんは、正義さんが亡くなってからソネットを読み返しましたか?」
突然出てきた名前に彼女はたじろいだが、やがて「はい」と頷いた。
「正義もソネットは好きでしたから」
「正義さんは何番がお気に入りでしたか?」
「......確か、十八番です」
「俺もです」
嘘をついた。目を丸くする彼女を優しく見つめた。
知らないでしょう? 俺だって相当ずるい男なんですよ?
「真輝さん、俺はやっぱり正義さんに似てますよ。だから、安心してください。あなたは俺をもっと好きになります」
「すごい自信ですね」
「はい。でも時が経てばわかります」
俺は窓を見た。
「この霧みたいに先が見えなくても、俺はあなたとここでずっと笑って過ごしてるところを簡単に想像できますよ。霧はいつか晴れるし、足を踏み入れてしまえば、目の前のものくらいは見えるでしょ?」
そっと、真輝さんに歩み寄る。
「ね? こんなに近くにいられます」
真輝さんが耳まで真っ赤になっている。初めて赤い月の下で出逢ったときのように。
「私......私でいいんでしょうか?」
「またそういう、ずるいことを。答えなんて言わなくてもわかってるでしょう?」
俺が笑うと、真輝さんがつられて笑う。
「そうですね。本当、そう」
真輝さんははにかんだ。
「尊さん、私が寝込んだとき、唇を触りましたよね?」
「え、気づいてたんですか?」
今度は俺がたじろく番だった。あたふたしていると、彼女がくすくす笑う。
「あのときは、うろ覚えで夢かと思いました。けれど朝起きたとき、お粥が作ってあって。冷蔵庫にはヨーグルトがあって、メールも入ってて。すごく......安心したんです」
「あれくらい、別にたいしたことじゃないですよ」
「ううん、そうじゃなくて。誰かが私を大切にしてくれることが嬉しいって素直に感じたんです。......ありがとう」
真輝さんが笑った。今まで見た中で一番の笑顔で。
俺はそっと細い体を抱き寄せて「こちらこそ出逢ってくれて、ありがとう」と呟く。この手の中に『赤い月のひと』がいるなんて夢みたいだ。でも伝わる温もりが夢じゃないことを教えてくれた。
「俺と過ごしてくれて、ありがとう」
やがて、真輝さんがおずおずと言った。
「尊さん、お願いがあります」
「なんですか?」
「今年の墓参りは一緒に行ってください」
「......わかりました」
霧は俺の想像以上に濃いかもしれない。だって、死んだ人には敵わないところだってあるんだ。時がたつほど思い出は濾過されて、美しいものだけが残っていく。正義さんの影は手強いだろう。
それに、真輝さんは母親の影にも縛られている。はっきり言って、そのことで俺にできることは何もないように思えた。寄り添うことくらいしか思いつかない。俺は無力だ。
けれど、いつでも目の前に彼女がいれば、一緒に歩いて行ける。まずその一歩が踏み出せることが、明日を作るんじゃないかと信じているんだ。
ソネットにこめた想いを抱きながら。
そう、霧の向こう側に行くために。
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